第二章 彷徨編

第28話 漂泊(一)

「……きょう……きょうってば――」


 自分の名を呼ばれていることに気づいて、少女ははたと背後を振り返る。

 顔の半分を後ろに向けたところで、わずかな距離を隔てて立っているもうひとりの少女と視線がぶつかった。

 年の頃はどちらも十四、五歳といったところ。

 背格好も年齢もさほど違わない二人だが、その違いは一目瞭然だった。

 ”杏”と呼ばれた少女が質素な茶染めの衣服をまとっているのに対して、もう一方の少女の服は上下ともにあざやかな梔子色くちなしいろに染め抜かれているうえ、袖口には花弁をあしらった繊細な刺繍がほどこされている。

 対照的なのは色柄だけではない。茶染めのほうはすっかり着古してくたびれているのに対して、梔子色のほうはまだおろしたてらしくハリのある風合いを保っている。

 衣服が身につける人間の素性を反映するものだとすれば、それは二人の立場の差をこれ以上ないほど如実に表わしていた。

 

「やっと気がついた? さっきから何度も呼んでいたんだけれど」

「あっ――ごめんなさい。お嬢さま」

「べつに謝らなくていいわ。なんだから、しっかりしてちょうだいね」


 そっけなく言って、”お嬢さま”は、杏のほうにつかつかと歩み寄る。

 杏はしばらくなにかを思案するように視線を泳がせていたが、やがてためらいがちに口を開いた。


「私になにかご用ですか? 翠玉すいぎょくお嬢さま」

「べつに……ただ、あなたとお話したいと思って」

「私と?」

「この場所にあなた以外に誰がいて? 馮杏ふうきょう――」


 二人がいるのは、ちいさな川のほとりである。

 周囲には葦と木々が生い茂り、二人のほかには人の気配もない。

 翠玉は、近くの川石のうえに置かれた布束に手を伸ばすと、たっぷりと水を吸ったそれをいかにも重たげに持ち上げる。


「本当に毎日ご苦労さまね」

「平気です。もう慣れましたから」

「もう一年になるかしら。あなたたち兄妹きょうだいがうちの農場に来てからとっても助かっているわ。最初は二人ともあんまり不器用で驚いたけれどね」


 言って、翠玉はくすくすと屈託のない笑い声を立てる。


 布は織り上がったばかりの着物である。川の流水にしばらくさらすことで、最初は黄色みがかっていた布地は見違えるほど白くなるのだ。

 市場で高値をつけるためには不可欠な工程だが、けっして楽な仕事ではない。

 いまのように暖かい季節ならいいものの、真冬ともなれば、川水に浸けた手指は一瞬にして感覚を失う。

 つらいのは、仕事の最中だけではない。

 水を吸った皮膚は乾燥とともにひび割れ、仕事が終わるたびに豚のあぶらをたっぷりと塗り込んでおかなければ、ぱっくりと開いた傷口から血が吹き出すほどなのだ。


 はじめてこの仕事を言いつけられたとき、杏は新参者の自分への嫌がらせではないかと疑ったほどだった。

 だが、あまりの手際の悪さを見かねたおかみさん――翠玉の母が、杏に代わってほとんどの仕事を片付けたことで、それが誤解であったことが分かった。

 いまでこそ富農の妻という立場に収まっている彼女だが、若いころは機織り女の見習いとして、両手が血まみれになるまで酷使されたという。

 みずからの身体を痛めつけるような過酷な労働は、農村ではいたって当たり前のことなのだ。

 男も女も、老いも若きも、そうしなければ日々の糧にありつくことさえ出来ない。

 嫌がらせなどという発想は、言ってしまえば世間知らずの証明であった。

 農場の一人娘である翠玉がその種の労働から遠ざけられているのは、自分たちとおなじ苦労をさせたくないという両親の気遣いゆえなのだ。


「……そういえば、今日は馮克ふうこくの姿を見かけないわねえ」

「兄さんなら、旦那さまのお指図で今朝から街の市場に行っています。夕方までには戻ると言ってました」

「ふうん――」


 翠玉は、いかにも面白くないといったふうに唇を尖らせる。

 杏にもの真意は薄々分かっている。

 彼女が本当に話をしたいのは、自分ではなく兄のほうなのだ。

 身も蓋もないことを言えば、杏はせいぜい兄との橋渡し役にすぎない。

 だからといって、一介の使用人にすぎない杏にとって、雇い主の娘を無下に扱うことなど出来るはずもない。

 ひとまずは適当に話を合わせ、飽きてどこかに行ってくれるのを願うだけだった。


「あの、お嬢さま? 兄になにかお言付けがあるなら、私から伝えておきます」

「ありがとう。でも、そこまでしてもらうほどのことじゃないの。用件は私の口から伝えるわ」


 気遣わしげに問うた杏に、翠玉はにっこりと微笑む。

 田舎にはめずらしい、整った顔立ちの娘であった。多少目が離れていることを除けば、都会の社交界でも十分に通用するだろう。


「私が家の中に入れられてしまう前に帰ってきてくれればいいんだけれど――」


 嫁入り前の娘は、親の監督下に置かれるのが七国の常識である。

 比較的ゆるい家でも、いったん日が落ちれば翌朝まで娘を自室に閉じ込めるといったことは珍しくない。翠玉もそうした例に漏れず、夜になれば自宅の敷地内であろうと自由に出歩くことは許されていないのだった。

 もし日没までに馮克が戻らなければ、その日は彼と言葉を交わすどころか、顔を見ることさえ出来ないということだ。思い焦がれる年頃の乙女にとって、その時間は永遠にも等しく感じられるはずであった。


「大丈夫ですよ、お嬢さま。兄は寄り道をするような人ではありませんし、きっと夕暮れ時までには戻ってきます」

「……本当?」

「妹の私が言うんですから、間違いありません」


 今度は杏が微笑む番だった。

 その玲瓏な顔貌を見て、翠玉はおもわず息を呑んでいた。

 日々の労働で薄汚れてはいるが、ふとした拍子に杏が見せる表情は、まるで別世界の住人のような美しさと気品に溢れている。

 幼いころから村一番の美人と褒め称えられてきた翠玉だが、そんな一瞬を目の当たりにするたび、言いようのない敗北感に苛まれるのだった。

 杏は自分の美しさをひけらかすどころか、むしろひた隠しにしているように見える。同い年の娘として、その心理は翠玉にはどうにも解せなかった。


 解せないといえば、兄である馮克と杏がまるで似ていないこともそうだ。

 ずいぶん前から気になってはいるが、実際のところ二人が血の繋がった兄妹なのかどうか翠玉には分からない。

 親族の込み入った事情に立ち入ることは、たとえ使用人が相手でも憚られたのだった。

 分かっているのは、一年ほど前に彼らがこのそう家の門戸を叩き、農場に住み込みで働かせてくれるように願い出たということだけだ。


「翠玉お嬢さま――どこにいらっしゃるのですか――」


 と、どこからか大声で翠玉を呼ぶ声が聞こえてきた。

 屋敷で働いている小間使いの女であった。先ほどから翠玉の姿が見えないことで、心配した父親が探しにやらせたのだろう。


「いけない。私、そろそろ行かなくちゃ。じゃあね、杏。また二人でゆっくりお話しましょう。今度はお菓子を持ってきてあげる」

「ええ――楽しみにしています」


 小走りに駆けていく背中を見送って、杏はほっと安堵の息をつく。

 だしぬけに話があるなどと切り出されれば、どうしても緊張せざるをえない。

 今回は杞憂に終わったが、のことを考えると、杏は自分でも抑えきれないほどの胸騒ぎに襲われるのだった。

 油断は禁物だ。は、明日にも訪れないともかぎらないのだから。

 何があろうと、自分たちの正体はけっして誰にも知られてはならない。


――この名前にも、いい加減に慣れないとね。


 杏は自分自身を落ち着かせるように深く息を吸い込むと、中断していた仕事の続きに取り掛かった。


***


 六月である。

 天紀てんき七七一年も半ばをすぎようとしている。

 成夏国が滅び去ってから、すでに二年あまりの歳月が流れている。

 たった二年。悠久の歴史において、それはまばたきをするほどのわずかな時間にすぎない。

 そのあいだに、七国の勢力図はおおきく変貌を遂げていた。


 二年前――。

 あらたにボウという国号を掲げ、みずから皇帝と称した朱鉄がまっさきに行ったのは、誰もが予想だにしなかった政策だった。

 国の全権を掌握した朱鉄は、国境地帯の十五郡を華昌国かしょうこくにあっさりと割譲したのである。

 華昌国は言うまでもなく成夏国にとって最大の宿敵であり、長年にわたって激戦を繰り広げてきた因縁の相手だ。中原のニ大国は、正式な国交すら久しく絶えている。

 突然の申し出に面食らったのは、当の華昌国にほかならなかった。喉から手が出るほど欲していた成夏国の領土が、まさか血を流すことなく手に入るとは、実際に交渉が始まってもなお信じがたいことであった。


 むろん、朱鉄もむざむざ敵国に領土を差し出した訳ではない。

 領土の割譲と引き換えに、両国は絶対不可侵の約定やくじょうを結ぶ――それが朱鉄の提示した条件だった。

 もともと華昌国の敵愾心は、成夏国王である夏賛かさん一人に向けられていたのである。

 かつて夏賛の命を受けた成夏国軍に攻め込まれ、一時は滅亡の淵にまで追いこまれた苦い経験は、当時まだ少年であった華昌国王・昌盛しょうせいの心に深い傷跡を残した。

 彼は先代の国王である父をはじめ、兄や従兄弟といった血族をことごとく成夏国とのいくさのなかで失っている。

 男たちだけではない。早逝した母に代わって自分を傅育してくれた祖母と姉、そして許嫁――凄惨を極めた戦は、昌盛の愛する人々を容赦なく奪っていった。

 もし夏賛が戦を打ち切って撤退していなければ、彼自身も剣刃の露と消えていたはずであった。

 からくも戦乱を生き延びた少年は、長じてからもその憎しみと恨みを忘れることはなかった。それどころか、月日を経るごとに怨恨はいっそう骨髄に徹し、王の面前で成夏国との和平を口にした者は、たとえ重臣だろうと即座に斬り捨てられるというありさまだった。

 成夏国を滅ぼすことは昌盛の生涯の目標となり、戦によって荒廃した華昌国を再興する最大の原動力にもなった。


 夏賛が弑逆され、成夏国が滅び去ったという一報に触れたとき、昌盛の胸にはいかなる感情が去来したのか。

 自分の手で成し遂げるはずだった目標を他人に奪われた悔しさか、生涯をかけて立ち向かうはずだった大敵を失ったむなしさか……あるいは、その両方であったのかもしれない。


 とまれ昌盛にとっては、もはや戦うべき理由は消え失せたことになる。

 憎悪してやまなかった成夏国はすでになく、その旧領を継承したボウ帝国は、衣鉢を継いでいるとはいえ別の国家である。

 それでも朱英しゅえい柳機りゅうきといった旧成夏国の名将を擁する以上、武力衝突に及べば華昌国はかならず大敗を喫する。人材面において自国が劣後していることは、昌盛自身が誰よりもよく知悉しているのだ。

 そのような状況での和睦の申し出は、華昌国にとってまさしく渡りに船であった。

 主君の顔色を伺って右顧左眄うこさべんする重臣たちにむかって、昌盛はなかば投げやりに約定に同意することを宣言したのだった。

 結果的には、この判断が七国の運命を決めたと言っても過言ではない。


 最大の脅威であった華昌国との和睦が成ったことで、朱鉄は後顧の憂いなく兵力を動かす自由を得た。

 昴帝国が最初に矛先を向けたのは、もうひとつの隣国である鳳苑国ほうえんこくであった。

 もともと中原の三ヶ国のなかで最も弱劣な鳳苑国は、成夏国と華昌国のどちらかと同盟を結ぶことで命脈を保ってきたのである。当代の国王・苑資えんしが夏賛の娘を娶り、成夏国との友好関係を維持することに腐心してきたのも、弱小国としての生存戦略の一環だった。

 その成夏国が滅亡したことで、鳳苑国が拠って立つべき地盤もあっけなく崩壊した。

 成夏王の子女を正室に迎えている以上、いまさら華昌国と手を結ぶことも出来ず、鳳苑国は中原においてただ一国で孤立する格好になった。


 窮地に追い込まれた国王・苑資は、主君殺しという悪逆をおこなった朱鉄を激しく糾弾し、華昌国を除く諸国に大同盟を呼びかけた。あわよくば旗振り役である自分が諸国の盟主に収まり、天下に面目を施そうという腹づもりであったことは、あえて言うまでもない。

 昴帝国にとって、鳳苑国の存在は無益どころか、もはや一日たりとも生かしてはおけない害毒の源となりつつあった。

 やはり成夏国と友好関係にあった海稜国かいりょうこくや、革命によって成夏国に嫁いでいた愛娘を失った延黎国えんれいこくが苑資の呼びかけに応じる素振りを見せたことが、皮肉にも鳳苑国を破滅させる直接のきっかけになった。


 各国の動向を察知した朱鉄の決断は迅速だった。

 天紀七七十年の七月、なんらの事前通告もないまま、怒涛のごとく鳳苑国に攻め入ったのである。

 各国は王族の子弟を人質として交換するのが慣例になっているが、新興の昴帝国にはその種の桎梏は一切ない。旧成夏王家に連なる人間がみせしめに殺されたならば、朱鉄にとってはむしろ望むところなのだ。

 兵士や兵糧にしても、むろん天から突如として降って湧いた訳ではない。すべては革命のはるか以前から、来るべき戦争のために朱兄弟が進めてきた準備の賜物だ。

 朱英に率いられた十五万の主力は、雪崩を打って鳳苑国に殺到した。

 さらには大将軍・柳機の指揮のもとで四驍将がそれぞれ数万の手勢を率いて国境を侵し、鳳苑国は開戦劈頭にして八方塞がりの形勢に追い込まれた。


 当初、鳳苑国は朱英と彼の主力軍だけに的を絞り、平野部での大会戦によってこれを撃砕するつもりであった。

 小国とはいえ、各地の兵力を糾合すればゆうに三十万を超える。

 昴帝国軍はといえば、後方の柳機は動く気配を見せず、朱英の他には国境を鼠のごとく駆け回る小勢がいるだけだ。陽動や攪乱以上のことが出来るとも思えない。

 いかに朱英が天下に並びなき軍事の天才だろうと、二倍の戦力でかかれば何ほどのこともない……。

 そんな苑資の目論見は、夢想のまま水泡に帰した。

 彼の不明を責めるのは酷というものだ。

 わずか数万の小勢によって大戦略が崩壊するとは、誰に予想出来ただろう。

 昴帝国の誇る名将は、朱英と柳機だけではなかったことを、苑資は知らなかった。

 いずれ劣らぬ知謀と武勇を誇る四驍将しぎょうしょう――黄武おうぶ蒯超かいちょう鍾離且しょうりかつ漢銀かんぎんの四人によって、鳳苑国軍は合流するまえに次々と撃破されていったのである。

 夏賛の下ではひたすら防戦に徹するばかりだった将軍たちは、初めて思うさま暴れることを許され、そのすぐれた武略を遺憾なく発揮した。寡兵であることは軍を動かすうえでなんの妨げにもならず、それどころか、大軍には真似の出来ない敏速にして緻密な用兵を可能たらしめたのだった。


 鳳苑国側は司馬凖しばじゅん陸芳りくほうといった武将がめざましい奮闘を見せたものの、いったん傾きはじめた戦局を立て直すには至らなかった。各地で戦線そのものが崩壊していくなかで、局地的な勝利など一時の気休めにもならないのだ。

 結局、鳳苑国の野戦軍がことごとく潰乱したことによって、大規模な会戦を待たずして戦争の趨勢は決したのだった。


 ほとんど無傷で兵を進めた朱英軍が王都・鳳陵ほうりょうを包囲したのは、開戦から二ヶ月後の九月のことであった。

 苑資は籠城の構えをとったが、それが悪あがきにすぎないことは誰の目にもあきらかだった。

 籠城戦とは、外部からの救援や、敵の兵糧切れといった将来の展望があって初めて意味をなすものだ。

 裏を返せば、救援の望みがなく、敵が撤退する可能性もないとなれば、籠城はいたずらに破滅を先延ばしにする以上の意味を持たない。

 一時は大同盟に加わるかと思われた海稜国と延黎国は、昴帝国の桁違いの強さにすっかり戦意を喪失している。鳳苑国は完全に見捨てられたのだ。

 絶望の淵に追いやられた苑資は、正室である夏王妃や一族とともに毒をあおり、無念のうちに世を去った。

 成夏国の滅亡からわずか一年たらずのあいだに、鳳苑国までもがその後を追うようにして地上から消え去ったのである。

 昴帝国は旧鳳苑国領を自国に編入し、その版図はいよいよ中原の大半に及んだ。


 祖国に続いて、逃げ延びるべき国をも失った夏凛は、まだ生き続けている。

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