第29話 漂泊(ニ)
蒸し暑い日だった。
まだ六月に入ったばかりだというのに、日差しには早くも真夏の気配がある。
市中を行き交う人々の額にも汗が光っている。風はなく、大地に滞留した人いきれが、暑さにいっそう拍車をかけているようであった。
華昌国との国境に点在する
都とはいっても、さほど大きな
どこにでもある、ごくありふれた地方都市であった。
ぬるま湯のようなけだるさに支配された昼さがりの路地を、一人の青年が歩いていく。
精悍な面差しの青年である。
多少やつれてはいるが、不思議と貧相な印象はない。
余計な贅肉がこそげ落ちた逞しい肢体には、力強い生命力がみなぎっている。
しぼんだ革袋を肩にかけたまま、青年は脇目もふらずに歩きつづける。
通り沿いに並んだ酒場や娼館など、もとより眼中にないとでもいうように。よどみない足運びは、なにかに急き立てられているようでもあった。
やがて、街はずれの十字路に差し掛かったとき、ふいに青年の背後から声がかかった。
「もし、そこの兄さんや――」
青年は足を止め、すばやく声の聞こえたほうに身体を翻す。
二本の道が交差する角のひとつに、粗末な小屋が建っているのがみえた。
小屋とはいうものの、実際は地面に突き刺した木の棒に、ぼろ布を架け渡しただけのちいさな
青年を呼び止めた声は、その奥から投げかけられたらしい。襞みたいに折り重なった布のために、外から内部の様子を窺うことはできない。
「ちょいと寄っていかんしゃい」
ひどい嗄れ声であった。
枯木同士をこすり合わせれば、あるいはこんな音が生じるだろうか。
声色から、かなり高齢の女性らしいことはかろうじて分かった。
「あいにく、先を急いでおります」
「心配はいらん――金を取るつもりはないわえ。時間もな」
「……」
青年はわずかに逡巡したあと、意を決したように小屋に入っていった。
無視して立ち去ることも出来るが、なぜ自分に声をかけたのかを知りたかったのだ。
小屋のなかには、やはりと言うべきか、ひとりの老婆がぽつねんと佇んでいた。
年齢は百歳に近いだろう。深い年輪が刻まれた茶褐色の肌は、木彫り細工の人形を想起させた。
しきりに着席を促す老婆に、青年は訝しげに問いかける。
「私になにかご用ですか」
「いいから、そこにお座り。顔と手を見せてごらん」
「あなたは……」
「ただの
からかうように言って、葉婆さんはカッカと乾いた笑い声を漏らす。
「せっかくですが、私は占いの類は――」
「まあ、そう言わずにゆっくりしておいき。あんた運がいいよ。あたしが通りすがりの人間に声を掛けるのは、二十年に一度あるかないかだからねえ」
その言葉が真実かどうか、青年には確かめる術もない。
妙なことになった――内心でため息をつきながら、青年は老占い師に身を委ねる。
時間は取らせないという言葉に偽りがなければ、ここはおとなしく言うことに従うのが得策と思われた。
念入りに青年の手相や人相を観察していた葉婆さんは、ややあって、ほうと長い溜息を漏らした。
「ああ、やっぱり思ったとおりだ。兄さん、あんた、ずいぶん変わった相をお持ちだねえ」
「変わった相?」
「おおともよ。あたしは十三歳の時分からこの道一筋だが、こんな相はめったにお目にかかれるものじゃない」
「いったいどんな相なのですか」
「
「弼成?」
「
自信に満ちた葉婆さんの言葉は、青年の胸に少なからぬ動揺を喚起した。
青年は深呼吸をすると、努めて冷静な声で答える。
「見てのとおり、私はしがない雇われ人です。
「たとえいまはいなくても、いつかきっと出会うはずだよ。もしかしたら、すぐそばにいるかもしれない」
「そうでしょうか――」
青年は襟元に手を伸ばすと、ためらいもなく左右に開いてみせる。
「――!!」
次の瞬間、葉婆さんは、糸みたいな目をこれでもかと見開いていた。
青年の分厚い胸の真ん中に、犬を象った奇妙な焼印を認めたためであった
奴隷の烙印――とくに捕虜となった敵国の兵士には、こうした屈辱的な烙印を押すのが七国の慣例だった。
人間ですらない、犬馬に等しい存在だということを、終生に渡って肉体に刻みつけるのである。
「あ、あんた……」
「私は王どころか、貴い身分の御方とは口をきくことも許されておりません。きっと、なにかの間違いでしょう」
先年の
彼らの大半は郷里に戻されたが、その一方で戦利品として売りさばかれ、奴隷に落とされた者も少なからず存在している。
青年がそのような兵士たちの成れの果てであったとしても、なんの不思議もないのだ。
「あんたの身分がなんだろうと関係ない。自慢じゃないが、あたしの占いは外れたためしがないんだ。兄さん、あんたがこの世に生まれてきた
「心に留めておきましょう――」
青年はさっと踵を返すと、一陣の風みたいに葉婆さんの目の前から消えていた。
「あら、もう行っちまったかえ……」
静寂を取り戻した小屋のなかで、葉婆さんはふたたびため息をつく。
「年寄りの話は最後まで聞くもんだよ。弼成の相だけならまだよかった。あの兄さんは……」
言いさして、葉婆さんはそれきり黙り込む。
たとえ運命を見通せたとしても、しょせん他人の人生だ。
未来を変えることは出来ない。占い師とは、つねに運命の傍観者でしかないのだ。
とうの昔に分かりきっていることであった。
そういえば……と、葉婆さんの脳裏に、ふいに一片の記憶が浮かび上がった。
二十年ほど前、やはりこちらから声をかけて小屋に招き入れた少年は、今頃どうしているだろうか。
老練の占い師がおもわず言葉を失うほどに完璧な帝王の相を持った、妖しくも美しいあの少年は――――。
***
百戸ほどの家々がひしめき合うちいさな村にあって、
家長の
いまでは一年を通して三十人からの使用人を雇用し、季節ごとの臨時雇いも含めれば、荘家の農場にはざっと五十人ほどの人間が働いていることになる。
小川や森を内包する広大な敷地には、主人一家が起居する母屋のほかに、使用人のための簡素な住居が二十棟ほど立ち並んでいる。
一日の仕事を終えた
兄の
すでに夕刻である。
やわらかな夕陽が世界を薄茜色に染め上げている。
それも一時のことだ。もうじき陽が沈み、夜の帳が静かに降りる。
よほどのことがないかぎり、仕事が日没後まで長引くことはない。夜間の作業には照明が不可欠であり、そこまでして得られる利益よりも、行商人から行灯油やろうそくを買う金のほうが高くつくからだ。
夜ははやばやと床につき、朝は雄鶏が鳴くまえに起床して仕事に取り掛かる――それが荘家の農場の……というよりは、辺境の農村におけるごく一般的な生活であった。
最初のころは音を上げそうになった杏も、いまではすっかり順応している。
ここには夜更かしをするほどの楽しみもなければ、それを許してくれるほどの余裕もない。眠ってしまえば、時には懐かしい夢に遊ぶことも出来る。過酷な日々のなかで、それだけがたったひとつの楽しみだった。
杏は戸口に手をかけて、ふいに背後に人の気配を感じた。
振り向かなくても誰かは分かっている。
「ただいま」
「兄さん――おかえりなさい」
振り返りざま、杏は馮克に微笑みかける。
「旦那さまのところにはもう行ったの?」
「ああ。今日の仕事は終わりだ。夜になるまえに戻ってこられてよかった」
「そういえば、
「お嬢さまが……?」
はてと首を傾げた兄に背を向け、杏はあきれたように息を吐く。
「あの人は兄さんのことが好きなのよ」
「まさか……」
「そのくらい、あの目を見ればすぐに分かるわ」
そう――分かりすぎるほどに。
まるで昔の自分を見ているような心地だった。
妹の目には、兄に恋い焦がれる女はあのように見えていたのか。
多少の気恥ずかしさを覚えつつ、それでも、悪い気はしなかった。
他の女の目から見ても魅力的な男だということは、やはりうれしいものなのだ。
そうするあいだに、二人は入り口の敷居を跨いでいた。
後ろ手に戸を閉める。壁や天井に隙間が多いせいか、室内は薄く夕日の色に染まっている。
「……今日一日、変わったことはございませんでしたか。姫さま」
囁くように言って、馮克はうやうやしく膝を突いた。
いや、すでに馮克ではない。偽りの
「ええ。あなたのほうこそ、大丈夫? 李旺――」
「と、申されますと……」
「あなた、なんだか疲れているみたいよ」
「あんまり無理をしないで。あなたになにかあったら一大事ですもの」
「お心遣い痛み入ります」
「あなたは私のたったひとりの臣下なんだから、気遣うのは当然でしょう?」
昔と変わらず生真面目な李旺の返答に、夏凛はくすくすと笑う。
二人だけの逃亡生活に入ってずいぶん経つというのに、李旺は王宮に仕えていたころとまるで変わらない。
夏凛にとって、そんな彼の性質は頼もしくもあり、一方で寂しくもあった。
外で
「ねえ、益城の街にはなにか面白いものはあった?」
「いえ――どこにも寄らずに帰ってまいりましたので」
「せっかく外に出られたんだし、たまには羽根を伸ばしてくればよかったのに」
李旺はゆるゆると首を横に振る。
久々の外出を楽しむどころか、農場に戻るまで気が気でなかったのだ。
雇い主の命令には逆らえないとはいえ、夏凛を一人置き去りにして遠出しなければならないのは、李旺にとって耐えがたいことであった。
「……もうしばらくのご辛抱です」
李旺は押し殺した声で呟いた。
「七月まで待てば、軍の配置が変わります。
「それじゃ……」
「夜闇に乗じて
血縁があるからといって、夏凛を受け入れてくれるとは限らない。
それどころか、いまや中原最大の強国となった
鳳苑国があっけなく滅ぼされたことで、ただでさえ諸国は戦々恐々としているのだ。小娘一人の首で矛先をそらすことが出来るなら、なんと安上がりなことか。
それでも――と李旺は思う。
このまま素性と名を偽り、各地を転々とする根無し草のような生活をいつまでも続けられるはずもない。
逃亡の日々にもやがて終わりが来る――それも、おそらくはそう遠くない未来に。
そのまえに、夏凛だけでも逃さなければならない。
一日でも長く彼女を生き永らえさせる。それこそが李旺にとってなによりも優先すべき目標だった。
夏凛が生きているかぎり、戦いは終わらないのだ。
「……ねえ、李旺。出ていくとき、ここの人たちにお別れを言えるかしら?」
「残念ですが、難しいかと――」
そっけない李旺の返答に、夏凛は寂しげにうつむく。
いつのまにか闇の色が濃くなっている。
暮れなずむ部屋に佇む主従は、ついに気づくことはなかった。
戸板を挟んで立ち尽くす、もうひとりの存在を。
***
黄昏のなかを
母屋まではそう離れていないはずなのに、今日はやけに遠く感じる。
理由は分かっている。あの二人の秘密を知ってしまったからだ。
(姫さま……? あの娘が……?)
翠玉の両目からは、自分の意志とは無関係に涙が溢れている。
(あの二人……やっぱり……)
以前、風の噂に耳にしたことがある。
二年前の変事で成夏王の一族はことごとく滅び去ったが、ただひとりだけ生き延びた姫君がいると。
ありえないことだと誰もが一笑に付したその噂が、まさか真実だったとは――。
翠玉は涙を拭いながら、強く唇を噛みしめる。
なぜ泣いているのかは自分でも分からなかった。
騙された悔しさのためではない。いまのいままで彼らの正体に気づかなかった自分の愚鈍さを恥じている訳でもない。
とめどもなく涙があふれ出るのは、心底から愛する人の身を案じているがゆえだ。
(このままあの娘と一緒にいたら、
李旺――それがあの人の本当の名前だとしても、そんなことはどうでもよかった。
可憐な顔容にすさまじい鬼気を漲らせ、翠玉はきっと薄闇の空を睨めつける。
そうだ――あの娘だけが死ねばいい。
私の愛する、あの人のために。
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