第26話 浄火(四)
東の城門にほど近い裏路地で、李旺は足を止めた。
大人一人がようやく通れるほどの細い路地である。周囲に人の気配はなく、饐えた臭いが立ち込めている。
夏凛は李旺の腕に抱かれたまま、目覚める素振りもない。
やすらかな寝顔を隠すように巻かれた布きれは、たまたま通りがかった民家の軒先に干してあったものだ。
気休めにしかならないとしても、そうすることで、多少なりとも王女を人の目から遠ざけることが出来る。
李旺は夏凛を起こさぬよう細心の注意を払いながら、壁際からわずかに顔を出し、周囲の様子を窺う。
東門のあたりに目を向ければ、武装した兵士たちが忙しなく行き交っているのがみえた。
――遅かったか……!?
注意深く視線を巡らせながら、李旺は歯噛みする。
朱英の配下の兵であることは間違いない。東門の守備兵はすでに制圧されたのだろう。
東門に味方が残っていたならば、彼らの協力を得て脱出することも出来た。李旺が抱いた一縷の望みは、あっけなく潰えたのだった。
王宮の変事からただひとり生き延びた夏凛を捕らえるべく、朱英は市中だけでなく、城門にも部隊を差し向けていたのだ。
成陽のどこに隠れようと、遅かれ早かれ発見される。
この状況でなおも王女を生かそうとするのであれば、
朱英は李旺の考えを読み、最善手のさらに上を行く手を打ったのだった。
――なんとか奴らの目を欺かなければ……。
焦る心を落ち着かせるように、李旺は深く息を吸い込む。
自分が囮となって敵を引きつけることは出来ない。
いったん別れ別れになれば、生きてふたたび合流出来るという保証はどこにもないのだ。
もし李旺が斃れれば、夏凛は本当に一人になってしまう。運よく城門を突破できたとしても、遠く離れた
二人がともに脱出する方法を見つけ出さなければ、どちらにせよここで夏凛の命運は尽きるのだ。
李旺の顔に焦燥の色が濃くなっていく。
いまこの瞬間も、夏凛と李旺を取り巻く状況は刻一刻と悪化しつづけている。
時間が経過するほど兵士の数は増え、王都からの脱出は困難になる。
これ以上いたずらに時を費やす訳にはいかない。
かといって、軽はずみな行動に出れば、たちまちに敵に発見されてしまう。
――どうすれば……。
と、背後でふいに気配が生じた。
剣柄に右手をかけながら、李旺はほとんど反射的に振り返っていた。
全身の筋肉に緊張が走る。ここまで気配を感じさせずに近づけるのは、よほどの手練であるはずだった。
「驚かせちまったかな――」
振り向きざま、李旺の視界に飛び込んできたのは、異国風の帽子を被った男だった。
「……何者だ!?」
「人に名前を尋ねるときは、自分から名乗るのが礼儀だろ?」
「――」
李旺はいつでも剣を抜き放てる体勢を保ったまま、じっと男を見据える。
男との距離は、およそ七歩あまり。夏凛を抱えたままでは、即座に斬りかかるのは難しい。
みずからの存在を気取らせないほどの使い手となればなおさらであった。
李旺は動揺を悟られぬよう、わざと深く長い息を吐いた。
「おれが何者だろうと、少なくともあんたの敵じゃない。だから、その物騒なものから手を離してくれるかい」
「信用出来るとでも?」
「信じるも信じないもあんた次第だがな」
男は帽子のツバに手をかけると、くいと東門のほうに傾けてみせる。
「やろうと思えば、あそこにいる連中にあんたのことを知らせることも出来る。そんなことをするつもりはないがね」
「私たちのことを知っているのか……?」
「知らないね。ただ、ワケありだってことは見りゃ分かる」
男はいかにも軽薄そうな声色で言うと、くっくと忍び笑いをもらす。
「かく言うおれも、あんたらと同じようにワケありでな。
「……それと私たちに何の関係がある」
「旅は道連れというだろう――こう見えて、困っている奴を見捨てておけない性分でね。あんたにその気があるなら、おれと一緒に来ないか。その娘と一緒に城門を出ようとしていたんだろう?」
李旺は男をまじまじと見つめる。
ツバの広い異国風の帽子を被っているため、顔は見えない。
背格好や声の若さから推測して、年齢は李旺とさほど変わらないだろう。
首筋や手首の白さがやけに目を引く。薄闇のなかにあって、青年の雪膚はうっすらと浮かび上がって見えるほどだった。
「……城門を抜けるのは容易ではないぞ。なにか手立てはあるのか?」
「まあな。出来れば使いたくない手だが、その分確実だ」
青年は帽子の下で不敵に微笑む。
李旺の面上をよぎったのは、一抹の不安と、紛うかたなき希望の色であった。
「さあ、さっさと決めてくれ。いくら手立てがあると言っても、どさくさ紛れに城門を抜けられるのもいまのうちだけだろうからな」
「本当に信じてもいいのか?」
「あんたも疑り深い奴だな。嫌だというなら、べつにここに残ってもいいんだぜ。おれだって無理強いをするつもりはないんだ。そのときは一人で出ていくまでさ」
試すように言って、青年は李旺に近づいていく。
「おれの名は
「私は――」
「名乗りたくないなら、名乗ってくれなくてもいい。こんな夜更けに女の子を担いで逃げ回ってる奴にあれこれ問いただすほど、おれは野暮じゃねえからな」
すでにお互いの距離は四歩にまで縮まっている。
李旺はすでに剣柄から手を離していた。怜と名乗った青年の目から遠ざけるように、夏凛を抱き寄せる。
「ふうん。てっきり駆け落ちかと思ったが……その娘、あんたの恋人って訳じゃなさそうだな」
「私たちはそんな関係ではない」
「だったら、妹か?」
「……そんなところだ」
李旺の返答に思うところがあったのか、怜は意味ありげに頷く。
その拍子にちらと覗いた瞳は、美しい
「どんな事情があるのか知らないが、兄貴ならしっかりその
「言われるまでもない――」
李旺が言い終えるまえに、怜はさっと踵を返していた。
「ついてきな。むこうに俺の馬車が停めてある」
***
時ならぬ緊迫感が、夜更けの城門を支配していた。
門前の広場に詰めかけた兵士たちは、ざっと百人を下らないだろう。
いずれも重厚な甲冑をまとい、手には物々しい武器を携えている。本来の守備兵がせいぜい三、四十人ほどの軽装備の小隊にすぎないことを考えれば、その人数と出で立ちはまさしく異様というほかない。
夜間の通行はきびしく制限されているため、夜明けまで城門の付近は寂然と静まり返っているのが普通なのだ。
騒ぎを聞きつけて集まってきた周囲の住民も、兵士たちの発するただならぬ雰囲気におそれをなし、遠巻きに眺めるだけであった。
そんななかで東門に近づいていく一両の馬車は、いやでも人目を引いた。
二頭立ての質素な馬車である。中原の諸国を行き来する交易商人が好んで用いる型であった。
「そこの馬車、止まれ!」
叱声が飛ぶが早いか、道の左右から十人あまりの兵士が飛び出し、たちまちに馬車の四囲を取り囲む。
「何人たりとも城門を通ることはまかりならん。ただちに引き返せ」
「急ぎの用件なんですがね」
「ならぬと言ったのが聞こえなかったのか」
兵士の一人は剣を抜くと、御者台の青年――怜の胸元に切っ先を突きつける。
「兵隊の旦那、そこをなんとかお願いしますよ。今夜じゅうに成陽を発たないと、あっしの首が飛んじまうんでさあ」
「貴様の事情など知らぬ。それとも、この場で首を斬り飛ばしてやろうか」
「ご冗談を――」
怜と兵士のやり取りを聞きながら、李旺は荷台で息を殺している。
夏凛を抱きかかえたまま荷台に積まれた空箱のひとつに潜り込み、ひとまず安堵したのもつかの間だ。
他に手はなかったとはいえ、初対面の男の言葉を信じてしまったことを、李旺は早くも後悔しはじめている。
「どうしても駄目なんですか? いつもは通してくれるんですがねえ」
むろん、口からでまかせである。
怜が夜の城門を訪れるのは、正真正銘このときが初めてだった。
「普段はどうか知らんが、ならんものはならん。早々に立ち去れ!!」
「いったい何があったんです? 今日はやけに街が騒がしいし、それに王宮のほうで火事があったようですが……」
「貴様には関係のないことだ」
兵士は吐き捨てるように言って、傍らの部下にちらと目配せをする。
それが合図だったのか、数人の兵士が荷台に駆け寄っていく。
「いったい何をなさるんで?」
「積荷を検めるのだ。妙なものを隠しているかもしれん」
「とんでもない。あたしはただの旅の商人ですよ。荷台には
怜はいかにも芝居がかった挙措で懇願してみせる。
「勘弁してくださいよ、旦那。売り物に傷がついたらおまんまの食い上げだ。あっしだけじゃねえ。郷里には四人からのガキと腹のでかい嫁さんが……」
「貴様はそこを動くな。もし妙な動きをしたら、この場で斬り捨てるぞ」
にべもない兵士に、怜は肩をすくめてみせる。
漏れ聞こえてくる会話を耳にして、李旺は身体じゅうから血の気が引いていくのを感じていた。
兵士たちはすでに荷台に上がっている。
彼らが積荷を片っ端から検めていけば、李旺と夏凛が隠れている箱が見つかってしまうのも時間の問題であった。
そうなれば、二人はたちまちに外に引きずり出され、捕らえられてしまうだろう。
あるいは、この場で処刑される可能性もある。朱鉄が成夏王家の血筋を絶やすつもりなら、わざわざ夏凛を生かしておく意味はきわめて薄いのだ。
「結局この手を使うことになっちまったか――おい、あんた」
「なんだ!?」
「いいから、ちょっと待ってろ」
それだけ言って、怜はやおら襟元に手を突っ込む。
そして、しばらく胸のあたりをまさぐったかと思うと、掌にすっぽりと収まるほどの大きさの何かを取り出した。
金の鎖に結ばれたそれは、大ぶりな琥珀をあしらった
「言っておくが、
「早とちりするなよ。誰もあんたにくれてやるとは言ってないぜ」
怜はすげなく言うと、首飾りに指を当てた。
内部に小さな蝶番が仕込まれていたらしい。二枚貝が開くように、首飾りはかちりと軽妙な音をたてて上下に分かれた。
「目ん玉ひん剥いてよく見な」
怜に言われるまま、兵士はずいと首を伸ばす。
やがて、琥珀の覆いの下に隠されていたものの正体に気づいて、兵士はかっと目を見開いた。
「こ、これは……あなた様は……!?」
「もう分かっただろう。妙な意地は張らずにおとなしく門を開けるのがあんたのためだ。それとも、あんたの一存で
「め、滅相もございません!! おまえたち、早く道を開けんか!!」
さきほどまでの高圧的な態度が嘘みたいに、兵士はすっかり恐懼しきっている。
青ざめた顔で積荷を検めていた部下に荷台から降りるように命じると、そのまま開門の指示を出したのだった。
荷台の李旺には外で何が起こったか知る由もないが、とまれ絶体絶命の危機が去ったことだけは確かであった。
あと一歩というところで、検分の手は李旺と夏凛が隠れている空箱には及ばなかった。もし見つかっていれば、怜が何をしたところで、二人の命運は尽きていたにちがいない。
怜の操る馬車は悠揚と城門をくぐり、やがて城外に出た。
馬車を取り囲んでいた無数の気配が消え失せたことは、空箱に身を隠したままの李旺にも分かる。
夏凛の規則正しい寝息を感じながら、李旺はようやく人心地がついた思いであった。ひとしきり安堵の息を吐いたあと、李旺は自分自身を戒めるように唇を噛む。
まだ何も終わってはいない。
主君、肉親、親友、故郷……。
自分も夏凛も、一夜にして数えきれないほどのものを失った。
その多くは二度と元には戻らないが、それでも取り戻さねばならない。
取り戻すことを諦めたなら、そのときこそ、本当の意味ですべてが終わってしまうはずであった。
この先には王家を再興するための長く苦しい戦いが待っている。勝ち目のない戦いだとしても、もはや後戻りは出来ないのだ。
「おまえとの約束はかならず果たしてみせる。だから、どうか見守っていてくれ、薛……」
その名を口にした瞬間、李旺の頬を光るものが一筋伝っていった。
それは、修羅の道を歩むと決めた男が、人として流す最後の涙であった。
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