第25話 浄火(三)

 静まり返った裏通りに足音が響いた。

 薄闇に包まれた王都を、李旺は脇目もふらずに駆けつづけている。

 ここまでにいくつの辻を通過し、何本の路地を横切っただろう。千切れ飛んでいく景色はひどくあいまいで、そのくせ色彩だけはどぎついほどに生々しかった。

 鎧は身に着けていない。

 祠を出るときに、躊躇いなくその場に脱ぎ捨てていったのだ。

 逃亡にあたって鎧は無用の長物である。その重さが足を鈍らせるだけでなく、敵に見つけてくれと言っているようなものなのだ。

 もともと胸甲むねよろいと肩当てをつけただけの軽装だったこともあり、鎧を捨ててしまえば、市井の闇に紛れるのはたやすかった。

 いま李旺が携えているものといえば、愛用の長剣ただ一振りだけであった。


 正確には、もうひとつ――。

 腕のなかに、相変わらず眠りこけたままの夏凛をしっかと抱いている。

 激しい疾走にもかかわらず、姫君は一向に目覚める気配もない。青年の逞しい腕に身体を預け、至ってすこやかで平和な寝息を立てている。

 家族を失い、王宮を逐われるという悲惨な現実から逃れ、ひとときの幸せな夢を見ているのか。

 疲弊しきった心身を癒やすため、夢すらない深い眠りにたゆたっているのか。

 

 いずれにせよ、李旺にとっては好都合だった。

 もし目を覚ませば、つねに傍らに近侍しているはずの少女がいないことに気づいて、夏凛は半狂乱になって取り乱すにちがいない。

 成陽を脱出する目処が立つまで、敵にこちらの存在を気取られる訳にはいかない。

 この状況を生き延びるためには、悲しみも嘆きも、およそ人間らしい感情のすべてに背を向けねばならないのだ。

 それでも――。


(薛――)


 その名を心で呟くたび、その姿を眼裏に描くたび、李旺の両眼に熱いものがこみ上げてくる。

 もう二度と生きて会うことは叶わないだろう。

 義理の兄妹きょうだいとはいえ、おなじ家で育ち、赤子あかごのころから成長を見守ってきた。

 二人の絆の深さは、血のえにしで結ばれた実の兄妹になんら劣るものではない。


――兄上、姫さまを守ってさしあげてくださいね。


 そう言って、薛は足取りも軽く駆け出していった。

 ふわりと夜風になびいたスカートは、来てはならないと言っているようでもあった。


(結局、別れの言葉を交わすことも出来なかった……)


 言葉は思考の断片であり、外界に露出した心の皮膚はだえである。

 どれほど感情を押し殺していたとしても、言葉には隠しきれない情念がにじみ出るものなのだ。

 人と人が言葉を交わすということは、心と心を触れ合わせることにほかならない。

 なにかを口にすれば、その分だけお互いの覚悟が揺らぐ。

 兄と妹はそのことをどちらともなく察し、また、それゆえに恐れたのだった。


 後悔と謝罪を胸の奥深くに沈め、李旺はひたすらに足を動かしつづける。

 なるべく人気ひとけのない道を選んできたとはいえ、これだけ人口稠密な都会では、誰にも気づかれずに移動することはもとより不可能だ。いまのところ敵との遭遇こそないものの、二人の姿を目撃した通行人は一人や二人ではない。人目を忍んでいたずらに時間を費やすよりも、危険を冒してでも先を急ぐことを李旺は選んだのである。

 少女を抱いたまま夜の街を疾駆する青年の姿は、嫌でも人目を引く。

 夜逃げか駆け落ち、あるいは誘拐かどわかし……。

 ことによっては、すでに朱英配下の軍勢の知るところとなっているかもしれない。

 もし敵方に発見されれば、夏凛を危険に晒すだけでなく、囮になってくれた薛の心意気をも無下にすることになる。

 それだけは、なんとしても避けねばならない。

 何があろうと夏凛を守り抜く。それが兄である自分が妹にしてやれる唯一の手向けであり――なによりの償いでもあるはずだった。

 そうするうちに、黒いいらかの連なりの果てに、うっすらと巨大な影が浮かび上がってきた。

 成陽の表玄関――東の城門であった。


***


 夏凛を探してあわただしく駆け回っていた兵士たちは、祠の前に出た途端、はたと足を止めた。

 というよりは、止めさせられたというべきであろう。

 彼らはふいに目の前に現れたに度肝を抜かれ、我知らず数歩も後じさっていた。


「お、王女――」


 兵士の一人が震える声で呟いた。

 彼らの眼前に佇むのは、絢爛な装束をまとった貴婦人であった。

 まだあどけなさの残る顔容は、幼さに似合わぬ気品を漂わせている。

 少女がまとう尊貴な風格に、居並ぶ兵士たちはすっかり気圧されたようだった。


「夏賛の末娘、夏凛だな? おとなしく同行してもらおう。抵抗すれば容赦は……」


 金縛りが解けたみたいに動き出した兵士たちは、数歩も進まぬうちに、またしてもその場から動けなくなった。


「……無礼者!!」


 夏凛――否、夏凛に扮した薛は、柳眉を逆立てて一喝する。

 当の薛自身、自分にこんな大声が出せたのかと驚くほどの大音声だいおんじょうであった。


「あなたたちは、国王陛下の御名をなんと心得るのか。私の前で我が父の名を気安く呼び捨てることは、断じて許しません」

「王はすでに斃れた。死んだ者に尽くす忠義もあるまい」

「恥を知りなさい、逆賊!!」


 少女の発した怒声に、兵士たちは一様に身体を強張らせる。

 薛はあくまで優雅に一歩を踏み出すと、ゆっくりと兵士たちに近づいていく。

 いま、薛と兵士たちのあいだに充溢するのは、どこまでも冷たく凄烈な鬼気だった。


「我らは逆賊などではない」

「今日まで国王陛下にはかりしれない恩顧を受けながら、玉座に剣を向けて悪びれもしない。これが逆賊でなくてなんだというの!?」

「先に朱英将軍を誅殺しようとしたのは国王ではないか――」

「その場に居合わせた者がいるなら前に出なさい。もし誰もいないというなら、あなたたちは根も葉もない流言に踊らされて弑逆の罪を犯したことになる。軍人の身でありながら国王陛下と成夏国に刃を向けることがどれほど罪深いか、知らないとは言わせないわ」


 武器を握りしめたまま硬直した兵士たちに、なおも薛は鋭い視線を投げつける。

 普段の控えめでおとなしい少女の面影はどこにもない。

 夏凛の姿を借りることで、薛は自分でも驚くほどの力と勇気が沸き起こるのを感じていた。

 自分を殺そうとしている兵士たちを前にしても、薛の胸には欠片ほどの恐怖もない。見えないおおきな力に守られ、力強く背中を押されているようであった。


「あなたたちに命令を下している者も、本当のことなど知りはしないでしょう。国王陛下……父上がそのような非道をなさる方でないことは、この私が一番よく知っています!!」

「だまれ!! おまえたち、さっさとこの娘を捕らえろ!!」

「罪もない者を傷つけ、主君の屍を踏みつけてまで我が身の栄達を望むというなら、好きにしなさい。だけど、これだけは言っておくわ。聖天子の血を引く者を手にかけて、まっとうな死に方が出来るとは思わないことね!!」


 兵士たちは抜き身の剣を構えたまま、互いに顔を見合わせる。

 七国において、聖天子はたんに過去の名君というだけでなく、民衆のあいだで信仰の対象にもなっている。かつて実際の肉体を持って存在した一人の男は、七百年の歳月を経るうちに、人間を超越した存在と見なされるようになったのである。

 それは聖天子の末裔である各国の王が君臨する根拠となっただけでなく、王への反逆を長年に渡って抑制する一因にもなった。

 薛の大喝が引き金となって、兵士たちの胸に素朴な畏れがむくむくと首をもたげはじめた。

 自分たちはとんでもないことをしでかしたのではないか――朱英を救うという一念に突き動かされ、ほとんど熱に浮かされたように行動していた兵士たちにとっては、予期せず冷水を浴びせられたようなものだ。こうなっては、ふたたび熱狂を取り戻すことは容易ではない。


「王女としてあなたたちに命じます。武器を捨てなさい。いまならまだ間に合います――」


 薛が言い終わるが早いか、奇妙な音が一帯に鳴り渡った。

 冷えきった夜気を割るように、パチリパチリと乾いた音が断続的に上がる。

 なにか硬いものを掌に打ち付けているらしい。

 その場の全員が音の生じた方向に視線を向ける。


「いやあ、じつにお見事……大したものだ」


 扇を蝶みたいにひらひらと舞わせながら現れたのは、白貂の長衣コートをまとった麗人であった。

 雪みたいに白い獣毛は、薄闇のなかでいっそうあざやかに映えている。

 背後には複数の気配がある。いずれも武装した男たちであった。

 

陳大夫ちんたいふ、なぜここに……」

「主人の身代わりを努めようとは健気なことだ。しかし、私の目は誤魔化せない」

「私は夏凛よ!! 控えなさい、慮外者!!」

「残念だが、姫さまの姿を借りるのもここまでだ――?」


 陳索はすばやく身体を翻すと、流れるような所作で薛の顎を掴んでいた。

 艶めかしい紅色に塗られた唇を、さらに艶めかしい舌がひと舐めする。

 美しくも淫虐な視線にねぶられるたび、薛の背筋をぞくりと悪寒が走り抜けていく。


「ふん――よくぞと言いたいところだが、しょせん下女だ。夏凛には遠く及ばない」

「放しなさい……!!」

「猿芝居はそこまでにしておくことだ。いったい誰の差し金だ? さては……ふふふ、兄の李旺か」

「兄上は関係ありません!!」


 陳索の顔に酷薄な笑みが浮かんだ。

 もう一方の手で薛の髪をむんずと掴むと、乱暴に顔を引き寄せる。


「まあいい……誰の差し金だろうと関係はないことだ」

「殺すなら殺しなさい……!!」

「そう簡単に殺しはしない。せっかく手に入れた玩具オモチャを壊してしまうのはもったいないだろう? せいぜい役に立ってもらおうか、李薛どの?」

 

 陳索の瞳が炯と光を放つ。

 正体を見破られたいま、薛に抵抗する力はもはやない。

 美麗な貴公子は、糸が切れた人形みたいにぐったりと脱力した薛の身体を引きずっていく。

 しばらく進んだところで、その様子を呆然と見つめていた兵士たちに向き直ると、


「この娘がここにいたということは、夏凛もそう遠くには行っていないはずだ。さっさと探し出して連れてこい。朱英将軍の部下はその程度のことも出来ない無能ぞろいか?」


 心底から軽蔑しきったように吐き捨てたのだった。


(兄上……姫さま……――)


 自分の手足さえ思うに任せず、為す術もない絶望のなかで、薛の頬を一筋の涙が伝い落ちていった。

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