第十八話 センセイあのね?

 凛音お嬢様の容態は、御屋敷お抱え医師の診断によると、特段の異常も見つからなかったので、恐らく知恵熱の類だろう、というものだった。


 さすがにヒヤッとした……。



「ご、ごめんね、凛音ちゃん。刺激が強すぎたよね……ホント、ごめん」


「いえいえ! だ、大丈夫です! ちょっと……む、夢中になりすぎてしまいまして……」



 そう言ってベッドの上で恐縮したように何度も手を振る凛音お嬢様だったが、その笑顔は若干弱々しい。それを見るだけで罪悪感が一気に押し寄せてきて、俺はじきうつむいてしまった。


 この凛音お嬢様は、BLどころかそもそもNLの知識も経験も不足しているであろう箱入り娘なのだ。それなのに……さすがに無謀な行為を強いたことに、ひたすら反省するよりない。



「あの……ですね、センセイ?」


「なあに?」


「お話自体は、凄く面白かったのです! 本ができるまでを分かりやすく説明してくれていますし、お仕事の大変さや苦労がしみじみと分かる良い漫画でしたから!」


「そっか。うんうん」


「でもでも……うぇえっと……。その、お二人の愛に溢れるシーンが、どうにも私には刺激が強かったようで……気が付いたらあのような醜態を晒すようなことになってしまいまして」


「マジで済みませんでした」



 しゅぱっ!

 ディス・イズ・ジャパニーズ・DO・GE・ZA。



「い、いえいえいえ! 私も新しい世界を冒険し終えたかのような、そんな新鮮な気分なのです! あ……あの、ですが、あれでも初級者編、という理解でよろしいのでしょうか?」


「よろしいです。BLの世界はもっと深いのです。ただ、そこまでは『宅検』には必要ないと思うので、ご興味があれば、という感じでいいかなー?と」


「――くはありません」


「……はい?」


「き、興味がなくはありません、と言ったのです……っ! いけませんかっ!?」


「イケナクナイデス」



 凛音お嬢様が火照ほてった顔を平手でぱたぱたとあおぐようにして涼を得んとしているその姿を見上げ、もしかして自分は間違った方向へ彼女を導いてしまったのでは?と激しく動揺し、何故か口調がカタコトになっていた。デ・カルチャーすぎたのか? 異文化接触は細心の注意を払わないといけない。



「ま、ともかく本日の学習はこれで終わりにしますので、十分休養を取ってくださいね」


「はい……」



 そう言って立ち上がり退室しようとしかけたところで、シーツを口元まで引き上げて表情を隠しながら凛音お嬢様が、あの……、とか細い声をかけた。



「センセイ。少し……もう少しだけ、そこにいていただいて良いでしょうか?」


「え? あ、いや、良いですよ。もちろん」



 改めてベッド脇にあった椅子に座り直す。


 でも、特にやることもないので、そのまま目の前に横たわる凛音お嬢様を見つめていると、落ち着かなげに視線を反らされてしまった。そのまま窓の方に視線を泳がせた状態で再び、あの……、と凛音お嬢様は言った。



「私……よく考えたら、センセイのこと、ちっとも知らないな、って思いましたもので」



 ちら、とようやく視線が俺を見た。



「センセイは、三〇〇年も過去の日本から、一人で此処ここにいらっしゃったんですよね?」

「うん。そうだよ」



 正確に言えば、さらわれてきた、だけどね。



「過去の時間には、センセイがいなくなったことで困る人がいるんじゃないんですか?」


「うーん。どうかな? 一人暮らしも長いし、両親に会うのも正月くらいなモンさ。兄弟もいないし、人付き合いもとりわけ得意だったって訳でもないからね。大丈夫じゃない?」


「そういう意味じゃないんですけど……」


「……え? 何か言った?」


「い、いえ! 何でもないです! ただの独り言ですから!」



 みこみこさんには、拉致されたあの日の夕方には戻してくれると約束してもらっているし、休日なのだから仕事関係も問題ない筈だ。別に俺がほんの一瞬いなくなったところで、大騒ぎする奴は何処にもいないだろう。そう思ったら知らずのうちに自嘲気味の苦笑いが浮かんでしまった。



「そんなに面白い奴でも頼りになる奴でもないよ、俺は。ただのつまんないオタクだからね。彼女いない歴イコール年齢の、あと二年後には魔法使いになる運命を背負った二十八歳会社員だからさ。だから、ここでの生活は全然嫌じゃない。むしろ毎日が凄く楽しいくらいだよ」


「そ、そうなんですね! 私も嬉しいです! 良かった!」



 妙ににこにこし始めた凛音お嬢様は、そう言って、うふふ、とはにかんだように笑った。



「私も、今まで男の方とお付き合いした経験がありませんので……あ、良く考えたら、使用人の方以外で、男の方と部屋で二人きりになったのは、こ、これが初めてです……」


「あ。そうなの? ま、そんな感じだよね、凛音ちゃんは。見るからに清楚でピュアだもん。髪もさらさらで綺麗で、何より可愛いし! エージェントさんたちが片っ端から排除してるだけで、ホントはモテモテなんだと思うよ? 俺が高校生の時に出会ってたら、絶っ対好きになってると思うなー」


「かわ……かわいい、ですか。そ、そうですか……」



 もう顔が真っ赤だ。やりすぎたかな。

 あんまり褒めちぎると、また熱が高くなっちゃいそうだ。このへんにしておこう。


 考えてみれば、俺の方も凛音お嬢様のことは良く知らないんだよな。みこみこさん経由で吹き込まれている情報だけが頼りだ。ちょっと聞いてみよう。



「そうそう、『オタク・カルチャー』以外の学業の成績はいつもトップクラスなんでしょ? 運動も得意なんだ、ってみこみこさんから聞いてるよ。テニス部、なんだっけ?」


「そ、そうです! 僭越せんえつながら、私が部長を務めています!」



 こんな状況なので夏休みの間の部活はお休みしてるんですけど……と言い辛そうに打ち明けてくれた。自分は部長なのだから、と最初は意地でも参加するつもりだったようだけれど、親友でもある副部長の弥子ちゃんが、ここは任せて頑張ってね!と言ってくれたんだそうだ。



「でも、センセイの時代とは少しルールが変わっていて、実際の球は使わずにVR技術を使って屋内でやるのですけれど」


「お。それは球拾いしなくていいから、楽そうだね。にしても、部長かー。似合うなー」


「センセイは何か部活動はしていなかったのですか?」



 そう言われて、俺?と自分自身を指さしながら、学生時代を苦々しく思い出した。



「高校時代は美術部だったよ。つっても、実質研究会みたいな活動内容で、言ってみればもうその頃から立派な駄目オタクだった、って訳。部活動には寛容な学校だったからさ、漫画はもちろんのこと、勝手にテレビとプレーヤーまで持ち込んで、アニメばっかり見まくってたんだよ。ま、おかげでこうして凛音ちゃんの家庭教師に任命されるまでになったってとこかな」


「ふふ。センセイらしいですね」


「でしょ? 自分でもよく大学に受かってストレートに就職できたもんだと思うよ。ホント」



 顧問をお願いしていた金井先生には最後までいろいろと苦労をかけっ放しだった。社会人になってから、久々に同窓会で会った時にはひたすら謝りつつ延々お酌をしていた記憶しかない。あの先生じゃなかったら、今頃俺はヒキニートになっていてもおかしくなかっただろうな。


 ひとしきり笑い立てた後、凛音お嬢様は急に悪戯いたずらっぽくジト目で俺を見つめて言った。



「でも……センセイがモテなかったなんて嘘ですよね?」


「うぇっ!? な、なんでそんな情けない嘘かないといけないのさ。ホントだってば」


「そ、そんなの信じられません! だって……あの……」


「告白したこともされたこともないって! バレンタイン・デーにネタで男友達からもらったことはあるけど。それも六人全員から手作りで! まったく、酷いよねー」



 今思い出しても、ぞっ、とする光景だ。


 卒業間近のバレンタイン・デーの日、夕暮れの放課後に空き教室へと呼び出されたかと思ったら、ムサい男が六人もじもじしながら頬を染めて待っていたのである。どういう地獄か。



「あっ……。す、済みません、センセイは『総受け』ってことだったんですね?」


「そういう変な言葉は覚えなくていいです! 気も使わなくていいですから!」



 俺たちはしばらくそんな他愛もない話をしていた。


 やがて話疲れたのか、凛音お嬢様は眠ってしまったので、俺は音を立てないように静かに自分の部屋へと戻ることにしたのだった。




 ◆◆◆




【今日の一問】


 次は、井上雄彦の『スラムダンク』より、ある登場人物の台詞です。□内にふさわしい語句を埋めなさい。


    あきらめたらそこで□□□□ですよ……?


    (私立中学校入試問題より抜粋)




【凛音ちゃんの回答】

『死刑執行』。

『スラム』から貧民街を連想し、『ダンク』から水などにけるを連想したので。




【先生より】

 先生、ときおり凛音ちゃんの豊かな連想力が怖くなります。英単語の意味としては間違ってないのですが、『スラムダンク』はバスケットボールを題材にした青春スポーツ漫画であり、正解は『試合終了』となります。かなり感動的な名台詞だった筈なのですが、一転して殺伐とした印象になってしまいましたね……。



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