第32話 血と雨と ※残酷な描写あり
アリツィヤと、その協力者である少年を逃がしたのちに、ベルクートとルーカは、キアラのもとへとって返した。
キアラとアリツィヤが交わしたという「約束」は果たした。……だが、それゆえに失ったものがある。貴重な時間を浪費してしまった。その間にも、キアラは「王」とともに刻々と魔力を消耗しつつある。
「……間に合ってくれ……キアラ……」
ルーカが呟く。ひどく、弱々しい。
かれの言葉を耳にしつつ、ベルクートは思案していた。おそらくルーカには、残された魔力はもはや無い筈だ。「王」に一撃を与える余力を、かれに望むことは出来ない。それが現実のようだった。
恃みとなるは……己の力のみだ、と。
よろめくルーカを追い越して、いち早くベルクートは駆けた。
己の結界が有効であるうちは、キアラにも生還の目はある……そう、信じたかった。
そして、戻った。
ベルクートの結界と、雷の鎖に縛られて、「王」は苦しんでいるようだった。
さながら罠にかかった猛獣が、必死に逃れようと身をよじらせているようだ。
そして、キアラの姿。
「王」の至近で、かれの力を抑えるための術式を維持しつづけている。
「聖餐」のなかで、すでに両者の魔力のほとんどは失われている筈だった。
どちらかが先に魔力を使い果たせば、その時点でこの無謀な競争は終わる。
勝ってくれ、とベルクートは祈った。
個人差こそあれ、人間の持ちうる魔力量に、さしたる差異はない。それが通説だ。だからこそ、キアラはこのような戦い方を選択したのだろう。だが、それでも、とベルクートは思う。
(もし、なんらかの手段で、「王」がキアラを上回る魔力量を備えていたら)
答えは簡単だ。今の「王」を戒めるものが、ベルクートの結界以外になくなり、そして抵抗手段を失ったキアラが、「王」の眼前に晒される。
そこで、ベルクートの補助が間に合えばよい。さもなくば――
(……『狂王』め……あくまで犠牲を求めるか……)
ただ見ているだけ、という状況は、目もくらむほどの屈辱だった。
そして、ふいに球状の光が途切れた。
天を衝く光の流れが途絶え、周囲はふたたび闇に包まれる。網膜に焼き付いた残像だけが、一瞬前までの光芒を記憶しているかのようだった。
状況の、唐突な停止。それは神の飽食か。
「……キアラ……?」
傍らでルーカは呟き、「王」と妹を凝視する。
果たして、闇の中に崩れ落ちた姿は誰のものか。
闇に目が慣れていくとともに、その全貌が明らかになる。
「…………!」
倒れているのは……キアラだ。力を喪い崩れ落ちたその身体は、ひどく小さく見える。
そして、いまも立つものは……「王」。
「貴様っ!」
ルーカは死力を振り絞り、残れる力の全てをこめた火球を生み出す。
「――『狂王』!」と、ベルクートもまた術式を編む。
ルーカの放った炎は、一直線に「王」へと向かうが、王はキアラの腕を掴み上げ、それを己の眼前にかざして楯とした。
「――クソがぁっ!」
その光景を視認した瞬間、ルーカはためらわずに精神の集中を解いた。余力の全てをこめられた炎は、むなしく空中に四散した。
しかし、ルーカに一拍遅れて完成したベルクートの術式は、キアラに傷を与えずに「王」を撃っていた。
それは、雷でも炎でもない、一条の清らかな霊光だった。ベルクートの両の掌から放たれた光は、曲射砲の弾道のごとくに湾曲し、直接「王」に届いた。
「…………!」
声にならぬうめき声とともに、王はびくんと痙攣した。だが、それでもなお、キアラの腕を掴んだ手は離さなかった。
――そして、ベルクートの霊光を受け止め終えたとき。
「王」の鎧が、ごそりと音をたてて砕けた。
これまでにあらゆる魔術を退けた怖るべき甲冑の、その上半身部分のすべてがアスファルト上に崩れ落ちる。甲冑の下から現れたのは、引き締まった若い肉体だった。あちこちが焼け焦げ、脇腹はベルクートの短剣によって傷ついている。
「……あれが『狂王』か」
ベルクートが呟くと、王はそちらを注視したかのように見えた。
かれの長い金髪は雨露をたたえて、けぶるような艶を放っている。それはベルクートのつくりだした歪んだ空間のなかにあってさえ、犯しがたい高貴さを保っている。
むきだしの裸身を守るものは、もはや存在しない。
(退くか、刃を交えるか)
ベルクートは素早く思案する。呪物の鎧は砕かれた。今ならば有効な打撃を与えることも可能だろう。
だが、「倒しきれるか」。
先に用いた霊光を、再度撃つほどの余裕はあるか……ない。
懐に仕込んだ短刀に霊力をこめて放つか……キアラの肉体を楯にされたなら、彼女の命を奪ってしまう。
ならば、いま優先すべき事はひとつだった。
ベルクートは「王」めがげて駆け出しつつ、ごく短い聖句を編んだ。
短刀を取り出し、そこに霊力をこめるが、放たずに握りしめたままだ。
「――『狂王』よ、そろそろお開きだ。……だが」
ベルクートの鋭い接近に、「王」はキアラを楯としながら、剣の切先を敵手に向ける。
放たれた闇が、ベルクートの側頭をかすめる。
「……だが、帰途はひとりでたどるがいい。二人では多すぎる」
至近にせまったベルクートは「王」の左腕に組み付いた。もがきながら長剣を持て余す「王」の腕に、右手の短剣を鋭く閃かせた。
「――――」
苦痛とも怒りともつかない声とともに、「王」の腕から鮮血がほとばしる。組み合うことで、互いに魔術を行使するだけの余裕を失う。そうなれば、キアラの身柄を奪取することも可能になる――ベルクートは、そう考えた。
「王」の腕を、引き裂くように切り刻む。肉を、腱を絶つ。怖るべき魔術師といえども、その能力は脆い肉体に依って在るものに過ぎない。ゆえに為すべきことはひとつ。
(斬り落とす)
魔力を付与された短刀は、「王」の肉体組織をたやすく破壊する。そして、露出した骨格に白刃を奔らせようとしたとき。
「王」は長剣を逆手に持ち替えて、ベルクートに突き立てた。
「――くっ!」
闇をまとう刃が、ベルクートの脇腹を抉った。いまなお強大な魔力を秘めた闇が、開いた傷口よりじかに流入し、まるで肺腑を押し潰すような苦痛を生み出す。が、痛みに耐えつつも、ついに「王」の骨を深く傷つけることに成功する。
「王」の左腕を、ベルクートは全力で捻り上げた。
ぼきり、という音。余された肉や皮膚を引きちぎりながら――「王」の腕を、奪い去った。
昏倒したキアラの身体を抱えながら、ベルクートは素早く飛びすさろうとした。
だが、そのとき「王」の頭上に、ごく小さな黒点が生じ、それは一瞬にして、かれの肉体を覆うに足る大きさの円に広がった。
「……『狂王』……!」
言いかけたベルクートは、刹那、「王」の表情に目を奪われた。
その顔は。
苦痛を宿すのでもなく。
怒りに歪むのでもなく。
狂気の嗤いを湛えるのでもなく。
ただ、深い水底のような昏さにみちた虚無だけが張り付いていた。
(……何)
ベルクートの視界が、瞬時にして闇に満たされる。
それが何故か、ということが理解できたのは、さらに一瞬ののちのことだ。
右腕がふいに熱を持ったような違和感。
「……ぐ、うぅっ!」
「王」の頭上に広がった闇が、くまなくかれの身体を包み込み、ベルクートの右腕は、その闇に取り込まれたのだ。
弾けるように離れたベルクートがアスファルトに倒れ伏したときには、既に「王」の姿はかき消えていた。己の右腕に目をやれば、肘から先が有り得ぬほどの鋭利さで切断され、そこから血液が溢れだしている。
(……斬られたのではなく、腕だけが……異界に取り込まれたか)
傍らに倒れているキアラから離れ、左手できざむ印のみを助けとして、ベルクートは手早く治癒の聖句を唱えた。傷の疼きがひととき安らぎ、あわせて流血も止まる。
「王」は消えた。
後背に目をやれば、ルーカは力尽きて倒れている。
傍らのキアラは、血と泥に汚れた身体を、血と油と雨水に濡れたアスファルトに横たえている。
アリツィヤとあの少年は、果たして逃げおおせたのか。
「……『狂王』か。アリツィヤの縁者か、あるいは……」
そう呟く。詳細はベルクートの知るところではない。この短い戦いの間、「王」とはただの一言も言葉を交わすことはなかった。ルーカとキアラが目覚めたならば、かれらに事情を問うこともできるだろう。
だが、いまは引き上げるべきだ、とベルクートは思った。
足許には、己が断ち切った「王」の左腕が残されている。
それは、ひどく唐突で、非現実的に思える戦いの、余録ともいえる物だった。
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