第30話 絶望
「――――!」
ちょうど「王」が纏っていた空間のように、それはキアラの身体に、まるで黒く淀みきった薄膜のようにまとわりつく。
そして、不可視の力をもって、キアラを「王」の許へとたぐり寄せる。
ルーカの炎は、無防備になった「王」の身体をしたたかに灼き焦がしているようだった。火焔の直撃を受け、甲冑に包まれた身体はさながら炉心のようだった。だが、王は騎乗した姿勢を揺るがすことはなかった。ただ、黒の空間に引き立てられるキアラを待っているようだった。
「――よき戦いだ。狩るに値する」
業火のなかで、「王」はそう告げた。
苦痛などまるで感じていないような言葉だ。
人肉を焦がす不快な匂いが周囲にたちこめる。
「王」は、たしかにルーカの炎によって灼かれていた。その臭気は、知覚するものに本能的な恐怖と萎縮をもたらす。
闇に捕らえられ、引きずり出されるキアラは、ついに「王」のもとに達する。無口な、だが#靭__つよ__#い少女は、その身を異界へと通じる空間に取り込まれながらも、なお「王」を見据えていた。
「――兄さん!」
キアラが鋭く叫ぶ。
「くそ……今だ! 今すぐに、必ず助ける!」
その声に、ルーカは取り乱しながらも答えた。
「……ごめんなさい、兄さん。もっと早くに……退かなければいけなかった」
その言葉は、ひどく
ルーカは妹を巻き込むことを怖れてか、次なる炎を生み出させずにいる。一方で、誠は何の手出しも出来なかった。
(――だれが「敵」なんだ?)
先ほどまでの敵であったルーカとキアラは、今にも「王」に敗北しようとしている。それを誠が望むなら、このまま放置するだけで良いことは明白だった。
「――アリツィヤ?」
と、誠が彼女に向き直ろうとした時。
アリツィヤは、キアラと「王」の間に割って入っていた。
「アリツィヤ! 危ない!」
「――貴様!?」と、ルーカ。
彼女の焼け焦げた衣服の裾が、キアラを守るかのようにはためく。
熱傷による苦悶をこらえ、アリツィヤは「王」の目前に立ちふさがった。
「王よ、もはや戦う必要はありません。どうか……剣をお収めください」
そう、訴えかける。
誠は、アリツィヤの思念から、そこに揺らめく感情を必死で読み取ろうとした。激しく入り乱れている思いのなかで、際立って強く浮かび上がるものは。
(……哀願、なのか)
アリツィヤの眼前で、「王」はなおも剣に暗闇を纏わせつつあった。その一振りがどのような被害をもたらすかは、今の誠にもはっきりと分かる。アリツィヤの細い身体など、ただの一撃で消え失せてしまうだろう。
あの全き闇の空間は、どのような防禦であれ、おそらく防ぐことはかなわない。魔力の干渉さえ起こすことなく、「存在」を異界に呑み込み、消し去る。そんなものに、アリツィヤはどうやって抗しうるのか。なんの策もなく、ただ「王」の目前に立つことなど、誠には考えられないことだった。
そんな誠の考えをよそに、アリツィヤは諭すように言う。
「――あてどなく彷徨い、戦うものを殺め続けたとしても、……御身が望まれた安らぎの日は、決して訪れることはないのです!」
アリツィヤは、背後のキアラを守るように、水平に剣を構えた。真白き刀身を形づくる加護は、もはや薄れつつあった。
誠には、いまのアリツィヤが逡巡しているのが分かった。
――彼女も、うすうすは分かっているのだ。
もはや、「王」が、刃を収めることなどないことを。
(だが、だからといって、……戦えるか?)
既に、「王」に抗しうる者は、ひとりも存在しなかった。
誠は面を上げ、周囲を見渡す。アリツィヤ、ルーカ、キアラ、そして自分……。魔術師たちの魔力は枯れ、ルーカを除いて、その肉体はひどく傷ついている。そして、ルーカの渾身の攻撃は、すべて苦もなく退けられた。
そして、立ちふさがるアリツィヤは、もはや満身創痍だった。
「王」は、そんな彼女をどう見ているのか。兜に阻まれて、その表情は全く分からない。かれはゆっくりと長い剣を掲げた。刀身は深淵のように淀む闇で満ちている。そして――アリツィヤに向けて、振り下ろした。
刀身から解き放たれた闇は疾くアリツィヤに襲いかかり、その存在を呑み込もうとする。アリツィヤはからくも回避し、体勢を整える。闇は背後のキアラの頭上を飛び越え、重力の影響を全く感じさせない直進の果てに、消えていった。
「王」の、ためらいのない一撃。それはアリツィヤに翻意をもたらすことができたのだろうか。誠は、そうであってほしい……と思いながら、叫んだ
「アリツィヤ、あいつは……もう、敵だ!」
その言葉に、アリツィヤはわずかに誠に視線をよこした。
そこには、未だ抜けきらない躊躇が感じられた。
「――そう、かもしれませんね」
そして、アリツィヤは「王」に、真っ向から向き直り、「御身に弓引くことを、お許し願います」と、ただそれだけを言った。一言の弁解もない。
剣を掲げたアリツィヤは、背後のキアラを守るようにして立つ、キアラは、アリツィヤにそっとにじり寄り、何事かささやく。
「…………」
何を言い交わしたのかは、誠にも分からなかった。だが、アリツィヤが小さく頷いたのを見た。そして、刀身が薄れかけた剣を、まっすぐに「王」に向ける。
その動作と同時に、アリツィヤの思念が誠に届いた。
(誠さん。あなたの魔力を……借り受けさせて下さい)
その願いに、誠は何も答えぬまま己の魔力を分け与えることで答える。この戦いの前に、あらかじめアリツィヤに打たれた術式に沿って、魔力を体外へと放つ。もはや魔力の残りは乏しかった。だが、渡せる限りの魔力を、すべてアリツィヤへと差し出した。魔力とは、すべての生命活動の源だ。使い果たせば破滅をもたらす。
(……だけど、いまはアリツィヤにこそ必要なものだ)
――失うことへの恐怖はなかった。ごく短い交流しかないものの、誠はアリツィヤを「信じる」ことができた。
アリツィヤは誠の魔力を受け取ることで、それを剣に付与する。白い刀身の内側に、ふたたび色鮮やかな魔力の渦が生じた。その力を撃ち込むことができれば、いかに「王」とても、無傷ではすまないだろう。
アリツィヤは「王」めがけて走り出した。地を這うように低く構え、右の体側に引きつけた剣もろともに疾走する。
「王」は、やはり「闇」を顕現させ、迎え撃つ。空中に現れた空間は、水面に垂らした油墨の一滴のように広がる。丁度、アリツィヤの進路を塞ぐように。
だが。
「――ああああぁぁっっ!」
絶叫。それはルーカが魔力を奔らせたことを示す声だった。
余力を振り絞ることで生み出された、極大の火焔。それは彼自身の秘蹟には及ばずとも、いま得られる力としては最大級のものであることが感じられた。
「王」は、その脅威に対処するべく、アリツィヤに向けていた「闇」をもって楯とする。その瞬間、ルーカの火焔が轟音とともに拡がり、「王」を大気もろとも焼き尽くす。球状の轟炎が「王」を包み、その姿は視認できない。だが、アリツィヤはそこに斬り込む。
「やぁぁぁっ!」
アリツィヤの気勢。同時に、炎の明るみさえも制する、魔力が放たれたときの虹色の光が、そこから溢れだした。
やがて炎と黒煙が消え失せたとき、そこに「王」とアリツィヤの姿が現れる。
アリツィヤは剣を取り落とし、倒れ伏している。彼女の意識が消失しかけていることを、誠は知った。
「王」は――なおも、健在だった。甲冑の胴部が砕けてはいるものの、かれは騎馬の上での偉容を少しも崩してはいなかった。
(――ルーカは)
誠が振り仰ぐと、かれもまたアリツィヤと同様に、雨に濡れたアスファルトに沈んでいた。その表情からは意志や気概が完全に抜け落ち、うつろな眼には、淀んだ光がちらついている。そして、苦しげな喘鳴だけが、かれの唇に宿っていた。
精神の汚損が始まっている。それが、魔力を使い果たした者の末路だった。
キアラは、いまもって「闇」に捕らわれたままだ。
誠は、これより数瞬後の手立てを考えようとして――諦めた。
(……何も……出来ない)
手詰まり。為すべき手段は全て為く、拾える途は全て拾った。だが、それら無数の鍵によっても開かぬ扉が、目の前にある。
視界はかすみ、焼け焦げた肉体の痛みだけが、ありありと蘇る。
ふと、誠は己の手足を見た。
(――駄目だ、動かない)
気づいてみれば、酷いものだった。手指の皮膚は焼け焦げてこわばっている。逃れる際に、じかに火焔を受けてしまった脚部などは、炭化しかけた表皮に、衣服の化繊が溶けてべったりと絡んでいる。
ひどく、非現実的な光景だった。ほんの数日前までの暮らしからは、まるで想像もできないほどの傷だ。過大な苦痛は、もはや麻痺しきってしまい、知覚できない。
止まりかけた思考が示す、ごく単純な解答。
それは。
「……死ぬのか」
けして恢復しえない傷。そして、己を生かしたまま捨て置くはずのない、敵。
誠は目を伏せて、呟く。
「……アリツィヤ、なにもできなくて、ごめん」
その言葉に答えるものはいなかった。
そして、ただ終わりを待とうとした、その時。
――不意に、空気が歪み始めていた。
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