第28話 焼け跡の漆黒

  ルーカが高らかにその術式を喚ぶと、誠とアリツィヤを包み込むように、灼熱の瀑布にも似た巨大な炎の柱がそそり立った。猛獣をとりかこむ檻のように、逃げ出す隙間もなく誠たちを包囲した。


 莫大な熱量に、誠はあえいだ。炎のわずかな隙間からルーカの貌を窺うと、彼は、あの傲然とした笑みを、よりいっそう鮮やかにたたえていた。振り返り、アリツィヤの姿を見る。彼女もまた、厳しい表情を隠せないでいた。


 ――対処法は……! 誠は必死になって考える。これまでに得たわずかな情報で、いったい何ができる? 情報を――!


(アリツィヤ! この包囲の一点だけでも抜けられればいいんだろう!)


(……はい。そうすれば、生還の機はあります。しかし、炸裂する火焔の威力がどれほどのものかは分かりません。――これは)


(ああ、『博打』だろうな)


 言いかけたアリツィヤの言葉を、誠はそう継いだ。


 今から誠が為すべきこと。それは、アリツィヤも同時に思いついていたようだった。


 未だ未知数である、ルーカの秘蹟の力。

 この身にまとっている水精の加護。

 自分たちの、生還を願う心。

 敵対者の意志。

 読み切れる要素は、なにひとつとして存在しない。

 まさに博打だった。


 だが。だからこそ。


「――アリツィヤ!」


「はい!」


 最短の詠唱で行使できる術式を、誠とアリツィヤは同時に脳裏に閃かせる。

 抽出した魔力そのものを、対象へと撃ち込むことによって起こす、最も原始的な破壊の魔術。


「――『フォース』よ!」


 一切の物理力・自然現象を介在させず、ただ対象に破壊をもたらす。その不自然さゆえに、威力は乏しく、また破壊力、射程ともに、他の攻撃的魔術とは比較にならないほどに弱く、短い。


 だが。その「力」は、他の魔力との干渉を引き起こさせるために用いたときに、真価を発揮する。誠が用いた「即時解呪ディスペル」の万能性に比して、効力こそは限定的ではあるものの、効果を発揮するまでの時間は、さらに短い。


「終わりだ!」


 ルーカが叫ぶのと同時に、誠とアリツィヤを取り囲む炎の柱が、一斉に中心部へと収縮していく。正面から、側面から、背後から、そして頭上から。まさしく圧殺するほどの勢力を保ったまま、紅蓮の炎は内部に捕らえた犠牲者を焼き尽くそうとした。


 しかし。誠とアリツィヤが同時に放った「力」は、火焔の正面の、ごく狭い面積に凝集し、その一点に激しい魔力の干渉を引き起こした。


「…………!」


 魔力と魔力が相殺し、食い潰しあい、その箇所にわずかな空隙が出来始める。誠は何にともなく祈る。アリツィヤはその箇所を見据え続けている。


 そして、逃れるための一点の活路が切り開かれ、誠とアリツィヤが飛び出す。同時に、火焔の塊が殺到し、中央部へと凝集した。刹那の後、凄まじい爆炎が天を衝く。


「効いたか……クズどもめ」


 外縁からその炎を眺めながら、ルーカは呟く。再生能力に優れた完成者ですら、直撃すれば一撃で戦闘能力を奪い去る炎の魔術。

 爆風によって巻き上げられた土煙と、アスファルトの溶ける匂いは、なお降り止まぬ小雨によって、すみやかに宥められる。


 だが、そこに倒れ伏しているはずの二体の消し炭はなかった。火焔にひどく灼かれ、無傷とは言えないながらも辛くも脱出し、なお起きあがり戦いの意志をしめす、誠とアリツィヤの姿が、そこにあった。


「……あ、アリツィヤ……」


 火傷の激しい苦痛に喘ぎながら、誠は名を呼んだ。


「戦いは、まだ……続いています。動け……ますか?」


「…………」


 誠は返答できなかった。有り得ない状況における、有り得ない苦痛。いまここに置かれた我が身の実在が、認識できなくなるほどの痛みだ。


 だが、同じように火焔に巻かれながら、アリツィヤはなおも立ち上がる。

 その苦痛の総量は、彼女の知覚を共有する誠には理解できた。


 同じだ。


 だが、立ち向かう意志だけが違う。


(俺も……やらなきゃ……)


 地に手をつき、震える膝に体重をかけて、誠は立ち上がろうとする。

 そんな誠たちの姿を、ルーカは憎悪をこめた眼差しで眺めている。かれの傍らには、やはり苦しげに膝を落としたキアラの姿がある。ルーカが無傷であることを考えれば、現時点での勝算は、かれらの方にこそある――誠は、そう思った。


「しぶといな、このクズが!」


 そう言い放つルーカの貌には、もはや余裕の笑みはない。おそらくは、次で止めを差しに来るだろうな、と誠は思った。


 特段の工夫をせずとも、同じ魔術――火焔密集陣パイロファランクスと言ったか――を放って来たならば、それによって誠達の敗死は確定する。もはや、対処するだけの魔力の余裕も、肉体的な余裕も無いのだ。


 ルーカの周囲に、再び火焔の柱が踊り立つ。さすがに「火焔密集陣」を連用することは出来ずとも、その熱量は、誠やアリツィヤの意志を削ぎ、肉体の活力を奪うには十分すぎるものだった。


 立ち上がったアリツィヤは、再び剣を構える。キアラの楯がその力を喪いつつある今、一撃でルーカの戦闘力を奪い去るに足る手段は、やはり大剣による一撃をおいて他にない。


 誠は、アリツィヤに防御の魔術を行使する。


(アリツィヤをあいつ……ルーカのところに届かせるのが……俺の役目だ)


 急激に失われつつある魔力を、さらに振り絞り、アリツィヤに満足のいく防禦を与える。その分、己の身を守るための余力は乏しくなるが、それを省みる余裕はない。誠が魔術を完成させた時、アリツィヤは振り向かぬまま、わずかに頷いたように見えた。


 アリツィヤが、駆け出す。

 低く構えた大剣の切先は、地を這いながら必殺の加速を続ける。

 焼け焦げたドレスの裾を翻し、振り絞る裂帛れっぱくの気勢は鋭く。

 細い身体を発条ばねのようにしならせて、アリツィヤの剣は白銀の弧を描きつつ、ルーカの胸元を薙ごうとした。


「……くっ……あぁぁっ!」


 これは、キアラの苦痛の声だ。 

 彼女は死力を振り絞って、残された最後の「楯」で、アリツィヤの一撃を受け止めようとする。ルーカは動ぜぬまま、ただ火焔の制御に集中する。それは、キアラの防御に絶対の信頼を置いていればこその所業なのだろう。


 ルーカの側で荒れ狂う二柱の炎は、そのまま迫り来るアリツィヤに向けられる。


 だが、アリツィヤもまた、それを回避しようとしない。

 彼女もまた、誠によって施された防御の魔術を信頼しての、捨て身の一撃を選んだ。

 そのことに、誠は胸の奥底がひどく熱くなるのを感じた。


(アリツィヤ! ……どうか、どうか無事でいてくれ!)


 誠の祈りをよそに、アリツィヤの剣とキアラの楯が、ともにぶつかり合う。


 渾身の霊力をこめた剣と、死力を尽くして生み出された楯が、凄まじい干渉の閃光を放つ。離れている誠の頬にも衝撃が伝わるほどに空気が震える。かくも激しい衝撃に、ルーカもまたひるんでいるようにも見えた。

 誠は思わず目を閉じてしまいそうになる。


 ――だが、その時。

 アリツィヤとルーカの至近に、異様な空間が口を開いた。


 それは、漆黒、とひとことで言い捨てるには異様すぎるほどに、不自然な「黒」に満ちた空間だった。ひどく唐突に顕現けんげんした、虚空にふわりと浮かぶその口は、始めこそ空中の一点に過ぎなかったものの、現れるなり信じられない速度で面積を増し、ちょうどアリツィヤとルーカを蓋うほどの大きさに広がった。


「――――!」


 言葉はない。その場に居おおせた者の全てが共有していた筈の感情は――生来的な拒否感、だった。


「アリツィヤ! 逃げろ!」


 判断も何もありはしない。誠はただ、見るなり叫んでしまった。


「兄さん! 退いて!」


 キアラも同時に叫んだ。


 アリツィヤとルーカが弾かれたように離れた。その瞬間、大きく展開していた空間が、ふたりが一瞬前まで立っていた箇所を、巨大な黒羅紗紙くろらしゃがみが折り込むように、至極簡単に包み込んだ。


 苛烈なやりとりの残り火は、今やどこにもなかった。なんの前触れもなく現れた空間は、ごく無造作に、戦いを終結させた。


(……何だ、あれは……)


 誠の動揺は、アリツィヤには伝わっていた筈だった。だが、誠もまたアリツィヤの心を知ることになった。

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