第24話 始まりの夜
――町橋内科診療所。
病室内の蛍光灯がちりちりと音を立てている。窓外の残照はすでに衰え果てていたが、止まない雨音が、さあさあと頭上から聞こえていた。
夜が始まる。
誠がこの部屋に逗留しているアリツィヤのもとを訪ねたのは、彼女がただならぬ気配を感じていることを、感覚の共有によって知ったからだ。
「――もう、敵が来るんだね」
誠がそう問うと、アリツィヤは強く頷いた。
いま彼女は、誠と出会ったときに着ていた、異国の服装を身に纏っている。昨日着ていた平服は、綺麗に洗濯され、丁寧に畳まれてベッドの枕元に置かれていた。かなうならば、彼女がふたたびこの服に袖を通す日がきてほしい……と、誠は願った。
身支度を調えて、彼女は武器をみる。その手確かめている数本の短剣は、白銀の強い煌めきを秘めている。
これはベルクートから奪ったものだという。戦いにおいては、アリツィヤが形成する大剣の核となるらしい。
そんな彼女を横目に見ながら、誠は窓の外を眺める。
雨はいつまでも降り止まない。憂鬱な一日だった。
(だけど、今日はきっとこのままでは終わらないな)と、誠が思ったとき。
「――そうだな。おそらく今日、君ははじめてアリツィヤとともに闘うことになる。運が良ければ、明日の天候を気にする必要があるだろうし、運が悪ければ、そんな心配とは無縁となるだろう」
と、かつて聞いた「声」が、ふいに誠の脳内に奔った。
誠の感覚を、今もある程度まで共有しているであろうアリツィヤも、ぴくりと身体を震わせた。
「ロートラウトか」
あえて声を出して、誠はその名を呼んだ。
「そうだ。まえに話した『約束』を果たす気概はあるようだな。だから、私もまた、知る限りのことを君に伝える義務を負っている。……ところで、アリツィヤ」
声は、ふいにアリツィヤの名を呼んだ。
「何ですか?」
やや硬い声だ。だが、続くロートラウトの声は優しかった。
「君の魔力をもって、私の虚像を描いてはくれないか。かなうならば、この少年に、私の姿を見せておきたいからね」
「良いでしょう」
アリツィヤはわずかに微笑んだように見えた。そして、呪文をすばやく紡ぎ、指先で眼前の空間に不可視の紋様を描いた。
一拍の間をおいて、その空間に、ひとりの人物の姿がぼんやりと浮かび上がってきた。
「……初めてお目にかかる……のかな。私がロートラウトだ」
彼女は背の高い女性だった。肩のあたりでざっくりと切った真鍮のような金髪に、やや野趣の感じられる、浅黒く日に灼けた顔。動きやすく作られた甲冑の上に、白地に黒の十字を染め抜いたサー・コートを纏っている。そして、背には長い剣をたすき掛けに背負っていた。
「剣士……いや、騎士なのか?」
誠が問うと、その女性……ロートラウトはわらって答えた。
「そうであったこともある。だが、私の所属していた騎士団は、たびたびの戦に負け続けた挙句、五百年ほども前に、そうそうに歴史の舞台から消え去ってしまったよ。私の身の上は……見ての通りだが、他の者達も、一体どうなったことやら分かりはしない」
そう言って、彼女は肩をすくめて見せた。
(……この人が……アリツィヤの、最初の生贄……)
そのしなやかな強さを秘めた姿と、『生贄』という語が、どうしても繋がらないな、と誠は思った。
疑問が表情に出てしまったのか、ロートラウトは問わず語りに呟く。
「……まあ、戦いに負けた者の末路などというものは、いろいろとある。……アリツィヤ、この子には話しておこうと思うが、いいかな」
「……ええ、お願いします」と、アリツィヤは静かに目を伏せた。
「以前、私がアリツィヤの生贄であった、と伝えたかな。リトアニアでの戦いに敗れて虜囚となったころに、私はアリツィヤと知覚が重なるようになった。それから間をおかずに、私を大金で買う者がいた。それが……アリツィヤの主君だった」
ロートラウトの独白を、二人はともに黙って聞いていた。
「……幾らで買われたのかは知らない。が、引き渡されるやいなや、すみやかに捕縛された。数日後、牢より引き出され、地下の一室へと追い立てられたが、そこにはアリツィヤが佇んでいた」
そのくだりを聞いたとき、誠はアリツィヤの表情を窺った。本当にこの先を聞くべきか、そう思ったが、ロートラウトの言葉はなおも続いた。
「――何もない、だが陰惨な雰囲気のただよう部屋だった。そこに彼女とともに同席していた王は、部屋の中央に転がされた私を指さし、アリツィヤに言った。『この者を、生贄とせよ』と。……そして、アリツィヤは頷きもせずに、私に近づいた」
アリツィヤは、わずかにうなだれていた。その眼差しは、ロートラウトの虚像の足元をじっと見つめているようにも見える。
正直、この先は聞きたくない、と誠は思った。
「そして、アリツィヤは私のそばにひざまずき、長い、だがどこかさびしい響きの呪文をゆっくりと呟いた。……その言葉は、私の身体と、魂の結びつきを……しずかにほどいていった。苦痛はなかった。今にして思えば、それは死の一過程だったのかもしれない。天使の存在などは私には分からないが、その感覚は、まるで天使の
そう語る彼女の言葉は、ひどく穏やかだった。その口調に戸惑いを隠せない誠に、彼女は不思議な笑みを浮かべながら言った。
「……どうした、坊や。不思議そうな顔をしているじゃないか」
「いや。もっと陰惨な話を聞かされるんじゃないか、と思っていたんだ」
「そう思うのも、むべなるかな、だ。なにせ『生贄』だからな。生きたまま胸を切り開き心の臓を捧げたり、とか、そういった『儀式』の存在があったとしても、不思議はないだろうね。だが、ことの本質は変わらない。魂と切り離された私の肉体は
それを聞いて、誠はひとつだけ質問を思いついた。
(そのことについて、あなたはアリツィヤを憎んだのか?)
だが、それを訊くのはひどく
そんな誠の様子を眺めながら、ふむ、とロートラウトは鼻を鳴らして、「……いま話したことは、ひどく古い話だ。だから、そのとき私がどんなことを考えていたのか、どう思っていたのかは、もう忘れてしまったよ。なあ?」と、彼女は誠に笑いかけた。……その笑みから知ることができるのは、それが彼女のかつての苦悩の抜殻だ、という事だった。
ひとしきり話し終えたロートラウトは、話しすぎたことを後悔しているように、すこしだけ苦い顔をしていたが、改めてアリツィヤに向き直った。虚像とはいえ、その瞳にやどる光は色褪せてはいない。
「……アリツィヤ。長話をしてすまなかったな。では、いま成すべきことについて話そう」
「そうですね。――まずは、ここを訪れる追手を退けなければいけません」
「そうだな。こころみに訊くが、いま気配を読むかぎり、君が独りで追手と戦うとしたら、勝算はいかほどかな?」
「……零、ではありません。ですが、五分五分というには苦しいでしょう。強大な魔力を感じます。いま戦えば、おそらくは単純な力負け、という結果に終わる可能性が高いです」
「分の悪い博打だな」
「はい」
ふむ、とロートラウトは肩をすくめた。アリツィヤの表情は依然として厳しい。
そんな二人を前にして、誠はまだ「俺も戦う」とは言えずにいた。
(魔術師の戦いで……アリツィヤを守るって言ったって、俺になにが出来るんだ)
だが、アリツィヤは誠に向き直ると、「ですが、誠さんの助力が得られれば、切り抜けることもできるでしょう」と、確たる態度で言った。
「……えっ?」
「誠さん。私があなたの魔力を借り受け、あなたもまた、私が示す魔術を行使するのです。そうすれば、互いに力を引き出すことができるでしょう」
そう示したアリツィヤの提案は、漠然とだが、誠にも理解できた。
現時点において、誠とアリツィヤは、かなりの程度、相互に知覚を共有できる。
ゆえに、アリツィヤが適切な魔術の術式を誠に「指し示す」ことにより、誠はそれをなぞることで、魔術を行使できる。
(だけど、そんなことが可能なのかな)
それに、魔力の共有というものが、現時点ではまるで把握できなかった。
が、戸惑う誠を見て、ロートラウトは笑いながら言った。
「なに、やってみれば分かるさ。……それができるのが、ふたりの結束というものだ。……」
そして、彼女は急に口をつぐむ。
無言のひととき。やがて、アリツィヤが抑えた口調で呟く。
「……来ます。残念ながら、試すための時間はないようです。――ここを出ましょう」
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