第13話 既視感、そして
夜。
学生としての一日を終え、釘乃誠は眠りにつこうと努力していた。
(…………)
が、眠れない。
あの時と、同じだった。
アリツィヤと知り合う、すこし前。
(胸騒ぎ、心のざわめき。……そして、見たこともない光景が、雰囲気までも明らかに再生される。その光景は、だんだん近くなってゆき、やがて自分の感覚と『交換』される)
あのとき辿った道程が、いまこの瞬間にも蘇りつつあった。
(眠ろう)
……が、それは叶えられることのない希望のようだった。
脳髄の奥底にふつふつと湧き上がるのは、またしても名状しがたい恐怖。
(ああ、まただ)
皮膚に、ぴりぴりとした細かな痙攣が走る。
それは「何か」の襲来を告げるサイレンだ。
来る。ためらいなく来る。何が? ……それは。
「敵だ」
声に出して、誠は呟いた。
その言葉とともに、誠は布団から跳ね起きる。
もう、分かっていた。このまま横になっていても、けして安穏とした眠りの時は訪れないということを。
この瞬間でさえ、感覚はさらなる明瞭さを増していた。
恐怖。それは未来の苦痛を予感させる。
混乱。それは未来の不明を予感させる。
すべてが混沌のなかに在るような、入り乱れた感情が、誠の精神を支配する。
だが、ひとすじの光明となる、ある確かな感情をも、誠は同時に捉えていた。
それは――『歓喜』。
それは、戦いを前にしてうち震える魂のよろこび。
全ての瑣事さじは、その狂熱によって燃え上がっていく。
そんな歓喜を「誰かが」感じている。
(……そいつは、近くにいる……)
布団を離れ、パジャマの上にコートを羽織り、そして玄関を出る。
四月の街路は、ひえびえとした夜気に包まれている。
(どこにいるかが……分かる)
誠は駆け出した。
+ + +
ベルクートは矢継ぎ早に聖句を紡いでいく。
「 」
偉大なる『者』に希う言葉のつらなりは、その一節ごとに、ベルクートに勝利の可能性をもたらす。
ある言葉は、この世界に作用する力をもたらす。
ある言葉は、心身の平穏をもたらす。
ある言葉は、霊感をもたらす。
それら不可視の力は、全てベルクートの願いに対して与えられるものだ。
しかし、ベルクートは焦っていた。
それらの願いは聞き届けられた。
だが、もっとも肝要な言葉が、なぜか届かない。
(……どういうことだ?)
ベルクートは、その「願い」を、必死に繰り返す。
「 」
精神の乱れを鎮め、その一節をよどみなく詠唱する。
だが、その言葉のみが容れられない。
それは、己にとって、もっとも親しんだ言葉。
「なぜだ!」
知らず、ベルクートは叫んでいた。
――われらの氏族に勝利をもたらすための、もっとも力ある言葉が!
そんなベルクートの内心を見透かしたかのように、眼前のアリツィヤは言った。
「ベルクート。貴方の聖句術のうち、もっとも恐るべきものを封じさせてもらいました」
「……あの時か」
ベルクートが敗れ、昏倒した時。アリツィヤは生殺与奪の権をひととき握ったのだ。
「そう。貴方は言っていた。『我等が氏族が磨き上げた聖句術』。完成者を狩るための、もっとも有力な手立て。それは……」
アリツィヤは、生命こそ奪わなかったものの、敵手の戦闘能力を奪うことは怠らなかった。
そして、彼女は言った。
「……それは、『
ベルクートの口より紡がれるべきその名は、敵手に呼ばれることとなった。
「アリツィヤ! 存外、小細工の冴える女だな。……まさか、この国の紋章魔術師によっても見抜けぬほどの封印を、あの短時間で編むとはな」
この戦いに臨むにあたり、ベルクートは紙宮祐三の手による身体の調査を受けていた。大がかりな「封印」や、肉体の能力そのものを減衰させる術であれば、彼はたちどころに発見したであろう。だが、アリツィヤが封じたのは、わずかひとつの聖句術。それも、おそるべき緻密さで編まれた封印によって――!
「ベルクート、最後の忠告をします。もう、止めて。……祖国に帰りなさい」
絞り出すかのようなその言葉は、もはや叱責でも失望でもなかった。
それは、懇願だった。
ベルクートの知る限り、最強ともいえるほどの魔術師が、そのプライドを投げ捨てるかのように、懇願してみせる。
「……アリツィヤ……」
ベルクートは戸惑いを押さえきれず、知らず、短剣を構えた腕を降ろしかけた。
だが、改めて彼女を見つめ、ベルクートはふたたび両手の短剣を構えた。
「結界なくば敗北はない、とでも言いたいか、アリツィヤ?」
ベルクートが問うその言葉に、アリツィヤはわずかに悲しそうな顔をしたが、やがて決然と面を上げ、答えた。
「おのが手の内に剣あらば敗北ではない、とでも言いたいのかしら、未熟者よ。……もう、容赦はしない」
ベルクートの眼前で、アリツィヤは、あのときと同じように魔剣を生成する。
右手に握られた短剣を核として、聖句術をもって刀身を造り、そこに魔力を付与することで、圧倒的な破壊力を秘めた大剣を生み出す。
大剣をゆっくりと頭上に掲げるアリツィヤ。
刀身は、透き通るように清らかな霊光が刃と化している。
内側には、彼女の意志によって込められた極彩色の魔力が渦巻いている。
聖なる刃は、たやすく敵手を切り裂き創傷を破壊し、そこに魔力が流れ込むことで完膚無きまでに粉砕する。
ベルクートは、身をもって知ったその破壊力を、怖気とともに思い出した。
(たった一瞬で意識を刈り取られ、戦闘不能に追い込まれた。聖句と魔術をともに操る者にしかなしえぬ、奇跡の魔剣……俺に対処できるか?)
ベルクートの手の内には、左右の手に三本ずつ握った短剣がある。そこに、アリツィヤと同様に、聖句によって力を付与するが、アリツィヤの剣ほどの爆発的な破壊力はない。たった一本でさえ、常人を破滅させるには足る。だが、目前の完成者に対しては、いささか心許なくはあった。
(ああ、たしかに俺は、結界があった時でさえ敗北した。いまの条件は、なお悪い。……だが、なにか手段はないか……?)
ここで気後れするわけにはいかない。
ベルクートは、アリツィヤの一挙手一投足を凝視した。
貧相な病人に見える女は、しかし魔剣を頭上に掲げ、戦いに臨もうとしている……。
(…………?)
そのとき、ベルクートは、前回とのわ
ずかな差異に気が付いた。
(あの時に比べて、力を感じない)
アリツィヤの構える魔剣には、以前ほどの輝きは見られず、その姿勢もどこか弱々しい。
鋭く引き締まった顔にも、疲労の影が感じられる。
(……アリツィヤは回復しきっていない)
己の目で見る限り、勝機は……ある、と思った。
だが、そのようなアリツィヤがあえて刃を交わすことを求める以上、己の身のうちにも、まだ隠された封印が施されているのかもしれない。
(――あるいは、その小さな罠が勝敗を決するのかもしれない)
相手は、力業に頼ることも、細かな魔術を操ることもできる。
しかし。ベルクートはどう振る舞うかを既に決めていた。
手の内を惜しみはすまい、成せる全てを成すべきだ、と。
「アリツィヤ! 行くぞ!」
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