第8話 こより
家路を辿る。
夕暮れの帰り道を、ひとりで歩く。
友達とは途中で別れて、細い路地へと入り込んでいく。
それが、紙宮こよりの、いつもの帰り道だった。
通っている学校の周囲は、それなりにあか抜けていて居心地はよい。
だけど、そこを離れて自宅へと近づいていくと、街路の風景はどんどん田舎臭くなり、ついには昭和初期のたたずまいを残した屋敷へとたどり着く。
その家が、こよりの自宅だ。
旧い建築物だ。
ぐるりと取り囲む黒ずんだ板塀は、まさしく過去を閉じこめたタイムカプセルのよう。その重厚なたたずまいは、まさしく明治時代。ここが現代であるということを証明するものは、ポケットのなかにある薄っぺらいスマートフォンに表示された、受信電波のグラフだけだった。
一応、圏外ではない。
(……うーん、今日はどんな感じで入ればいいんだろう)
つい、玄関付近でうろうろしてしまう。
普段なら、こんなに悩みはしないのだ。
何も考えず、「ただいま~」とでも言いながら入ればいい。
だけど、今日は違う。
この家のなかには、初めて会う「お客様」がいらっしゃるのだった。
その人については、実のところ、こよりは何一つ知らなかった。
男なのか、女なのか。
若いのか、年寄りなのか。
いい人なのか、困った人なのか。
前情報は、全くない。
母からのメールには、ただ、その国籍のみが記してあった。
――ロシア。
とはいっても、その単語によってこよりの脳裏に呼び起こされるのは、延々と入れ子が出てくるマトリョーシカと、ウォッカで酒焼けしたクマのような大男の豪快な笑顔のみ。
本で読んだことのあるロシアのお話には、どれも物悲しいポーリュシカ・ポーレが流れているような印象があった。
……もちろん、そんなものは全て偏見だ。百害あって一利なし。
だけど。
「ああもう、どんなリアクションしていいか分かんないよ~!」
そう叫びながら、こよりは自分の髪の毛をわしわしとかき混ぜた。ちょっと脱色しすぎて、ときどき先生に文句を言われる髪だが、自分ではわりと気に入っていた。今度はちょっとカラーを入れてみようかな……などと、ちょっと現実逃避気味に思考が寄り道し始めたときに。
「……あら、こより、帰っていたのね。ぼやーっとしてないで、早くお上がりなさい」
「あ、お母さん」
玄関ががらりと開いて、そこから、こよりの母である佳枝がひょっこりと顔を出して手招きする。それでもこよりがもじもじしていると、佳枝は、なにやってるの、と、こよりの袖をつまんで引っ張り込んだ。
薄暗い玄関には、見慣れない革靴が揃えられていた。無骨な感じで、とても大きい。
(男の人……だな。やっぱりクマ系の人かな)
そう思うと、こよりの緊張はさらに高まってしまった。
が、ここは進まざるをえない。母の佳枝は、既にサンダルを脱いで居間へと消えてしまった。
(……仕方ないか)
靴を脱ぎ、隣のブーツに負けないくらいに綺麗に揃える。上がり口をそっとまたいで、そして居間へと進む。
(えーと、はじめまして……はじめまして……何て言えばいいの? ロシア語で?)
無論、こよりの脳内辞書にロシア語は全く登録されていない。
迂回路はない。当たって砕けるより他にないのだ。
(よーし)
意を決して襖に手をかけ、居間へと進んだ。
「ただいま!」
景気づけの意味もこめて、大きな声を出しながら。
居間には、父である祐三の憩いの場である掘り炬燵がある。常ならば、そこに家族が集っている筈だ。
「ああ、おかえり」
これは父の声だ。テレビが一番見やすい席が、父の居場所だ。
まず見渡す。こよりの家族である父と母は、いつも通りの場所に座っていた。
……そして、こよりが普段座るところではない炬燵の一辺に、その人がいた。
その人はこよりの来訪に気づき、振り向いて、微笑んだ。
「おかえりなさい」
初めて聞く、すこしたどたどしい、でも優しい言葉。
「あ、あの……」
声が縮こまる。
かれのやさしい笑顔を、まじまじと凝視してしまう。
座っていても分かるぐらいに、背が高そうな人だった。
やや長めで、緩やかに紐で纏められた髪は、銀糸のようなプラチナブロンド。ちょっと悔しいが、自分の染めた髪よりも、もっと綺麗に見える。
形の良い眉の下には、思慮深そうな双眸が見えた。
凛々しい眼差し。すこし疲れているように見えるけど、それは長旅のせいだろう。
(この人の目には、私はどんな風に写っているのだろう――)
と、こよりがぐるぐると混乱していると、
「……はじめまして。私はロシアから来ました。アザト・ユリコフと言います」
と、名乗りながら立ち上がった。
こよりと同じ言葉だった。
「あ、は、はじめまして。私は、お父さんとお母さんの娘のこよりです……」
自分でも間抜けだと分かるような自己紹介にも、かれは動ぜず、
「こよりさん。これからよろしくお願いします」
と、大混乱のこよりに、穏やかな笑みとともに挨拶をしてきた。
その表情に誘われるように、こよりは右手を差し出した。握手のつもりだった。
「…………」
その手を、アザトと名乗った青年は、ごく自然に握り返した。
温かくて、大きな手だった。
(あ……いま、私、ひとの手を握ってる)
握手などという気恥ずかしい行為は、もう何年もやっていない。それだけに新鮮だった。
外国では、ごく他愛のないコミュニケ-ションにすぎない。しかし、こよりは動揺してしまう。
「ただの挨拶だよね」とスルーしてしまうには、かれの手は温かすぎた。儀礼だけど、儀礼ではない、そんな握手だな……と、こよりは一方的に思ってしまったのだ。
「……どうしましたか?」
そんなこよりの様子を見て、アザトはすこし不思議そうな顔をした。その様子を見て、こよりは慌てて手を離した。
「あ、いえ、ごめんなさい」
何故だかひどく恥ずかしかった。まるで挙動不審者だ。
そんな自分の姿を見て、父の祐三と母の佳枝は、にやにやと笑っていた。これには腹が立った。
(……あのね、私だってね、緊張したりトチったりする事もあるってのよ)
しかし、ここでふて腐れるわけにはいかないのだ。自分にとっては、これが栄えある国際交流のスタートなのだから。
そんな事を考えながら、空いている炬燵の一辺に座った。これで、四辺の全てが埋まった。三人家族の紙宮家にとっては、とても喜ばしいことだ。
そして、天板の上の急須を手にとって、お茶を一服しようとした時に、「あ、なんかメール来た」胸ポケットから鳴る電子音が、こよりにメールの着信を知らせた。
「ちょっと失礼するね……っと」
携帯を取り出し、メールを開く。
メールのタイトルは『どう?』。
差出人は、クラスの友達のフジノンこと「柚木 藤乃」だった。教室でこよりの携帯を読み上げた子だ。
本文は、『かっこいい人来た? イケメンだった?』
(んも~、あのお調子者ったら)
しかし、この質問に対する答えは、もう決まっていた。
(うん、なかなかいい人っぽいよ。――でも)
そう。この人の笑顔は、なんというか、もっともっと見てみたくなる――。
しかし、まずはお茶で一服。
今後のことは、それからでもいいよね、と、こよりは心の中で呟いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます