第39話 二人きりの夜

 夜明けの街を、景都と杏奈さんを車に乗せて走った。


 北海道への修学旅行に出発する景都の集合時間が朝の六時半ということで、今日は学校まで景都を車で送る。

 セーラー服の上にグレーのPコートを着た景都は、まだ、こっちでは少し暑そうだった。

 早朝にも関わらず、彼女の目は爛々らんらんと輝いている。

 一方で、今日も徹夜をした杏奈さんは目が充血していた。


 景都の高校の周りは、同じように保護者に送ってもらう生徒がたくさんいて、少し渋滞している。

 荷物を持った生徒と保護者でごった返していた。

 学校の駐車場には、すでに生徒を空港まで送るバスが到着している。


 俺は車を路肩に停めて、荷室から荷物を取り出した。

 ぱんぱんに膨らんだ旅行鞄と、リュックサックにカメラバッグ。

 三脚は小さくて軽いマンフロットのカーボンを選んで、カメラバッグに着けてある。

 もちろん、F3は景都の首に誇らしげに提げてあった。


「いってらっしゃい」

 俺と杏奈さんで景都を見送る。


「いってきます! 良い写真撮ってきますね」

 鼻息荒く景都が言った。

 彼女の場合、修学旅行の目的が、すっかり写真を撮ることになっている。


「師匠、お姉ちゃんを頼みますよ。お姉ちゃんは、師匠の言うことを聞くんですよ」

 景都の言葉に、俺と杏奈さんは互いに苦笑いした。


「こっちのことは大丈夫だから、心配しないで楽しんできて」

 そう言って景都を送り出す。


 リュックを背負って、二つの鞄を抱えて軽やかに駆けていく景都。


 俺と杏奈さんは、景都達が乗ったバスが発車するまで見送る。

 景都が、バスの窓から俺達を見付けて手を振った。

 俺達も手を振り返す。



「行っちゃいましたね」

 俺が言って、杏奈さんが頷いた。

 これから四日間、俺と杏奈さんだけの生活が始まる。


 一旦、マンションまで戻って杏奈さんを下ろした。


「あの、いってらっしゃい」

「いってきます」

 杏奈さんに見送られて俺も出社する。




 出社すると、こういう日に限って、仕事はスムースに進んだ。

 トラブルもなく、仕事を邪魔するような厄介やっかいごとは起きなかった。

 いつも急な設計変更を入れてくる工務店も、今日に限っては静かだ。


 定時前にするべき仕事が終わって、残業なしであっさりと帰れてしまう。


「姫宮、知ちゃん、今日、飲みに行かない?」

 俺は二人を誘った。

 なんとなく帰りづらい。


 マンションに帰って、杏奈さんと二人きりになると考えると足が重かった。

 別に杏奈さんがどうの、ということではない。

 でも、二人きりで何を話したらいいのかと、色々と考えるのだ。

 それに、残業続きの中で、景都が修学旅行に行った途端早く帰るなんて、杏奈さんがどう思うだろう、なんて、変に意識してしまった。


「ああ、先輩が誘ってくれたのに、なんということでしょう!」

 姫宮が、ミュージカル俳優みたいに大げさに言う。


「今日は、うちの女子社員が集まる女子会で、私と知ちゃんもそれに参加するんですよ」

 頭を抱える大袈裟おおげさな仕草の姫宮。


「本当に、すみません」

 知世ちゃんも頭を下げた。


「いや、無理しなくていいから。女子会、楽しんできて」

 元々、こっちは不純な理由で誘ったわけだし。


「もし先輩が、今ここで私との婚姻こんいん届にハンコを押してくれるなら、その女子会もすぐに吹っ飛ばしますけど」

 姫宮がニヤニヤしながら言った。


「一回の飲み会と俺の結婚、等価なのか」

「先輩、結婚なんて踏ん切りですから、そんなものですよ」

 姫宮が、俺の肩をぽんぽんと叩きながら分かったようなことを言う。


「それじゃあ、先輩、失礼します」

 二人がそろって帰ってしまった。


 俺は、部屋に一人残される。

 残業にうるさくなっていて、無理して残ることもできない。


 映画でも見るか、喫茶店で時間をつぶそうかとも考えたけれど、それも、わざと杏奈さんを避けてるみたいで、後ろめたい気がする。


 ここは、大人しく戸締まりして、マンションに帰るしかなかった。



「ただいま」

 帰って玄関のドアを開けると、部屋の中に味噌みその香りがただよっている。

 一瞬、景都がいるのかと勘違いした。


 キッチンの方で気配がする。

 見ると、杏奈さんがキッチンに立っていた。


「あっ、お帰りなさい」

 俺に気付いた杏奈さんが振り向く。

 髪をバレッタで緩くまとめて、腕まくりした白いシャツに、ピンクのエプロン姿の杏奈さん。


「あの、お夕飯の支度したくをしてました。っていっても、景都が今日の分を作って、チンするだけにしておいてくれたんですけど」

 俺が景都と杏奈さんと三人で作るグループLINEに入れた帰宅メッセージを見て、杏奈さんが用意してくれたらしい。


「でも、あの、私も、お味噌汁だけ作ってみました」


 シンクに、包丁やまな板が置いてあった。

 野菜の切れ端が三角コーナーに捨ててある。


「ありがとうございます」

 正直、びっくりした。

 しばらく一緒に暮らして、杏奈さんが料理したのを見るのは初めてなのだ。


「あの、味見をしてもらっていいですか?」

 杏奈さんが申し訳なさそうに訊いた。


「はい、もちろん」


 彼女が作ったのは、カボチャの味噌汁だ。

 具は、カボチャにニンジンと、揚げが入っていた。

 出汁だしを取り忘れてるとか、塩と砂糖を間違えたとか、そういうベタな失敗があるのかと思ったら、それは杞憂きゆうだった。

 出汁が効いているし、味噌の塩加減もちょうどいい。

 薄く切ったカボチャにも火が通っていた。

 揚げも、ちゃんと油抜きしてあるみたいで、無駄に油っぽくない。


「美味しいです」

 俺が言うと、杏奈さん、一瞬パッと表情が明るくなって、そしてすぐに、恥ずかしそうに下を向いた。

 なんかだか、家庭科の授業で作ったケーキを好きな相手に渡す中学生みたいな照れ方だ。


 そう思って杏奈さんを見ていると、俺は、彼女の手の異変に気付いた。


「杏奈さん、その手、どうしたんですか?」

 彼女、左手の親指に絆創膏ばんそうこうを巻いている。


「カボチャを切るとき、ちょっと」

「だめじゃないですか」

 俺は、杏奈さんの手を取って傷を見た。

 もう、すでに血は止まっていて、傷が深くはないようなのは幸いだ。


「かすり傷程度ですから」

「いえ、気を付けてくださいね。カボチャみたいな硬い物を切るときは特に」

「はい」

「それに、杏奈さんの手は大切な手なんですから」

 杏奈さんの手は、物語を生み出す大切な手だ。

「そんなことないです」

「たくさんの人が、杏奈さんの作品を待ってるんですから、怪我をして執筆のペースが落ちたりしたら大変です」

 俺が言うと、杏奈さんがぶんぶん首を振った。


「あの……」

 いつまでも杏奈さんの手を握っていたことに気付いて、俺はすぐに手を放した。

「ごめんなさい」

「いえ」

 なんだか、中学生のようなことをしている。

 そんなこと言ったら、今の中学生に怒られるだろうか。


「食べましょうか?」

「はい」

 二人で食卓を囲んだ。


 二人きりになって、何を話したらいいのか心配していたけれど、それは俺の考えすぎだった。


「景都ちゃんも、今頃晩ご飯でしょうかね?」

「はい、何食べてるんでしょうね?」


「ジンギスカンとか、石狩いしかり鍋とか」

「秋の北海道ですもんね、美味しいものたくさんありますよね」


 俺達はそんなふうに会話をした。

 特に会話に詰まることもなかった。


 会話の大半が、景都の話だったけれど。



 食べ終わったら、二人で食器を片付けて、風呂に入っていつもの生活をする。


「あの、私はこれから仕事をするので、おやすみなさい」

 風呂上がりにリビングでくつろいでたら、杏奈さんがそう言って部屋に引っ込んだ。

「はい、頑張ってください。おやすみなさい」


 杏奈さんを見送ってから、「缶ビール一本、付き合いませんか?」って誘わなかったことを後悔した。


 初めての二人きりの夜は、そんなふうにける。

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