第26話 初任給とフィルムとビール

「景都ちゃん、いいかい、絶対に無理しちゃだめだよ」

「はい、分かってます」

「暑いから、水分をちゃんと取って、それから、塩分も補給しないとね」

「はい、大丈夫です」

「変な男に声をかけられても、無視するんだよ」

「平気です。追い返してやります」

「なにかあったら、仕事中でも、いつでも電話していいからね」


「それから……」

「もう、師匠、私は子供じゃありません!」

 景都が、最後には怒ったように言った。


 杏奈さんが俺達のやり取りを見て、声を殺して笑っている。



 夏休み中の景都が、アルバイトをすると言いだした。

 フィルム代や写真用品を買うのに、お金が必要だという。

 彼女は俺や杏奈さんからの金銭的な援助を断った。

 あくまでも、自分の手で稼ぎたいってかたくなだ。


「私の担当編集の方が紹介してくれたアルバイトなので、変なところではないと思います」

 杏奈さんが言った。

 出版社関連のイベント設営の単発アルバイトで、杏奈さんは安心していいと保証する。

 それは分かっているけれど、彼女はそそっかしいところがあるし、色々と心配だった。

 その、そそっかしいおかげで、俺達は出会って、こうして一緒に暮らすようになったのだけれど。




「先輩、どうしたんですか? 娘をお嫁に出した父親みたいな顔して」

 応接室の職場で、姫宮が訊く。


 やっぱり、姫宮の勘はあなどれない。

 仕事をしながら、俺の顔に不安の色でも出ていただろうか。

「いや、どうもしないぞ」

 俺は景都のことを頭から追い払って、目の前の仕事に集中する。


「ところで先輩、お盆休みはどうするんですか?」

 姫宮が訊いた。

「ああ、田舎の実家に帰るよ」

「あれ、先輩、ついに私のこと、ご両親に紹介する決心をしたんですね!」

 姫宮が甲高かんだかい声を出す。

「あのな、この日本に、お盆休みに職場の部下を両親に紹介する風習なんてない」

「もう、先輩、分かってるくせに。もちろん、お嫁さんとして紹介するってことじゃないですか」

 反論するのも馬鹿らしくてスルーした。

 前の住居で同居人がいる頃から、俺は、お盆休みは実家に帰って、同級生や親戚の顔を見るのが常になっている。


「で、姫宮はどうするんだ?」

「私は、友達と旅行ですけど。ああでも、先輩からお呼びが掛かれば、すぐにでもキャンセルしますよ」

「お呼びは掛からないから、思う存分、旅行を満喫まんきつしてきてくれ」

 俺が言うと、姫宮は小さく舌を出した。


「知ちゃんは? どうするの?」

「私も、旅行で海外のほうへ」

 そういえば、去年もモルディブに行ったとかで、写真を見せてもらった気がする。

 あの大豪邸を見たあとだけに、優雅な旅行を楽しむ知世ちゃんの姿が想像できた。


「あ、あの、先輩、私も、先輩からお呼びが掛かればすぐに旅行をキャンセルするので、言ってください」

 知世ちゃんが言った。

 彼女、言いながらほっぺたを真っ赤にしている。


 それを聞いて、俺と姫宮の動きが止まる。

 応接室の中が静まり返った。

 壁時計の針が進む音や、空調から冷気が流れる音が大きく聞こえる。


「知ちゃん、どうしたの?」

 隣に座っている姫宮が、心配そうに知世ちゃんのおでこの熱を測った。

「知ちゃん、無理しなくていいんだよ」

 姫宮に付き合って、彼女まで軽口を叩くことはない。


「もちろん、冗談です」

 慣れないことを言った彼女が、両手で顔を押さえて恥ずかしがった。

 軽口を叩くにもキャラクターがあるらしい。


 お盆休みの話をしながら、景都と杏奈さんはどうするんだろうって、ふと、そんなことを考えた。

 二人には、父方、母方、両方の祖父母がいるはずで、その田舎にでも帰るんだろうか?

 そういえば、こうして二人と暮らすようになって、今のところ、二人の親戚がマンションを訪れるようなことはなかった。

 その辺りのことを深く訊いたことはないけれど、どうなっているんだろう?




「師匠! お帰りなさい」

 九時を過ぎてマンションに帰ると、エプロン姿の景都が迎えてくれた。

 俺は、風呂に入って遅い夕飯を頂く。

 夕飯を温めてくれた景都が、ダイニングテーブルの俺の前に座った。


「アルバイト、どうだった?」

「はい、疲れましたけど、楽しかったです!」

 景都は、笑顔で答える。


 アルバイトの現場であったことを、楽しそうに話す景都。

 話を聞く限り、アルバイト先は問題ないようだ。


「それから、もらったお給料で、これ、買ってきました」

 景都がそう言って、ダイニングテーブルに黒いレジ袋の中身を広げる。


 FUJIFILM PRO 400H

 NATURA 1600

 Kodak Portra 400

 Lomography Color Negative 400


 カラフルなネガフィルムの小箱が幾つも出てくる。

 もらったばかりのアルバイトの給料が、さっそくフィルムに化けるとは……

 景都、もう、この沼に、抜け出せないところまで浸かってしまったのかもしれない。


「それから、師匠にプレゼントも買いましたよ」

「プレゼント?」

「はい、ほらよく、初任給でプレゼントとかいうじゃないですか? それみたいなものです」

 景都が楽しそうに言う。


 なんだその、就職した娘感。


 すると景都は、立ち上がって冷蔵庫を開けた。

「じゃーん」

 景都が冷蔵庫から出してきたのは、ヱビスビールだ。


「ちゃんと、お姉ちゃんに買ってもらいましたから問題ないですよ」

 彼女はそう言って、グラスに注いでくれる。


「どうぞ、飲んでください」

 コースターの上に置いたグラスを差し出す景都。


 ここのところ、父親になって初めて味わうようなことを、前倒しで経験しているような気がする。

 結婚もまだで、彼女もいない俺がそんなことでいいんだろうか。


 まあ、とりあえず、そのよく冷えたビールを頂く。


 景都がその労働の対価で買ってくれたビール。

 紛れもなく、今まで一番美味しいビールだった。

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