第24話 櫓門と錦鯉の池
「いってらっしゃいませ。だんな様」
景都がそう言ってウインクした。
部屋着のグレーのワンピースの上に、ピンクのエプロンをつけた景都。
決して上手くないウインクで、一瞬、両目を
それにしても、だんな様って……
「どうですか? 幼妻バージョンのお見送りです」
幼妻とか、どっからそんな言葉を拾ってきたんだ。
「もう、景都ちゃん、そんなことしないの」
一緒に見送ってくれる杏奈さんの方が恥ずかしそうにしている。
景都が夏休みになって、いつもは二人で一緒にマンションを出るところを、今日は俺一人での出勤だった。
休みの間は洗濯も景都が買って出て、おかげで、いつもより十五分長く眠れるようになっている。
「ししょー!」
車に乗ろうとするところで、四階の通路から景都が手を振るのが見えた。
周囲の目が気になったけれど、俺も手を振って応える。
幼妻バージョンのお見送りは、色々と気恥ずかしい。
出社して、引っ越したのを忘れて一度元の部屋に行って、気付いて応接室に急ぐ。
まだ空調は壊れたままだ。
今日は、朝一で社外での打ち合わせがあった。
昨日のうちにまとめておいた書類や資料を確認して、鞄に詰め込む。
「いいなー、知ちゃん。先輩と外回りで」
姫宮が、そう言ってわざと
知世ちゃんが担当する物件の打ち合わせで、依頼した工務店まで一緒に出向くことになっていたから、姫宮は一人で留守番だ。
「先輩と二人きり、密室の中で濃密な時間を過ごせるなんて、夢みたいじゃないですか」
「ただ車に乗るだけだろ」
「そのまま、二人で駆け落ちとかしないでくださいよ」
「するか!」
「それと、お土産お願いしますね」
「遊びに行くんじゃないんだぞ」
姫宮の軽口に答えただけで、一仕事終えた感じだ。
「姫宮さん、お土産は、何がいいですか?」
知世ちゃんは、いつもの知世ちゃんだった。
社用車のハンドルは、知世ちゃんが握る。
外に出るからなのか、彼女の今日の髪は
メイクも気合いが入って、
そして、いつも縁なしメガネをかけている彼女が、今日はコンタクトだった。
「暑いね」
「暑いですね」
「入道雲がわいてるから、夕立があるかな」
「入道雲がわいてるから、夕立があるかもしれませんね」
「工事渋滞かな」
「工事渋滞みたいですね」
こうして、車内で知世ちゃんと二人だけだと、なんだか会話が続かない。
俺達の部署の中では、姫宮がムードメーカーになって会話を回してるんだってことを実感した。
あいつの軽口も、少しは役に立っていたらしい。
二人だけだし、この前、街で俺が景都といたのを見られたこと、話そうかどうか迷った。
知世ちゃんが、俺が持っていたカメラ、コンタックス・アリアのことを知っていて、カメラに詳しいのはなぜかも訊いてみたかった。
けれど、それを蒸す返すようで訊けなかった。
姫宮がそのことについて一言も触れないところをみると、知世ちゃんは俺との約束を守ってくれているようだし。
彼女は、俺と景都のことをどう思っているんだろう?
運転する彼女の横顔から、それは読み取れない。
出向いた工務店との打ち合わせは、
仕様のすり合わせや変更点ついては、相手方で先回りした資料まで作ってくれている。
おかげで、こっちが一々説明する必要はなかった。
半日か、長くなれば一日かかると思っていたのが、挨拶も含めて一時間弱で済んでしまう。
「なんか、拍子抜けしちゃったね」
「なんか、拍子抜けしちゃいましたね」
「毎回、こんなふうに済めば、仕事も楽なんだけどね」
「毎回、こんなふうに済めば、仕事も楽ですね」
車に戻って、二人で、相変わらず続かない会話をした。
「姫宮には悪いけど、お茶でも飲んで、時間潰してこうか?」
「いいんですか?」
「まあ、上司の俺が言ってるんだから、いいんだよ」
どうせ、一日予定を空けていたのだ。
薄給でこき使われている会社員が、少しくらい休んでも罰は当たらないだろう。
「それなら先輩……」
知世ちゃんが、そこまで言って、車を路肩に停めた。
ハザードを出して、こっちを向く。
「先輩、うちに寄りませんか?」
彼女がそんなことを言い出した。
「んっ? 知世ちゃんの家?」
「はい、丁度この近くなので、うちに寄ってください。お茶をお出しします。それから、先輩に、ぜひ、見てもらいたいものがあるのです」
「見てもらいたいもの?」
「はい、先輩には、きっと興味を持って頂けると思います。この前、街中で偶然お会いしたとき、そう思いました」
「うん、まあ、いいけど」
俺が言うと、知世ちゃんは再び車を発進させた。
車は閑静な住宅街の中を走って、しばらく進む。
左手に、随分と長い生け垣が続いていて、お寺さんか旅館でもあるのかなと思っていたら、そこが知世ちゃんの実家だった。
彼女が資産家のお嬢さんっていうのは知っていたけれど、改めてその事実を思い知らされる。
間もなく、時代劇に出てくるような、立派な
門の前で知世ちゃんが電話をすると、ソフトボール大の
彼女は
門の中は日本庭園になっていて、車は砂利道の上をゆっくりと進む。
庭はよく手入れされていて、庭木の枝振りも立派だ。
苔むした大岩や、錦鯉が泳ぐ池の脇を、社用車が走る。
しばらく走って、まだ、建物が見えないけれど、一体俺は、どこに連れていかれるんだろう?
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