第23話 焼き増し希望

「ダメだ! 暑くてやってられない!」


 ついに、室内の温度が35度を超えた。

 ずっと調子が悪かった我が部署の空調が、ついに壊れたのだ。

 それまで、送風口からどうにか涼しい風を出していたのが、とうとう熱風を吹き出すようになった。

 元々、熱がこもりがちだった狭い部屋にどんどん熱がたまって、灼熱しゃくねつ地獄になる。


 PCのファンが全開で回ってけたたましい音を出していた。

 気休めの扇風機は、ただ室内の熱い空気をかき回しているだけだ。


 姫宮も知世ちゃんも、半袖シャツをノースリーブのようにまくり上げて、それでも大粒の汗をかいている。


「これじゃあ、化粧がとれて先輩にすっぴん見られちゃうじゃないですか」

 姫宮がタオルで顔を拭きながら言った。

「先輩にすっぴん見られるのは、お泊まりした二人の朝にとっておこうと思ったのに」

 こんな暑さでも口が減らない姫宮。


「もう、明日は水着持ってきて、それで仕事しますね。ビキニの、それひもなんじゃないかってやつ着るので、先輩、期待しててください」

 暑すぎて、姫宮の軽口に付き合うのも面倒だ。


「姫宮さん、暑いときは、服を脱いで裸になると、余計に暑くなるんだよ。服を着て、汗を発散した方がいいの」

 知世ちゃんが言う。


 こんな暑い中でも、知世ちゃんはマイペースだ。



 空調を直してくれるよう、上司には何度も掛け合っているのだけれど、もうすぐお盆休みだし、そのあいだの施設の一斉点検で直すって、先延ばしにされていた。

 それまではもってくれと、だましだまし使ってきたのが、とうとう完全に壊れた。


「よし、応接室に移ろう!」

 俺は決心した。

 さすがにこのままでは仕事にならない。

 姫宮と知世ちゃんのためにも、これ以上、この部屋にはいられなかった。

 あまり使われていない予備の応接室に移って、そこで仕事をすることに決める。


「姫宮、知ちゃん、とりあえず、必要な荷物をまとめておいてくれるかな。俺、掛け合ってくるから」

「いいんですか?」

 姫宮が訊いた。

「ああ、責任は俺が取る。上には俺から話をつけるから、二人は気にしなくていい」

 そうと決まれば、一時いっときも無駄にはしたくない。


 総務に応接室の使用届を出した。

 システムにいる同期にも連絡する。

 出張中でいない上司には、事後、許可を取ることにした。

 応接室のソファーを隅に寄せて、倉庫から持ってきた折りたたみテーブルを二台広げる。

 そこにPCとディスプレイを持ってきて設置した。

 姫宮と知世ちゃんが、とりあえず必要な書類や資料を、椅子に乗せて運んでくる。


 来てもらったシステムの同期に、端末をサーバと繋いでくれるよう頼んだ。


「大沢、いいのか?」

 同期が訊いた。

「いいもなにも、これじゃあ仕事にならないしな。こっちにも納期だってある」

「でもな、勝手に部屋を替えたりして、また、上ににらまれるぞ」

 同期がいう上とは、以前、姫宮へのセクハラの件で俺が揉めた上司だ。

 どうやら、この、いつまでも空調が直らない原因を作ってるのも、その上司らしい。

 まさか、わざと修理を遅らせている、とまでは考えたくないのだけれど、根に持つタイプで、その可能性が大だ。


「睨まれたところで、これ以上、どうなるものでもないだろ」

 社屋の隅の空調が効かない小部屋、それ以下の場所に飛ばされる、なんてことあるんだろうか。


「まあ、それもそうだけどな」

「仕事増やして悪いけど、よろしく頼む。なんか言われたら、俺に半分おどされたって言っとけよ」

「まっ、それはいいんだけどさ」

 同期が苦笑いした。


 引っ越しやPCの設定が終わったのが午後三時頃で、それから、遅れを取り戻すために、三人で必死に仕事をする。


 たまに、事情を知らずに応接室に涼みに来る社員がいて、俺達が必死に仕事をしている姿を見ると、すまなそうに逃げていった。


 社内には暇な部署もあるらしい。



 そんな、ごたごたの一日を過ごして、マンションに帰る頃には午前一時を回っていた。

 残業は極力避けるようにという御触おふれが出ている昨今、こうして日をまたいで帰るのは久しぶりだ。


 眠っている景都や、執筆に集中しているであろう杏奈さんの邪魔にならないよう、俺は静かにドアを開けた。


「お帰りなさい!」


 ところが、玄関のドアを開けた途端、景都が笑顔で俺を出迎えてくれる。

 Tシャツにショートパンツで、タオルを頭に巻いている景都。

 湯上がりなのか、頬が紅潮している。


「師匠、お疲れ様です。冷えたビールと枝豆を用意しておきましたよ」

 景都が、俺の手を引っ張ってダイニングに連れて行った。

 テーブルの上には、晩酌ばんしゃくと夜食の用意がしてある。


「先にお風呂にしますか? それとも、ご飯にしますか?」

 彼女が訊いた。


「景都ちゃん、こんな遅くまで起きてて大丈夫?」

 まさか、彼女が待ってるとは思わなかった。

 仕事の途中で、遅くなるから寝てくれとメールは打っておいたのだけれど。


「何言ってるんですか師匠。私達学生は、明日から夏休みですよ」


 ああ、そういえば、そんな、今考えると夢のような長い休みがあったっけ。


「先にお風呂ですか? ご飯にします?」

「それじゃあ、先にお風呂にします」

 今日の前半は、汗だくだったし。


 さっと風呂に入って、ダイニングで、ビールと枝豆、景都が作ってくれた夜食を食べる。

 すると、杏奈さんが部屋から出て来た。


「あの、私も、お付き合いしていいですか?」

 そう言ってダイニングの椅子に座る杏奈さん。


「はい、お姉ちゃん」

 景都が杏奈さんの分のビールを冷蔵庫から出してきた。

 三人で、しばらく晩酌を楽しむ。


 昼間の灼熱地獄から、やっと、人心地ひとごこちがついた気がした。


「師匠、この前の写真、現像してきたんですよ。ほら、これ、すっごくよく撮れてるでしょ?」

 景都が、杏奈さんの水着のポートレートを見せてくれる。

 ピントがぴったりと合っていて、とろけるようなボケが美しい写真だった。

 ウッドデッキに寝そべって、こちらを挑発するような視線を送る杏奈さん。

 男としては、ウッドデッキで押しつぶされたその胸に目がいってしまった。


 そして、あんなに恥ずかしがっていた杏奈さんが、あの場所でこんな表情を見せていたことを、写真で初めて知る。


「この写真は師匠にあげますね。写真立てに入れて、ベッドサイドに飾ってください」

 景都が言って、

「こら! 景都ちゃん!」

 杏奈さんが恥ずかしそうに景都から写真を取り上げた。


 数時間後には、また起きて会社に行くことになるのだけれど、しばし、そんなことを忘れる。


 ああ、それはそうと、あの写真は、あとでもう一枚プリントしてもらおうと思う。

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