第3話 フィルム

 駅のロータリーで小早川景都の横に車を乗り付けて、短くクラクションを鳴らす。


 ロータリーの鉄柵に寄りかかってスマートフォンに目を落としていた彼女が、びっくりしてこっちを見た。

 車の運転席にいるのが俺だと気付いて、駆け足で近づいてくる。


 紺のパーカーに白いシャツ、チェックのミニスカートを穿いた景都。

 彼女は、背中に黒いリュックを背負って、首からF3をげている。


 俺が車の窓を明けると、

「おはようございます」

 景都が中を覗き込んで挨拶した。

 今日の雲一つない青空のような、晴れ晴れとした挨拶だ。


「どうぞ」

 俺がドアロックを外すと、彼女は乗ろうかどうか、一瞬、迷ったように見えた。

 そしてドアに手をかけ、覚悟を決めてシートに滑り込む。


「男の人の車に乗るの、初めてなので」

 そう言って恐る恐るドアを閉める景都。


 初めて男の車に乗る彼女の戸惑いを、彼女のボーイフレンドになる未来の誰かから奪って申し訳ない。


「カワイイ車ですね」

 景都が言った。

「ありがとう」

 いいおっさんが、カワイイって言われる車に乗ってるのが少し照れくさい。


 この、白のミニ・クラブマンを選んだのは、出て行った元同棲相手だ。

 五年前車を買い換えるとき、後ろの観音開きのドアがかわいいって、彼女がこの車を選んだ。

 それから俺はこの車に乗り続けている。

 車検のタイミングで乗り換えることも考えたのだけれど、結局、そうしないでいた。

 そういえば、この車に女性を乗せるのは、彼女で二人目かもしれない。



 あのファミレスで、小早川景都にフィルムカメラの使い方を教えてほしいと懇願こんがんされて、それを受けてしまった。

 人目もあったし、彼女があまりにも真剣に頼むのもあったし、何も知らない彼女に使われるF3の運命が少々心配でもあった。


 日曜日の朝、俺はこうして早起きして車を出している。

 まあ、こんな予定がなければ、ただベッドの上で惰眠だみんをむさぼるだけの休日だから、それを前途ある若者のために使うのはいいのだけれど。



 つい最近まで俺の手元にあったF3は、景都の首からぶら下がっていた。

 彼女は、F3に花柄のストラップをつけている。

 ストラップが変わるだけで、カメラの表情がこんなに変わるのだと感心した。

 俺が持つと無骨な機械って感じだったのが、景都が首から提げると、おしゃれなアンティークに見える。

 塗装の剥げやくたびれた感じも味に変わった。


「それじゃあ、まず、フィルムを買いにいこうか」

 僕が言うと、

「はいっ、師匠!」

 景都が小気味よい返事をする。


「その、師匠っていうのは、ちょっと……」

「いえ、師匠は師匠ですから」

 彼女は引かない。


「えっと……」

「私のことは、景都けいとって、下の名前で呼んでください」


「それじゃあ、景都ちゃんで」

「はい、師匠」


「だから、師匠っていうのは……」

 カメラを教えるといっても、俺はただの素人カメラマンだ。

 二人だけの時ならまだしも、外でそう呼ばれるのは気恥ずかしい。


「それじゃあ、師匠をやめて『おじさん』って呼びますか?」

「師匠でいいです」

 俺が即答すると、景都がケラケラ笑った。

 なんにも含みがない、素直な笑い声だ。



 以前よく通っていたチェーンのカメラ店に彼女を連れて行く。


 久しぶりに入った店内は、様子が一変していた。

 スマートフォン売り場が拡大していて、カメラ店なのに、肝心かんじんのカメラ売り場は隅に追いやられている。

 それも、デジタルカメラが主体で、フィルムカメラ関連の商品となると品揃えは風前の灯火ともしびだった。

 売り場は店の一番奥で、ほこりを被ったような状態だ。


 それでもフィルムを陳列ちんれつする棚は、かろうじて残っていた。

 棚には、緑や黄色、色鮮やかな小箱に入ったフィルムが並べてある。


「じゃあ、説明するね。まず、フィルムにはサイズがあって、今現在、主に使われているフィルムには、120フィルムと35㎜フィルムっていうのがある」

 俺は景都に向けて講義を始めた。


「120フィルムは、ブローニーフィルムとか、中判フィルムって呼ばれてるんだけど、そのF3より大きな中判カメラで使うフィルムだね。学校で、クラス全員の記念写真とかで使うカメラって言ったら分かるかな? そして、35㎜フィルムの方が、そのF3みたいな普通のカメラで使うフィルムだね。35㎜っていうのは、フィルムの幅のことなんだ」


「F3は、35㎜フィルムですね」

 彼女が繰り返す。


「そして、フィルムには大まかに言って三種類ある。カラーのネガフィルムとモノクロのネガフィルム、そして、カラーのポジフィルムの三種類」


「カラーネガと、モノクロのネガ、カラーのポジフィルムですね」

 彼女が復唱する。


「うん。まず、カラーのポジフィルムは、リバーサルフィルムとも呼ばれるんだけど、反転しない、そのままの像を写すフィルムだ。だから、ライトボックスとかスライドプロジェクターなんかで鑑賞できるし、大きなサイズのフィルムだと、そのままでも見られる。色が鮮やかで綺麗な写真がとれるんだけど、ネガと比べて扱いが少し難しくて、フィルム自体、こういう写真専門店じゃないと扱ってない」


「上級者用ってことですね」

「まあ、そうだね」


「そして、カラーのネガフィルムは、フィルムの上に色とか明暗が反転した像を焼き付けるフィルムだ。だから、写真を確認するのは基本的にプリントしてからになるんだね。ポジフィルムに比べて扱いが簡単で、コンビニでも手に入る。モノクロのネガフィルムは、そのカラーネガフィルムの白黒版だね。カメラに入れるフィルムは、こんなふうに大まかに三種類に分けられる」

 俺なんかの説明を、彼女は真剣な眼差しで聞いている。


「ということで、最初は扱いやすいカラーのネガフィルムを使おう」

「はい」

 俺達は、ネガフィルムの棚の前に移動した。


「それから、フィルムには感度があって、ほら、箱に100とか400とか800って書いてあるよね」

「はい」

「これは、ISO感度っていって、数字が大きいほど高感度で、簡単に言うと、暗い場所でも写真が撮れるようになるんだ。その代わり、一般的に感度が低いほうが綺麗な写真が撮れる。デジカメだと簡単に切り替えられるんだけど、フィルムカメラの場合は、フィルムを選ぶ段階で決めないといけない。最初だし、とりあえず400を選んでおけば間違いないかな」

「400ですね」

 彼女が頷く。


 こうやって一々確認しながら相づちを打つ景都は、部下に持っても苦労しないだろう、なんて考えた。

 せっかくの休みに仕事のことを考える自分に少しあきれる。


「同じネガフィルムでもこんなふうに色々種類があるよね。作ってる会社や製品の種類によって個性があって、撮れる写真の味が変わってくるんだよ。それは、これから景都ちゃんが撮りながら、自分好みのフィルムを見付けるといいね。今日は、定番のこれを使おうか」

 俺が商品棚から定番のフィルムを一本取って景都に渡した。


 彼女はフィルムが入った小箱を宝物でも手にするように受け取る。

 そして、その箱を不思議そうに見た。


「師匠、この、箱に書いてある24とか36っていう数字は、24GBギガバイトと36GBってことですか?」

 彼女が訊く。


 頭にハンマーそ打ち付けられたような衝撃を受けた。

 その衝撃で、地面に埋まってしまいそうだ。


「いや、24は24枚、36は36枚っていう意味だよ」

 俺は平静を装って言った。

 声が少し、うわずっていたかもしれない。


「えっ、24枚しか撮れないんですか?」

「ああ」

「24GBじゃなくて?」

「残念ながら」

「へえ」

 彼女が発した「へえ」は、どんな意味を持つんだろう?

 まるで、古代人の道具にでも触れたような景都の表情だ。


 ともかく、フィルムをレジに持っていく。


 俺が支払いをしようとしたら、景都がかたくなにそれを阻止した。

「師匠、ダメです。ただでさえ、こうしてお時間を割いてもらってるんですから、お金は自分で出します」

 景都はそう言って自分の財布を出す。


「いや、カメラを買ってもらったアフターサービスだから」

 高校生の彼女にとって、F3に払った金額は安くないはずだ。

「いえ、だって師匠にお金払ってもらったら、援交えんこうになっちゃうじゃないですか」

 景都の口から援交っていう言葉を聞いてひるんだ。

 こっちにその気がなくても、傍から見ればそんなふうに取られるのかもしれない。


 しばらく、払う払わないで揉めて、結局、景都が支払いをした。

 そのやり取りを見ていたレジの女性店員が、いぶかしげに俺を見ている。



「フィルムって、高いんですね」

 レジで精算を終えた景都が微妙な顔をした。

「そうだね。メモリーカードに何百枚って入れられて、何回も書き換えられるデジタルカメラとは違うね。こうやって、撮影のたびにお金がかかるし、どうする? フィルムカメラ、やめる?」

 俺は訊いた。


 やめるなら、深みにはまる前にやめておいた方がいい。

 この先には深い沼が待っている。

 はまったら最後、抜け出せない底なし沼だ。


「いえ、やめません!」

 景都が眉毛を吊り上げて半分意地になったように言った。

 これも、若さゆえか。


「よし、それじゃあ、そのフィルムで試し撮りに行こう。どこがいい?」

 俺は訊いた。


「海がいいです!」

 景都が即答する。

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