第4話 シャッターチャンス
小早川景都を助手席に乗せて、近くの海岸線まで車を飛ばした。
浜辺に向かうトンネルを抜けると、途端に視界が開けて、進行方向左手に海が見えてくる。
さざ波が立っていて、反射した太陽がキラキラと
少し開けた窓から、潮の香りが車内に入り込んでくる。
隣に座る景都の前髪が風で浮き上がって、おでこが
景都は髪の乱れも気にせずに海風を浴びている。
気持ちよさそうに目を
初めて男の車に乗るにしては、無防備すぎる気がしないでもない。
海岸線の駐車場に車を停めた。
海開きもしていなし、海水浴シーズンはまだ先のことだから、駐車場は車も人の姿もまばらだ。
「それじゃあ、さっき買ったフィルムをカメラに入れてみようか」
車の中で、景都にフィルムの入れ方を教えることにした。
「はい、師匠!」
景都が目を輝かせる。
「まずは、電源を入れよう。シャッターボタンの下にある突起を、赤い点が見えるまで回して」
「こうですか?」
「うん、そうだね。次に、左側の巻き戻しクランクを引き上げて裏蓋を開けてみよう」
俺が言うと、彼女はそれに従った。
F3の裏蓋が開いて、シャッター幕やスプールが見える。
「裏蓋が開いたらクランクを下げておこう。そしたら次に、クランクの下のスペースにフィルムを入れて、フィルムケースから出てるフィルムの先端を反対側のスプールに差し込む。差し込んで巻き上げレバーを一回巻き上げる。このとき、フィルムの上下に開いてる穴が歯車にかみ合ってるのを確認してね。かみ合ってたら、裏蓋を閉じる」
頷きながら、俺が言った手順をその通りこなす景都。
狭い車内で彼女との距離が近付いて、俺は背を逸らして距離をとった。
「そして、巻き戻しクランクの所にあるダイヤルでフィルムの感度を設定するんだ」
「400のフィルムを買ったから、400に合わせるんですね」
「うん、その通り」
彼女、理解が早い。
「次に、右側のフィルムカウンターの表示が0になるまで、シャッターを切ってフィルムを巻き上げるのを何回か繰り返す」
車内に、パシャパシャとシャッターが切れる音が響いた。
「すごく良い音ですね」
景都が目を輝かせて言う。
この音を心地良いって思えるなら、彼女はこのカメラが好きになると思う。
「さあ、これでフィルムの準備は終わり」
「撮るまで大変なんですね」
「そうだね。でも、何回かやってれば、そのうち慣れるよ」
すぐに目を瞑っていても出来るようになる。
彼女は大変だというけど、俺は、このフィルムを入れる段取りが気に入っていた。
なんだが儀式みたいで、この行為がこれから写真を撮ろうっていう気持ちを盛り上げてくれる。
電源を入れればすぐに写真が撮れる今のデジタルカメラは…………って、おっさん臭いから口にするのは止めておいた。
「よし、実際に撮ってみよう」
二人で車を降りる。
駐車場から続く堤防のスロープを歩いて砂浜まで下った。
砂浜から見ると、目の高さに広がる青い海が遠く水平線まで続いている。
大海を見ていると、仕事上の悩みなんかちっぽけに思えて、気が大きくなった。
まあ、夕方になれば、また明日から仕事かって
一方で景都は、フィルムが入ったF3を両手で持って、緊張の
「これで、いきなり撮っていいんですか?」
「うん、そうだね。まず、レンズの絞りリングを回して、5.6って所に合わせてみようか」
「はい」
景都が言われた通り、絞りリングを回す。
「そして、カメラ本体のシャッタースピードのダイヤルをAに合わせる」
「Aですね」
「そうすると、絞りに合わせてカメラが自動的にシャッタースピードを選んでくれるんだ。あとはシャッターボタンを押して自由に撮ってみよう。絞りとかシャッタースピードについては覚えることもあるけど、とりあえず、最初はこの設定で撮ってみれば失敗はないから」
「はい」
「脇を締めて、カメラをしっかりと構えて、ぶれないようにそれだけ気を付けて」
「はい、師匠」
景都の目は真剣そのものだ。
「オートフォーカスはないから、ピントを合わせるのは、レンズのリングを回して、はっきりと見える場所を探すんだよ」
「はい、師匠」
レンズを海に向けて、ファインダーを覗く景都。
そして彼女は、パシャリとシャッターを切って、青い空と、それよりも青い海をフィルムに焼き付ける。
「撮っちゃいました!」
景都がファインダーから目を離して僕の目を覗き込む。
なんだか、テストで百点取ったって、親に答案用紙を見せる子供みたいだ。
「さあ、あとはどんどん、撮ってこう」
「はい、師匠!」
F3を持って
景都と並んで、被写体を探して砂浜を歩いた。
砂浜は、奇妙な形の流木が打ち上げられてたり、漁師小屋があったり、犬と遊ぶ女の子が裸足で走ってたり、初々しいカップルが手を繋いで歩いてたり、被写体には事欠かなかった。
景都は、ファインダーを覗いてそのすべてにピントを合わせる。
そこにあるものすべてをレンズで捕らえようっていう勢いだ。
けれども、彼女は最後のところでシャッターを切らなかった。
「どうしたの? 撮らないの?」
「はい、なんか、24枚しか撮れないかと思うと、中々シャッター押せなくて」
彼女が言う。
そんな景都を見て、昔の自分を思い出した。
俺も、写真を撮り始めた頃はそうだった。
フィルムが勿体なくてシャッターが切れなくて、いい被写体を見付けても、もっといいシャッターチャンスがあるんじゃないかって撮らないでいるうちに、時間が過ぎて、最後に五枚くらい余ったフィルムで、仕方なくその辺の風景を連続で撮ったりした。
「景都ちゃんは、どうしてカメラ買おうと思ったの?」
俺は、海岸を歩きながら訊いた。
すると、景都は歩きながら「うーん」って少し考える。
今まで何か訊くとすぐに言葉を返した景都が、言おうか言うまいか迷っているように見えた。
「私、写真とか、嫌いだったんです」
しばらくして、踏ん切りをつけたように景都が言う。
「だから、周りが写真を撮ってくれるって言っても嫌がったし、なるべく写らないようにしてました。撮るのも嫌いで、人の写真とか、あんまり撮らなかったんです」
今時、そういうのは珍しいんじゃないだろうか。
スマートフォンで簡単に写真が撮れて、それを簡単にネットに上げたり、誰とでも共有できる時代。
「だけど、今思えば、たくさん写真撮っておけば良かったなって思って…………これからは積極的に写真を撮ろうと思って、どうせ撮るならいいカメラをって、お金貯めました。やっぱり、写真は撮っておくべきです。大切な人って、あっけなく、いなくなっちゃうから」
一瞬、景都の顔からすっと笑いが消えたような気がした。
俺は、無神経に触れてはいけないことに触れてしまったんだろうか。
「あっ、カワイイ!」
突然、景都が砂浜を走った。
その先で、ふてぶてしい、とても可愛いと言えない白黒ぶちのデブ猫が、流木の上に寝そべって日向ぼっこしている。
景都はその猫にレンズを向けた。
「あの、師匠。大きく写すには、どうしたらいいんですか?」
彼女が訊く。
「これは単焦点レンズだからズームは効かないね。だから、大きく写すなら被写体に近づかないとダメだよ」
「そうなんですか。分かりました」
景都が、デブ猫にそっと近づく。
デブ猫のすぐ近くまで忍び寄って、ピントリングを回す景都。
彼女がシャッターに指をかけたところで、デブ猫はのっそりと立ち上がって、「昼寝の邪魔しやがって」って感じでこちらを睨み付けて歩き去った。
遅れてパシャリとシャッターが切れた音がする。
「猫のお尻が撮れたかもです」
景都が笑いながら言った。
それはそれで、傑作が撮れてるかもしれない。
一度撮り始めると景都のペースは早くて、すぐに、フィルムの残り枚数が一枚になった。
喜々として写真を撮る彼女は、見ているだけでこっちも楽しい。
「最後に、師匠が一枚、お手本の写真を撮ってください」
景都が俺にカメラを渡した。
「いいの?」
「はい、お願いします」
俺は彼女からカメラを受け取る。
こいつで写真を撮るのは久しぶりだ。
周囲を見渡して、適当な被写体がないか探した。
いや、探さなくても被写体はそこにあった。
「景都ちゃん、こっち向いて」
俺は彼女に呼びかける。
「えっ? 私を撮るんですか?」
「ああ」
彼女にレンズを向けて、目にピントを合わせた。
「ダメです、師匠、私……」
次の瞬間、ちょうどいい海風が吹いて、彼女のショートボブの髪が揺れた。
俺はその無防備な顔をフィルムに焼き付ける。
やっぱり、F3のシャッターを切るこの感覚は、何物にも代えがたい。
大切なものは、こんなふうに手放してからその大切さが分かるらしい。
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