モラル
@yokota203
第1話
健やかであれ
高校一年の時、弟が生まれた。小さくて、柔らかい存在に、初めて生命の誕生の喜びを知った。
それと引き換えに、母さんが死んだ。母さんをとても愛していた父さんも、何を言い残すわけもなく後を追うように自殺した。
生きる術を知っていたし、弟も可愛かった。それに、まだ父さんと母さんが死んだ事にも、また実感がなかったのかもしれない。だから、親戚の好意を断って、三人で生きていくことに決めた。
高校を中退してバイト三昧。訳を話せば、仕事をくれる理解ある大人がいる事に有難さを感じながら、毎日、朝から晩まで、翔吾と二人で汗水流して働いた。
高校卒業の年、貯めた金でそこそこの広さのアパートを借りた。親戚の友人が不動産業を営んでいたらしく、以前の家をそこそこの値で買い取って貰うことができた。更にはバイト生活でも生活費と合わせて払っていけるくらいの、家賃の手頃な物件を勧めてくれた。
子連れの住人も多いアパートらしく、小さな子供のいる家庭でも安心して生活できるという。一度も弟についての苦情が来たことが無いことから、夜泣きもしない、大人しい弟にも恵まれたのかもしれない。
子育てに関しては何から何まで初めて体験する事ばかり。上手くいかない事も当然あって、何度も弱音を吐きそうになった。
頼りたい事があれば何でも言ってくれと声をかけてくれた父の妹。なんとなく、頼りたくなかった。彼女だけじゃない、どの親戚にも、どんな機関にも頼りたくなかった。
自分達の事は自分達で何とかしてみせる。
唯一自ら頼ったのはインターネット。世界中の情報が集まるこの場所は、どんな問題も解決してくれた。
学校で学べなかった履歴書の書き方、何かしらの手続きの仕方、おむつのつけ方、求人情報、なんでも揃ってる。
高校卒業後は迷わず就職を、と以前から決めていた。幸い、特別やりたい事もない。それに弟が生まれた今、自分の学費に費やしている金が勿体ないと思った。
翔吾は、市内の安い学費が売りの大学に入ると言っていた。それはそれでいいと思う。翔吾にも翔吾の人生がある。バイトで稼いだ収入を一部、家に入れるという条件で入学を応援した。
念のため中卒をメインに求人誌を漁り、思ったように見つからない現実に、高校生までの、大人に守られていた安心感はなくなり、次第に焦り始めた。
金はいくらあっても足りなくなった。父さんと母さんの残した遺産は全て、母さんの姉に持っていかれた。勿論、売り払った家で得た金も。
母さんからの遺書なんて物はなく、父さんも何も残していなかった。当然の事とばかりに話を進める叔母に端から期待はしていなかった。けれど、小さい弟を気遣う姿勢をまるで感じず、この遺産を最後に血縁を切りたいと告げた。
金銭的なゆとりはまるでない。少しでも無駄遣いすると弟のおむつ代やミルク代さえも危うくなる。次の給料日までに残っているのは数枚の千円札とはした額の小銭だけなんて月はざらにある。
なんでもいい。どんなんでもいい。金さえ手に入るなら、どんな職業にでも就く覚悟だった。
ある日偶然、近所のショッピングセンターで再開したのは昔隣に住んでいた爺さんだ。よく小さい頃に遊んでもらった記憶がある。大きくなってからもいつも俺達を気にかけてくれた、優しい人だ。本当の祖父のように想っている。
背中に背負っている弟を見て目を輝かせた。弟が生まれたという話を聞いてからずっと、弟に会える日を心待ちにしていたと告げられ、申し訳なさでいっぱいになった。
敢えて、合わせないようにしていたからだ。この人に会えば、弟は必ず懐く。そうすればこの人は、弟の世話から金から、何から何まで面倒を見てくれようとすると、わかっていたから。
そうはなりたくなかった。つまらない意地なのはわかる。けど、自分達の手で弟を育てたかった。
爺さんは相変わらず察しがいい。「ただ、勇希くんと遊びたいだけだ。おもちゃを買うのは許して欲しいが、子育ての邪魔にならないようにするから」と言ってくれた。
それからは頻繁に、弟を爺さんの所へ預けるようになった。それは実際、とても助かった。面接に力を入れ、就職活動に集中できた。弟も弟で、爺さんを本当の祖父だと思い込んでいるようだ。でも今は、そのままでいいと思った。
隣町のスーパーの事務職に就職が決まった。就業時間を守り、残業を減らすように就業体制を見直しているというしっかりとした職場らしく、決まって良かったと思ってる。安定した時間が確保できれば、弟の世話も今までよりもしやすくなるだろう。
週休二日制も上手く使って、いろんな所に連れて行ってやりたいと思っていた。父さんと母さんが、幼い頃にそうしてくれたように。
弟に物心がつき始めた。弟の成長は喜ばしい事。でも、正直な感想としては、自我を持ち始めた人間はこうも赤ん坊の頃と違い手がかかるのか、という事。
日に日に大きくなっていく弟に気持ち的な焦りがでたのも原因の一つだけれど、自分たちの意思と関係のない動きをする弟に少しずつ苛立ちを感じるようになった。
そんな折、爺さんが亡くなった。弟が爺さんの家で遊んだその日の夜中の事だった。弟は悲しみ、珍しく翔吾とくっついて寝ていた。翔吾も翔吾で、昔世話になった人の死を悲しんでいたんだろう。
弟が小学生になった頃、すっかり習慣づけられた残業や飲みに付き合い、帰りが遅くなる日が増えてきた。弟の世話があると告げ立ち去ろうにも、自分と縁のない理由は全て言い訳として処理され、こちらの事情など聞こうともせずに結局遅くまで帰れない。
酒の味を知ったのは会社の飲み会が初めてで、特に美味いとも感じない。ただ注がれた酒を飲み、注ぎ足され、飲む。まるで作業のようなものだった。
ある日帰宅しリビングに入ると、運動会の案内がテーブルの上に置かれていた。懐かしい記憶が蘇った。母さんと婆ちゃんが作ってくれた弁当を持って、父さんと本当の爺ちゃんがビデオカメラ片手に応援してくれた
翔吾と戦ったリレーや騎馬戦、好きな女の子と一緒に踊ったお遊戯。それらの思い出の一部の写真だけ、アルバムに残ってる。
手帳を開き日程を確認する。運動会は来月の第三土曜。仕事は休みだ。弟と翔吾に伝え、柄にもなく当日の弁当の練習をこっそりとしていた。
前日の金曜日、上司から明日の土曜に出勤するよう命令が下った。なんでも、近隣の高校の学園祭で使用する食材を毎年、このスーパーで納品しているという。
毎年恒例の行事の為、全く事情を知らない訳ではなかったが、担当外だった為に今まで携わってこなかった。ただ今回は納品を担当している社員の臨時休暇が重なったために人手が不足しているという。
そんなの、知った事じゃない。事情を説明しても、「困る」の一点張り、困るのはこっちだ。事前にわかっているならまだしも、運動会が明日に迫っている。弟になんて言えばいい。粘っても結局は権力がものを言った。
買い物をして家に帰ったのは二十時過ぎ。リビングから聞こえる弟の楽しそうな声に気が重くなった。
「俺だけでも行こうか?」
「…勇希が行くって言えば、な」
ソファの隅に丸まって小さく寝息を立てている弟に毛布をかけ、トン、トン、と背中をゆっくり優しく叩く。赤く腫れた瞼と未だ涙の乾かない目尻に罪悪感が拭えない。翔吾に明日の朝早くに説得してもらう事にした。
翌日、朝食の準備をしているとどこからともなく運動会特有の開場の狼煙が上がった。リビングに出て来た翔吾の雰囲気から察するに、翔吾の説得に弟は首を縦に振らなかったらしい。学校に電話を入れ、会社へ向かった。
小学生になってからというもの、弟の成長と共に、ある時期が来ると一気に金が消えていく。それが一年の中で繰り返し起こって、何年も繰り返し起こるという事を忘れていた。
辛くてたまらない。翔吾もバイトで稼いだ金を毎月家に入れてくれはするものの、ほんの僅かな額だ。シフトの関係でしょうがないと言っていたが、本当は仕事の前や終りに友人達との交流に金を注いでいるのを知っている。
弟の成長が悪いわけでもない、翔吾の金遣いが悪いわけでもない。でも、こんなにも家族のために我慢して金を作り、貯め、自分のことを二の次にしてきたのに、何の見返りも帰ってこない生活に、苛立ちが最高潮に達した。
この家に来て、初めて翔吾と喧嘩をした。口喧嘩は何度もあったが、殴り合いの喧嘩に発展したのは初めてだ。“見返りなんか求めるな、厚かましいぞ”そういった翔吾にカッとなった。
翔吾の言い分ももっともだ。でも、同じ日に同じ腹から生まれた片割れが、こうも呑気に大学生活を謳歌しているなかで、自分の報われなさを感じずにいられる訳がない。
見返りとは言わなくても、少しでも、一言でも、労いの言葉でもあれば。そう思わずにはいられなかった。
この頃からだ。弟に悪影響かと思いやめていた煙草をまた、吸い始めた。
職場の経理の女と親しくなり、何度か会社の飲み会を中抜けしては二人で飲む様になった。相手に恋愛感情と欲情を抱いたのは意外にもあっさりと、一ヶ月も満たない程だった。
自分が男である事を今まで忘れていたように、彼女に恋をした瞬間から彼女の事が頭から離れなくなった。忙しない日々の中に無意識のうに癒しを求めていたのかもしれない。
告白は意外にも、彼女からだった。入社して以来ずっと気になっていたのだという。この上ない喜びに気分も上がり、頭の中は彼女に染まった。弟の世話と家事と仕事を行き来する変化の無い生活に楽しみが出来た。
「勇希、わかるよな?」
頷きも、首を横に振りもしないかわりに靴を履き始めた弟が、玄関から出るのを待った。
二十二時半というデジタル時計の表示に、蒸していた煙草を灰皿に押し付ける。彼女を送るためにジャンパーを羽織り、玄関を開けると、帰宅する時とは比べ物にならないくらい冷え込んだ空気が体を包んだ。
「…勇希?」
アパートの裏のゴミ捨て場に暗く影を作っている、収集箱にもたれかかる様に座っている弟を見つけた。辺りが黒い中、唯一の明るさのある肌はやけに白い。一瞬、死んでいるんじゃないかと思うくらい、白い。
もう一度名前を呼ぼうとした時、瞼が揺れた。閉じられた目がほんの少し開き、ぼーっと隣の家との間に建てられた塀を見ている。
外に居ろとは言ったけれど、まさかこんな所にいるとは。疲れたように再び閉じられた目に、頭を掻いた。
それ以来、彼女を連れてくると伝えると、例えそれが何時だろうと、どんな天気だろうと、何も言わずに玄関から出ていくようになった。恐らくいつもの場所で暇をつぶしているのだろう。
迎えにいったのは初日だけで、後はずっと、二十二時ごろに帰ってくるようになった。強要したわけじゃないけれど、弟なりに考えてくれたんだろうと好都合に考えた。
「遅かったな」
帰宅した弟にそう声を掛けた。けれど返ってくるリアクションもなければ、“ただいま”の一言もない。最近こういう事が続いた。最近外に出す頻度が高いせいかとも思ったが、そんな事でいちいち機嫌が悪くなられても困る。
一つ、心当たりがあった。この頃には弟は小学四年生になっていたが、友達一人の話も出て来ない。元々内気だったこともあるのだろうけれど、あまり楽しい学校生活を送れていないようだった。
帰宅したのは、二十三時頃。酒の回った頭は、何かを考えようとする意思を削ぎ落としてくる。暗い廊下を進み、リビングの照明のスイッチを押す。でも、煌々と灯ったのはダイニングテーブルの照明。どうやら相当酔いが回ってるらしい。
ダイニングテーブルに置かれている一枚の紙に目が止まった。『三者面談のお知らせ』と書かれたA4サイズの用紙はの学校からのものだろう。タイトルを見るだけでもう、頭の中で結論は出ていた。
背広の内ポケットに入っているボールペンを取り出し、迷う事なく不参加の欄にザッと丸をつけた。キリトリ線から雑に切り離した片割れだけを残し、案内部分をグシャグシャに丸めてゴミ箱に放り投げた。
ネクタイを外し、ソファに身を投げた。社会人になって初めてわかった事は、求人情報はあてにならないという事だ。残業なし、などと謳っている企業でも、全く無いというわけでもない。ましてや、一度残業を引き受けたならそれがどんどん当たり前になって、定時で帰れるだなんて入社して数ヶ月で夢になった。
早く上がれたとしても結局上司の付き合いで呑んで、気がついたら終電だった事なんてザラにある。精神的と肉体的な疲れを抱え帰ってきて、三者面談に参加する余裕なんてある訳がない。
今の時間翔吾は、仕事中だろう。街にあるホストクラブでバイトを始めたと言っていた。昼夜逆転で、生活リズムも狂い始めてる。代わりに出席してもらおうにも、頼める奴じゃない。面倒臭がられるのがオチだ。
ガラ、という音に振り向くと、開いた扉の前に弟がいた。まだ寝ていなかったのか、部屋着のジャージにトレーナー姿のままだ。
「…にいちゃん…」
ダイニングテーブルに乗っている紙切れに目をやり、口をもごつかせて、何かを言いにくそうにしてる。大方、担任に説得するよう言われてきたんだろう。三者面談を断るのは、これで三度目だからだ。
「忙しいんだよ。先生も、そのくらいわかるだろ」
「家庭訪問…するって」
「はあ!?…嘘だろ…」
人の家の事情を知った上でその結論に達したなら、担任はクズだ。翔吾のささやかな収入と足してやっと三人生きていける生活の為に毎日朝早くから夜遅くまで働いて、自分の時間なんてありゃしない中で、でも小さい弟を育児放棄する訳にも行かなくて、学校にいく時間なんてもってのほかで…なら、家に行ってやるって?やってらんねぇ。
黙りこくったことで弟との間に会話がなくなった。リビングを支配する静けさにおろおろとする弟に、底知れない苛立ちが沸いた。
ガァン、と音を立てたのは、リビングのテーブル。土踏まずを淵に当て、何となく力を入れると盛大な音と共に揺れ、テレビの方へと吹っ飛んだ。
随分大袈裟な音が鳴った。と、他人事の様に考えていた。でもそれは、弟にとってはそんな生易しいものじゃなかったらしい。丸い、薄ピンク色に染まっていた頬は蒼白し、唇が微かに震えてる。やり場の無い手は腹のあたりの布を掴み、みるみる水膜を張ってゆく瞳から涙が溢れるのを我慢しているようだ。
蹴り飛ばしたテーブルに載っていた灰皿を手に取り、胸ポケットから取り出した煙草に火をつける。喉にまで煙を吸い込み、吐く。たったそれだけで脳がクリアになって、隣に立ったまま、遂には頬を濡らした涙を拭っている弟を可哀想に思えてくる。
「…それ貸せ。行くから」
右手を出し、ダイニングテーブルに乗っている紙を取る様に促した。弟はテーブルから紙を拾い、近づいてきた。でも、手渡そうとしない。涙を拭ったまま掴んだ部分は水でふやけ、よれている。
「い、…いい…」
首を左右に振り、グシャリと音を立てて細長い紙を握りつぶしたと思えば、逃げるように寝室の扉に駆け寄り、閉じ籠った。
落ち着いていた気がした気持ちがまた、みるみる悪くなって行く。折角行ってやろうという気になっていたのに、それを無下にされて腹が立たない奴がいるだろうか。
結局、三者面談には行かなかった。家庭訪問も、兄が多忙だと言うことを弟が担任に伝えたようで、そういう話は出なくなった。
丁度仕事も繁忙期に差し掛かっている。多忙は嘘じゃない。でも正直、自分のことで精一杯で弟の事を考えている時間なんてなかった。
彼女に、弟について話した。仕事が忙しい事、学校の担任への愚痴を酒の力を借りて自分の満足が行くまで話した。だから気が付かなかった。彼女が終始何かを考えるように黙っていることに。
不審に思い問いかけると、彼女が言った。弟がそんなに小さい年齢だと思わなかった、と。ゆくゆくは結婚も視野に入れていたけれど、考えてしまう、とも。
頭の中が真っ白で、何も考えられなくなった。
味のしない酒を無意識に浴びる程飲んだらしい。酷く泥酔した状態で鳥足で夜の帰宅路を歩き、苛立ちを、どこの誰のものとも知れぬ家の門壁に拳を打ち付ける。
荷が重い、と別れを切り出された。何度も何度も説得した。でも結局は弟がいる限り彼女は俺のプロポーズに頷いてはくれないだろう。
気がついた時にはソファで寝ていた。玄関を開けた記憶はあるものの、ここに寝た覚えはなかった。考えるのが辛くてもう一度目を閉じた瞬間、ふと、横に気配を感じもう一度瞼を開いた。
眩しい照明の光と共に、弟の顔を見た。心配そうな表情で差し出してきたのはガラスのコップに入った水。ゆらゆらと揺れる水面は痛む頭を一瞬和らげた。でも直ぐに、女の去り際の顔が映った。
シャワーで頭から冷水をかけ、少し頭が冷静になった頃に、さっきまで側にいた弟の事を思い出した。
正直、何を言ったかは何も覚えていない。でも、何かは言ったらしい。歪んだ顔、目に涙を浮かべて、玄関から飛び出していった。
「っ!…てぇ…」
「どした?」
ある日の夕方、珍しく翔吾との休日が重なりリビングでのんびりしていた時、ソファの方から声が聞こえた。
どうやら雑誌で指を切ったらしい血が滲んだ人差し指を見せてきた。絆創膏の置いてある棚を漁り始め、わざとらしく舌打ちをした。
「無ぇ」
「そんな使ったか?」
指を口に咥えながら唸ってる翔吾に、手帳にたまたま入っていた一枚の絆創膏を差し出した。怪我なんて滅多にしないし、絆創膏は一箱結構な量が入ってる。
いつから無くなっていたのかさえわからない。不審に思いながらも冷蔵庫に貼ってある買い物リストに付け加え、冷蔵庫からビールを取り出した。その頃にはもう、その事は頭から消えていた。
寝室兼勉強部屋になっている部屋のスライド扉が開いた。ぺたぺたとフローリングを鳴らしながらトイレへと消え、帰って来たかと思えばキッチンに入り何かを漁りだした。
最近弟と会話した記憶がない。仕事が忙しく時間帯的に合わないというのが大きいだろうが、それでも、夕方は家にいる翔吾も滅多に顔を合わせないと言っていた。
翔吾の話では学校から帰るのも以前より遅く、翔吾の出勤時間までの間に晩御飯を食べにリビングに出てきたことはここ数日で一度もないという。
彼女と疎遠になって以来ずっと、弟を無視している。弟の呼ぶ声に一言返すどころか、存在を消すように意図的に無反応でいた。
大人げないと思いつつもまだ、彼女の事を引きずってる。それが弟が原因だと言うから尚更、原因を前にすると苛立ちが抑えられない。気持ちを整理できるまでは、このままでいたかった。
チン、と軽い音が鳴った。椅子を引く音、ぺりぺりと何かを剥がす音…それを最後に、これと行った音が聞こえなくなった。
もう一本ビールを取りにキッチンへ向かうのと入れ違いに出てきた。手に持っているものを横目に見て、コンロにかかっている今日の夕食が入っている鍋のふたを開ける。
減っていない鍋の中身、掬った形跡のない米、手に持っていた冷凍食品。初めて、弟の反抗を目の当たりにした気がした。
弟が早退してきた。翔吾から連絡を受けてから少しして、会社を中抜けし家に着くと、リビングのソファに翔吾が座っていた。
「貧血だってさ」
「…勇希は?」
「部屋」
軽くノックをして、ドアを引く。静まり返った室内には、よく耳を済まさないと聞こえないくらいに小さな寝息だけが聞こえるだけだった。部屋の端の方に敷かれた敷布団の上、丸まった弟の顔に被さった掛け布団を少しだけめくる。
一人で学校から歩いて帰ってきたと聞いて、大して心配する事でもないと思っていたが、布団から覗く顔色はとてもそんな事を言っていられない程に悪い。
「なぁ、気持ち悪くないか?」
どうやら意識は覚めていたらしい。でも、口を開くことは愚か目を開く気力もがないのか、脱力した首を小さく左右に振るだけだった。
その日は結局会社を早退扱いにしてもらい、夕方頃来た弟の担任からの電話を応対する羽目になった。
どうやら精神的に疲れが溜まっているらしく、自律神経が乱れているという。学校でもうまく生活できず、保健室で一日を過ごすことも頻繁にあるという。
知らなかった。知る術もなかった。今までそれを知るための対話から逃げて来たからだ。電話の向こう、担任の思考が手に取るようにわかる。ほら見た事か、散々面談を拒否し続けた結果がこれだ、と。
「晩飯は?」
「…カレーにした」
時刻はいつの間にやら夕飯時になっていた。弟の体調に合わせて粥やリゾットにしようと米を炊いていたが、ふと、昔の記憶が脳裏をよぎった。
弟の好物はカレーライスだ。幼少期、口の周りをベトベトに汚しながらも、どの料理を食べた時よりも美味しそうに、嬉しそうに食べていたのを覚えている。
我ながら、わかりやすいご機嫌取りだ。こんなことにでもならない限り、弟の好物も作ってやれない。弟の事を嫌いであるつもりもないのにどうしても、弟の成長と共に自分の思い通りにいかなくなる現実が煩わしくてしょうがなかった。
必要以上にルゥをかき混ぜていたらしい。翔吾に手からお玉が奪われ、米にルゥをかけ始めた。自分達用の皿よりも底が深く、一回り小さな食器にスプーンを入れ、キッチンペーパーをかけたものを鍋の横に置いた。
テレビを付け、遅めの夕食のカレーを食べながら、いつものドラマに目を滑らせる。それでも頭に内容が入ってこないのは、扉の向こうの弟の事が気になっているからだ。
カタン、と音がし、部屋の扉が開いた。ゆっくりとした足取りで、眩しそうに目を細めながらリビングに出てきた。不意に目が合い、少しの沈黙の後、何処からともなく腹の鳴る音が聞こえた。
音の元はすぐに察する事が出来たし、それを咎めるつもりも毛頭なかった。けれど、顔を真っ青に染めたかと思えば腹を力いっぱい抑え、怯えているようにこちらを見た。
腹が鳴った事に対しての恥ずかしさを隠しているというよりも、やってはいけない事をしてしまったという表情だ。
声をかけようとした。けれども、まるで逃げるように再び寝室へと入って行った弟に、翔吾と顔を見合わせた。
部屋に入ると、さっき見た光景と同じく、布団の中に丸まっている姿があった。
「ゆう」
さっきと違うのは、布団を取ろうとすると抵抗し、決して布団を捲らせようとしない事。
「カレー、あるからおいで」
それ以上は、どう声をかけていいのかわからない。でも、弟との間に出来た深い関係の溝を埋めるには、今が最大のチャンスのような気がした。そしてこれを逃したらもう、戻れないという気も、していた。
キッチンに入り、カレーの入った鍋を火にかける。ふつふつと気泡が出てきたあたりで、背後に気配を感じた。
「食べれるか?」
小さく頷いた弟に、それだけでなんだか、少しほっとした。
カレーをひとすくい、口に運んだ。もごもごと、小さく、ゆっくりと動かす口に緊張が走る。暫くして喉が動いて、飲み込んだのがわかった。表情はあまり変わらない。でも白く、色のなかった頬に微かに赤みが掛かり、嬉しいのだと思った。
既に食べ終わっていた翔吾は、未だ食卓の椅子に座りテレビを眺めつつ弟の様子を見ている。食器の音とテレビの音が鳴る部屋。けれど会話のない空間にいたたまれなくなり、言葉を発した。
「…学校、どうだ?」
翔吾のわざとらしい咳の直後、カチャン、と、弟のスプーンの先端がカレーの中に落ちたのが見えた。
「…友達とか、もし何かあるなら、言えよ?」
勢いよく上げられた弟の表情、それは、今までにみたことのない表情だ。そう、強いて言えば…恨み。
カレーに沈んだスプーンをそのままに席を立ち、また、さっきと同じように寝室に戻っていった。
一口しか減っていないカレー。どれだけ距離を縮めようと努力しても結局は、あいつが変わろうとしない限り変わらない。
翔吾が呆れたようにため息をついた。俺と同じ気持ちなんだろう。
次の日、学校から携帯に電話がかかってきた。またか、なんて思うのが嫌になる。今すぐ来いという担任の声に焦りが見えて、今までと違う予感がよぎった。
学校の保健室を訪ねると、担任と養護教諭、そして校長がカーテンの閉まっているベッドの前に立っていた。
クラスの窓から飛び降りようとした、と担任は言った。三者からの謝罪なんてものには聞く耳を持たず、改めて聞き直した。
「死のうとしたってことですか?」
慌てて弟のいるベッドの方へと視線を泳がせる担任に苛ついた。何をどうしたら弟が自殺するような事態になるんだ。
聞いた話は酷く悪質なものだった。弟に自慰行為を強要し、それを撮影したものをクラスの黒板に晒した生徒がいたという。生徒の一人が状況を報告に来て、教室にたどり着いた時には既に弟は窓枠に手を掛けていたという。
一番窓際のベッドへと歩み寄る。白く、清潔感のあるカーテンを掴み、音を立てないよう捲ると、ベッドの中央に膨らみを見つけた。
「勇希」
小さく、ひっそりと掛けるつもりだった声は、思ったよりもしっかりと出た。ピクリとも身動きをしない布団の丸みは、けれども一定の呼吸もしていない。神経を研ぎ澄ませ、まるで、何かを待っているようだ。
「おい、大丈夫か?」
めくった布団の隙間から見えた半分開いた右目は、赤く充血していた。止める事もせず、目の横を流れる涙。
知らぬ間に弟は、想像を超える程に精神的に追い詰められていた。いや、追い詰められていたと言うのには語弊がある。弟に辛くあたり、存在を無視した事も原因の一つであるはずだから。
羽織っていたジャケットを脱ぎ布団に丸まる弟の頭のあたりにかけた。
「勇希、行くぞ」
数秒時間を置いて身動きし、布団から覗かせようとした頭をそのままジャケットでつつみ、べッドから出口まで一切、誰とも目を合わさせず、言葉も発さず出た。
養護教諭から預かった紹介状を手に、病院の受付へと向かった。少しすると年配の女性医が弟にあいさつし、手を握り、一つの個室へと連れて行った。
“辛かったわね”と、女医は弟に一声かけた。医師として、まず弟を安心させたかったんだろう。でも、書面の情報でしか、今の弟の状況や傷を知らない人間の言葉と思えば、あまりに軽い言葉に聞こえた。
保健室から今まで、終始無反応な弟に心配になり、横顔を覗き込んだ。乱れたままの前髪に隠れてよく見えないが、顔に生気がなく、どこを見つめるでもなくぼーっとしている。
そんな弟を無視するかのように一方的に話しかけ、弟の腕に被っているシャツのボタンを外し、捲り始めた。
「お兄さん、見たのは初めてですか?」
一瞬、息を忘れるくらいの衝撃を受けた。弟から女医の方へと伸ばされた左腕。手首から少し上のあたりから腕関節のあたりまで隙間なく、赤い線で埋まっていた。
赤に変わった信号に、ゆっくり、慎重にブレーキペダルを押し込んだ。左目でバックミラーを盗み見ると後部座席に座る弟の腕だけが微かに見える。
コートの下に隠れている左腕の傷は、こちらの意識が飛びかける程にショッキングなものだった。手首の少し上から、上へ、上へと行き、肩の方まで達していた無数の切り傷。どれも鮮明な赤色をし、乾いた形跡がまるでなかった。医師の話では、傷の盛り上がりから察するに、幼い頃から続けていたせいで癖付いたものだという。
知らなかった。今思えば一年中長袖を着ていた気がするし、異常に絆創膏がなくなる事もあった。でもまさか、こんなことになってるなんて、普通思わない。
「〜〜」
不意に耳に届いた音にもう一度バックミラーを盗み見る。助手席の後ろ側、窓枠にもたれかかるように耳をつけ、目を閉じている。よく耳を澄ませると、聞こえた。
不規則で、曲にすらなっていないがどこか懐かしく、聞き覚えのある曲だ。
ブレーキペダルから無意識に浮いていた足に焦り、力を込める。意識を弟に戻した時には既に、歌は止まっていた。青へと変わった信号に、ゆっくりと、振動が伝わらないように、ペダルを踏み込んだ。
次の日から、弟の事を第一に考えるようにした。やりたい事、食べたい物、行きたいところ、なんでも叶えて、なんでもしてやりたかった。今までの分まで全部、話を聞いて欲しいというならいつでも聞く気でずっと待っていた。
なのに弟は、何も言おうとしない。前は僅かに帰って来ていたリアクションもなにも、今まで以上にない。
それでもめげずに弟に毎日、何でもいいから話しかけた。翔吾に止めろと何度も言われたが関係ない。弟が自殺しようとするまで何にも気がつかなかった責任がある。
「俺は、お前の味方だから」
キッチンで錠剤を飲もうとしていた弟にかけた言葉。精一杯気を使った言葉だった。弟が欲しがってる言葉がわからなくて、当てずっぽうで、運良く当たればいいな、なんて思ったのがいけなかったのかもしれない。
母さんは不思議と、欲しい言葉を知っていた。いつも欲しい言葉を、欲しい時に投げかけてくれた。それの、真似をしたかった。
パキ、と錠剤の包装を折り、取り出した中身と水を、口に含んだ。ごくり、と飲み込んだ音がやけに大きく耳に届いた。
弟が中一の秋頃、近所のコンビニエンスストアの事務所にいた。
「どうか、警察には…」
頭を下げている。何故俺が。右隣のパイプ椅子に座っている、反省のかけらも見えない弟を、頭を下げながら睨みつける。
弟が万引きした。それも、今回が初めてじゃない。この店で、何度も犯行を重ねていた事が今回の事で全てばれた。過去、どれだけの物を盗んでいたのかハッキリせず、ありったけの持ち金と、本人含め家族全員の出入りを禁止するという条件で見逃してもらうことができた。
その場は収まったが、気持ちは全く晴れない。弟を床に座らせ、向かいのソファに腰を下ろした。
「何で万引きなんてした」
家に居た翔吾は、事情こそ詳しく知らないものの、なんとなく察していたのだと思う。何も言わずに少し離れた位置にあるダイニングテーブルに寄りかかった。
落ち込んでるわけでも、泣きそうなわけでもない。煩わしそうに微かに眉を寄せ、テーブルの下のカーペットの模様を見ている。
「聞いてんのか」
態度にも、返事をしないことにも腹が立った。今まで弟に対して乱暴な口を聞いたことはなかったと思うが、もう我慢の限界だった。
「俺もう、お前の事がわからない」
理解しようとしなかった、というのも間違いじゃない。家族であり、兄弟であり、誰より知っていなければならない存在なのに知ろうとしなかった。でももう、何をしても空回って、全てが無意味に思えて仕方がない。
「お前、普通じゃないよ」
言葉で、態度で思いやるのも、この短時間で既に疲れた。
「そんなのあたりまえじゃん」
声を聞いたのが久々すぎて一瞬、誰の声かわからなかった。
「二人は父さんと母さんに育てられただろうけど僕には、父さんも母さんもいない。にいちゃん達に育てられて、普通な訳がない」
ゴツッ、と頬骨に拳がぶつかった音がした。バランスを崩して倒れた身体は、鈍い音を立ててテレビ台にぶつかった。
悶える身体を踏み抑えつけ胸倉を掴み、呼吸をする隙間を与えず殴る。拳はどうやら鼻に当たったらしい。鼻を覆う掌の隙間から粘り気のある赤い液体がどろりと流れてきた。
考えずとも、弟が言った言葉の意味くらいわかった。この十数年、こいつの為にと頑張った事全てが無駄に終わったということだ。ああ馬鹿らしい。
俺だって大学に行きたかった。若い頃しか楽しめないこともしたかった。もっと自由に、やりたいことしたかった。自分の為に時間を使いたかった。なのに、それなのに、お前のせいで、お前が生まれたから、お前、お前の、お前さえいなければ。
握り方を知らない震える拳が肩に当たった。どうやら反撃する脳みそは付いていたらしい。拳を掴み返し、渾身の力を込める。ミシミシと手のひらの中で軋む骨、このまま力を込めれば、折れる。
ぼき、と硬く凝った首を鳴らす。
口を開くのが面倒で、側頭部の髪を掴み力一杯引っ張る。暴れる身体に苛立ち、背中に思い切り蹴りを入れると、短い呼吸を最後に、大人しくなった。
玄関の取っ手を乱暴に押し、扉を広げる。当然放り投げた。重くなった身体は、遠くへは飛ばずに扉下の段差に伸びるだけだった。
扉が閉まらない。腹に足の裏をつけて押し出す様に力を入れた。
荒んだリビングに戻ると、割れたテレビ画面を惜しそうに眺めてる翔吾がいた。
「すっきりしたかよ」
「…あ?」
ソファに腰をかけ、煙草を取り出し火をつける。赤く染まった、煙草を持つ手の甲から、鉄の匂いがする。
昔からこうやって、第三者に立って冷静に、物事を済むのを待っているこいつが嫌いだった。
倒れたスタンド照明が窓につけたヒビ。あちこちの修理費を考えるだけでうんざりする。無理矢理窓を開け、ベランダで煙草を一本吸う。気づけば一本、もう一本、更に一本。
なんだか、身体が楽になった。自分の全てを吐き出したからかもしれない。今までの鬱憤を原因である弟にぶつけた事で発散された。
ほんの十数分いるだけのつもりが、気がつけば一時間近くいたらしい。肌寒さを感じてリビングに入った。
「…なにしてんだよ」
「流石にやべぇかなって思って」
ソファの上に横たわり、翔吾が背中をさすっているのは弟。大袈裟に見えるほど大きく、不規則な呼吸を繰り返してる。翔吾が鼻に充てるティッシュは見る間に真っ赤に染まっていく。ソファの下に置かれているゴミ袋の中に、同じく赤く染まったティッシュが大量に入っているのがみえる。
翔吾が車を出す間、部屋に二人。弟をみて、ただただ呆然と立ちすくむことしか出来ない。
悪かった、その一言さえ出てこない。
いつものように廊下を進み、いつものフロアにたどり着き、いつもの部屋の前で立ち止まる。けれど、いつものように扉を開こうとすると、鍵がかかっているのか開かない。よく見ると、扉の取っ手にかかっていた筈の弟の名前の札がなくなっている。
「こんばんは」
背後からかけられた声に振り向くと、担当医が立っていた。
「…こんばんは…えっと」
言葉の代わりに、視線を扉へとやり、再び目を合わせると、察したように口を開いた。
「勇希君はこちらです」
「ぁ、え…部屋、移動したんですか?」
説明も無く弟の元へと案内しようとする彼に思わず口を開いた。でも、昨日までこの部屋で過ごしていたのに予告もなく部屋が変わる事なんてあるだろうか。
何かあった。その予感は的中していたようで、気が進まないと言ったような表情を見せた後、担当医がポケットから鍵を取り出し、扉の鍵穴に差し込み回した
“誰の部屋だったのだろう”と、他人事のように考えてしまう、いや、考えたくなるような部屋だ。
四方を囲む、可愛らしい柄の壁。優しいクリーム色をした壁の下部の壁紙に散る赤。
床に散らばっているのは引き裂かれた絵本。破かれ、ところどころに飛んだ血液が固まり、赤黒いシミを作っている。
胃がむかつき、吐き気がこみ上げる。頭がぐらついて、貧血を起こしているようだ。この異常な空間を受け止めきれない。夢であって欲しいと願わずにいられない。
案内されるがまま、廊下を進む。以前のフロアとは対象年齢が明らかに違う雰囲気の廊下をずっと奥まで歩き続ける。
壁のいたるところに描かれているのは、花や蜂の絵。それらは床にも施され、コンクリートの建物のつくりを忘れさせる程に柔らかな印象へと変わっていった。
一つの部屋の前で立ち止まった。鍵を取り出すことなく扉は横に開いた。
「この部屋では靴を脱いで下さい」
縦横三十センチ程度の足場以外、すべてクッション素材の床材が敷かれている。足の裏に感じる感覚は同時に、先ほどから抱いている疑問と不安に拍車をかけた。
それに、言われるまま部屋に入ってはみたものの、肝心の弟の姿が見えない。弟はどこか、と疑問を口に開きかけた。
「弟さんは今朝、自傷行為を繰り返しました。原因はまだわかっていませんが、以前の部屋では再び自傷を繰り返してしまう可能性があったために、急遽部屋を移動したんです」
自傷行為。その言葉だけが頭の中を埋め尽くした。頭に蘇る、腕一本を埋め尽くす程の切り傷。あれを見たとき、もう二度とこんなことをさせてはいけないと思っていたのに。
さっき見た部屋で、何かがあった事は覚悟していた。けれど、あそこに散っていた血が全て弟のものなのだとしたら。全てが自傷行為で出来た光景なのだとしたら。
「この向こうに弟さんがいます。向こうからこちらの様子は見えませんし、声も聞こえません」
目の前の、灰色のロールカーテンが上げられた。大きな硝子窓の向こうにいるのは、確かに、弟だ。
「…ゆう…」
ベッドのない、子供部屋のような空間の壁に背中を預け座っている弟。頭に巻かれた包帯と、さっき見た部屋の壁が結びつき、鼻の奥がツンと痛む。床はこっちの部屋同様、柔らかい床材のようで、窓が無い代わりに、窓枠を模した模様の壁紙が使われている。
「壁も全て、柔らかい素材です。打撲で傷を作ることは不可能です。この部屋にはもう、自身を傷つけることができるものはありません」
それが、安心できることなのか、わからなくなった。弟の自傷行為の意味は、無意識に乱れた精神を正そうとする為の行為だ。自分を傷つけた時の痛み、傷、血で、自分を保っているんだ。なのに、それを弟から奪っていいのか。自分を助ける為の行為を奪えば、それこそ勇希は、苦しむんじゃないか。
〜〜、〜〜〜、〜
「……ぁ、」
「鼻唄を唄ってますね。今日はご機嫌かな?」
何も知らない医師が、微笑みながら弟を見る。分かっちゃいない、何も。窓の淵に捕まって、ふらつく身体と嗚咽に耐える。
硝子窓の向こう。弟は唄ってる。
自分の死を、願ってる。
明日へ翔ける翼であれ
兄弟が一人増えた。このご時世、中学生で妊娠すれば親と子供でもおかしくはない年齢差の弟。
別に俺は、弟が欲しいとも思ったことはない。でも、父さんと母さんはまた、子供を増やしたくなったんだろうと思った。別にいい。俺の他にももう一人、俺の片割れがいる。世話とか面倒ごとは、俺が何を言うことも無くあいつがやるだろう。なんて気楽に考えていた。
ただ、俺の人生に支障が出なければそれでよかった。
父さんが死んだのが高二の時。いきなり壊れた環境に、まず必要なのは金だとわかってたから、馬鹿真面目に必死になって金を稼いだ。休日も全部シフトを入れて、自分が苦労しないようにしたかった。
日々のストレスで随分前に手を出していた煙草。いつも通り家で吸おうとすると健吾が煩く注意してきた。まだ小さい弟に有害だから、と。そんなの、俺の知った事じゃないと思った。俺は、俺の吸いたい時に煙草を吸う。自分が吸うのを辞めたからといって、それを俺にまで押し付けてくるのはお門違いだ。
何かと弟を理由にして口を出すようになってきた健吾に次第に苛立ってきた。何をするにも、どんなときにも、弟、弟、弟。
でも俺は知っている。表面だけは良い兄を演じようとしても、心の中では、俺を恨んでいて、勇希を煩わしく思っていることを。
勇希は俺を呼ばない。言葉を覚えたての頃はよく、爺ちゃんに教わった俺の名前を呼びながら近寄ってきていた。
でも、成長していくにつれて、どこかよそよそしくなっていった。俺も、勇希にどういう距離感で接すればいいのかがいまいち掴めずにいた。
小学生になった今は特に、会話らしい会話をした覚えも無い。俺に直接用がある事もないのだろうし、あったとしてもいつも健吾経由で話をする。
それは俺も望んだ事でもあるし、面倒ごとも無くて楽だ。勇希も勇希でそう思っているのかもしれない。俺があいつに淡泊になればなるほど、まるでそれを察するかのように勇希も、俺を遠くから見るだけになっていく。
自分がなんとなく、勇希の保護者なのだと自覚したのは勇希の小学校の行事の知らせが届いた時。俺と健吾の時も、同じような内容文が父さんと母さんの元に来ていたんだろう。
本当なら、爺ちゃんに参加してもらう予定だった。本当の爺ちゃんじゃない。前の家に住んでいた時、隣に一人で住んでいた爺ちゃん。
頻繁に遊びに来るようになって、昔のように変わらず接してくれた。勇希の祝い事も祝ってくれたし、一年に数多くある行事にも勇気を喜ばせるものを持ってきてくれた。
それだけでも俺も健吾も大分楽できた。爺ちゃんも、意地を張り続ける健吾を見かねたのか、健吾の下らないプライドに触れないように手助けしてくれた。本人は少ない、と言っていたが、かなりの金額をひっそりと渡してきてくれたこともしばしばあった。同じように健吾にも渡していたようだ。
その爺ちゃんが去年亡くなって、いよいよ誰の助けも借りられなくなった。今年は俺と健吾で行くしかない。
出勤前、勇希が風呂に入っている間にプリントを眺めた。これといって変化のないプログラムだ。でも不思議と、この季節のこのイベントの空気感は嫌いじゃない。自分でも驚くくらい乗り気で、運動会に行く気でいた。勇希も勇希で、運動会を楽しみにしているらしい。練習したダンスをリビングでひっそりと練習してるのを見て初めて、勇希を弟だと実感した気がする。
でもなかなかうまくはいかない。部屋の隅でいつまでも丸めている背中を軽く叩いた。夕方の五時。待ち望んでいた行事はもうとっくにお開きになっているだろう。
「大人も大人で大変なんだぜ」
小学生に言ったところで理解などできる訳も、別にして欲しいとも思っちゃいない。ただ珍しく、健吾も落ち込んでいた。だからなんとなく、あいつの言い訳を代弁してやろうと思っただけだ。
バイト先の常連や知り合いの飲みに付き合うようになってから、今までとは違う系統の人間とつるむようになった。夜の街で、稼いだ金をつぎ込みストレスを発散する術も教えてもらった。
そのせいでほんのたまに、家に入れるだけの金が手元に残らない事があった。一度それで健吾と殴り合ったが、もうあんな面倒なのは御免だと思った。自分の不幸をここぞとばかりに爆発させ、自分一人が大変なのだと恥ずかしげもなく喚いた。
お前は苦労している。でも、俺も苦労はしている。お前と俺とで圧倒的に違うのは、どうすれば自分を維持できるかを考えたか考えなかったかの差だ。
自分が犠牲になればいい。そしてそれに誰かが気が付いて労ってくれればそれで報われる。そんな甘い考えでいるから自爆する。
自分を保てない奴に、人を思いやるなんて出来ないんだよ。
うんざりしていた。必死こいて金貯めた金の使い道に口出しされるのも、人に自分の人生のリズムを崩されるのも。
それをよく行くバーのマスターに愚痴った。年齢を偽っていたのは少々問題あるが、そのお陰でホストクラブのバイトを勧めて貰えた。ホストクラブなら、自分の娯楽と金を稼ぐという両方の願いを叶えられる。そう言われてしまえば断る理由なんてなくて、迷いなく話を受けた。
ホストクラブのバイトは想像以上に良いことづくめだった。職場での飲酒OKになってから仕事という建前で客の話し相手をすれば酒が飲めるし、若さとノリの良さでランクは好調にアップし給料も良い。
そして何より、弟の面倒を見る事を最小限に抑える事が出来る。これだけでもかなり違う。何が悲しくて若者を謳歌できる年齢で子供の世話をしなきゃならない。
そんなことを言えば健吾も俺と同じ年齢。俺みたいに考えた事もあると思う。でも、そんなのは自分でどうにかすればいい。双子の片割れが俺みたいなやつで可哀相だとは思う。それでも前の職場よりは収入がいい。その分家にも安定して金を入れられるようになった。健吾も、何も言えやしないだろう。結局そういうもんだ。兄弟なんて。
深夜のバイトを始めてから生活が逆転するようになった。加えて平日の昼間は大学。流石にしんどくて、休日は帰宅してから夜までぶっ通しで寝るなんて当たり前になった。
元々頭は悪い方じゃない。教科書さえ読めば大抵のテストやなんかはクリアできる分、勉強なんてする時間も気力も無駄に思えて授業中は睡眠に使った。
卒業の証さえあれば、あとはどーとでもなる。正直大学に入るのもいい会社に入る為じゃない。ただ遊ぶ時間を、学生の気分を捨てたくなかったから。
「飯、食ったのか?」
首を横に振った勇希に苛ついた。俺が起きてくるまで何も作らずに待ってる。まだまだ小さいのは重々承知だ。だから常に火もレンジも使わないものを用意してあるのに、それを食べようとしない。
「あっそ。俺外で食うから」
出勤直前まで寝ていたいと思うのは誰しもがそうだろう。それを、自分以外の為に早起きして飯を用意してやるなんて余裕はもうない。俺は親じゃない。自分の飯の用意くらい、出来るようになってもらわないと困る。今日みたいに健吾がいない日となると尚更だ。
黙って親戚の好意に甘えていればいいものを、健吾のつまらん意地でこんな狭苦しい箱に押し込められた。部屋の狭さと人と人の距離感が比例しているように思えて、息が詰まりそうだ。
それから逃れるように、俺は外に出る。
「…なにしてんだ?」
バイトが休みの日の夜、煙草を買いに家の近所のコンビニに寄ると、総菜コーナーに勇希が居た。
今は夜の十時過ぎ。小学生が一人で出歩いていたら通報される時間だ。店員もどうしたもんかと思っていたのだろう。身内の登場に安堵の表情を浮かべている。
勇希が手に持っていた鮭握りとペットボトルの茶を奪い、会計を済ませ店を出た。
「…あ」
「なんだよ」
「今、女の人が」
「…ッチ、マジかよ。あの野郎」
最近健吾が女を連れ込んでる。つい最近まで堅物だったのが嘘のようなクズぶりだ。
俺に対する嫌がらせか。人の休日を丸無視したタイミングでの連れ込みも、通報の対象になる弟を夜に追い出すのも、今までの反動が来ているように自分の事しか考えていない。
公園の適当なベンチに腰を掛け、隣に座る勇希に鮭握りとお茶と、気まぐれに買った肉まんを渡す。
最近ずっと、こんな感じの食生活なのだと思う。近頃は夕方から出かけそのまま職場へ行くことが続いていた。単に健吾の顔を見たくないからだ。そのせいで勇希の食事をしている姿も見ていない。
特に気にかけている訳じゃないが、冷蔵庫の焼きそばの賞味期限が切れていた。勇希に作ってやることも、勇希に料理を教えるも放棄しているんだろう。
腹は減っているらしい。少し考え事をしている間に鮭握りを食べ終え肉まんを食べ始めた。俺も、帰り道のショップで買ったハンバーガーを口に含んだ。給料ぎりぎりじゃなきゃ、今頃街で酒を飲んでいたのに、何してんだ、俺は。
機嫌が良いらしい。鼻歌を歌ってる。随分懐かしい曲だ。勇希が幼稚園の頃、爺ちゃんが勇希に買った絵本の歌詞に俺と健吾が勝手に付けたメロディだ。
ジャンパーを勇希に被せ、離れた入り口で煙草に火をつける。
「~~、~、~~♪」
勇希の真似をして、鼻唄を歌った。
「あいつにあんま、あーいう事すんな」
翌日、タイミング良くか悪くか、出勤前に帰ってっ来た健吾に出くわした。女を連れ込むことは百歩譲って許したとして、勇希を追い出して警察の世話になるのはお前だ、と言いたかった。
反応は思ったよりも素直で、謝ってきた。あまりに非常識なことは薄々感じていたところだったらしい。
「なあ翔吾、勇希からなにか聞いてないか?」
「…別に何も聞いてねぇけど」
そうか、と言ったっきりで会話が終わった。そもそもあいつが俺に何かを言う事なんてない。相談なんてまずしないだろう。
そういうの含めて俺は、健吾に任せてる。勇希も、俺よりもこいつの方が話しやすいだろう。だからさっさと拗れた関係を戻して欲しかった。
ヒビの入ってるテレビ台のガラス、吹っ飛ばしたように乱れているテーブル、床に散らばる煙草の吸殻、ソファで寝ている健吾。
「あ~~~、うっぜぇーな」
叩き起こし、風呂に押し込んでソファを陣取る。朝の八時にのんきに寝てると思えば今日は健吾は休日だった。
「………」
目の前の光景を見る限り、昨晩俺が外泊している間に何があったかなんて一目瞭然だ。でも、その原因を知ればこっちに飛び火するのも目に見えている。俺はお人良しじゃない。
片づけるのも面倒で、ソファで買ってきたカツ丼を食らう。
目にしたのは偶然だった。着替えようと寝室の扉を開くと、同じタイミングで勇希も着替えていた。左腕に引っ掻いたような無数の跡がびっちりと刻まれてる。ミミズ腫れの所々の皮膚が捲れ、血が滲んでいる。
隠す様子もなく、淡々とパーカーに袖を通していく。ここ最近、勇希がストレスを抱えてるのは目に見えてわかっていた。今までは“わからない、知らない”でうまく抑えて来れた感情が、成長するごとに“わかってきた”。
どうすれば良いかわからない、でも、耐えられない程に辛い。それで見つけた方法が“これ”って訳だ。
そんな傷じゃ、満足に発散できないと直感でわかった。開いていた扉を閉め、小声で話しかける。
「貸してやろうか?」
棚から取り出し差し出した鋏の使い道を、勇希は瞬時に理解した。恐らく、使い方も知っているんだろう。
今まで刃物に手を出さなかったのは健吾という堅物のせいだ。リストカットの痕なんて見られた日には、理由を聞く事もなく、怒声を浴びせるだろう。それか、世間体を気にして勇希にリストカットを辞めさせるか、だ。
自傷行為をする人間からその行為を奪おうとするのは、死刑宣告と同じだとネットの馬鹿げた記事を読んだことがある。でも確かに、腕に爪を立てる事が勇希の逃げ道になっている今、それを取り上げた日にはこいつは壊れるだろうな。
「ありがとう」
そういって鋏を受け取った。それは何に対してのありがとうなんだろうな。
また聞こえた、鼻唄だ。特に楽しい状況じゃないと思うが、勇希の考えている事はわからない。
ある昼下がり、玄関の開く音で目が覚めた。欠伸をしながら寝室の扉を開くと、床に勇希が座り込んでいた。
「どうした?」
顔が青い、というのはこういう事を言うんだろうと思った。ランドセルを下ろさせ、とりあえずソファに寝かせる。原因がわからない以上どうする事もできない。とりあえず健吾に連絡をして、最悪病院に連れていくつもりで用意した。
健吾の帰宅を待つ間に、学校から連絡がき来た。『勇希君は無事に着きましたか』、なんてアホな質問にムッとした。普通、教師が送るとか学校にいる段階で保護者に連絡するのが義務だと思ったから。だがそれは、勇希が担任に頼んだ事だと聞いて納得した。
症状は貧血で、原因は体力の低下と栄養失調だという。この手の話は面倒だと、健吾の帰宅時間に改めて電話するよう告げ、適当に切り上げた。
着替えさせ、なんとなく袖から引っ張り出した左腕の傷は、前よりも鮮明な赤い線に変わっていた。俺の鋏はどうやら、目的の用途通りに使われているらしい。
手首から少し上、絆創膏がこれでもかという程に貼られていた。何重にも張られた絆創膏の淵からはみ出した血は固まっているものの、剥がせば湧き出てきそうな程に新しい。
貧血の理由も、大量に消えた絆創膏の理由もわかった。そして恐らく、この理由を知っているのは、俺だけだ。
「助けてやろうか?」
問いかけに、小さく寝息を立てている口からは答えはない。そして、起きたところで、“いらない”と、答えるだろう。勇希は、助けの乞い方を知らない。教えていない。その代わり、自分で何とかする術はある。そう教えてきた。
小学生らしくない生活を送らせている自覚がある分、罪悪感はある。なかなかここまで傷のある小学生は現代でもそういないだろうから。
「…材料あったか」
冷蔵庫を確認して、レシピを検索した。
帰ってきた健吾は勇希の様子をみてすぐ、キッチンに入って行った。冷蔵庫を漁り、作り始めた夕飯はカレーだった。こういうところは兄弟だなって思った。勇希の好物を作ろうと思うんだから。
「〜〜、〜♪」
「…それ、なんか聞き覚えあるな、なんの曲だっけ?」
「あ?あれだろ、勇希の絵本の曲だろ」
「あ〜、そうだ。よく覚えてるな」
「…ああ、まぁな」
勇希がよく歌ってると健吾に言うのを、不思議と躊躇った。特に理由はないが、なんとなく。
米の炊けた音を合図に、キッチンに入る。何かを考えている手は、カレーをぐるぐると意味も無くかき混ぜている。
勇希が学校でどういう生活をしているのか、俺達は知らなかった。特に興味も無かったし、本人が話してこない事を聞き出すのはあまり良くない事だと思ってた。
現に俺がそうだった。言いたくない事の一つや二つ、いや、勇希の年代の頃は言いたくない事が殆どだった気がする。母さんに何かを自分の事を聞かれるのが嫌で仕方なくて、まるで探るかのように会話を持ち込まれるのが大嫌いだった。
カレーを食っていると、寝室の扉が開いた。さっきよりも大分顔色が戻ったようだが、血が巡らないのか、扉に凭れたまま数秒固まっていた。
ドラマの映像に視線を戻すと同時に聞こえた腹の鳴る音。なんとなく真っ先に盗み見たのは、健吾の表情。
気まずそうではあったが、怒りのない表情。それが焦りに変わったときには勇希は部屋に一目散に逃げて行った後だった。
常に俺達の顔色を窺って、そして機嫌を損ねるような事をしてはいけない。勇希の中ではそういうルールみたいなものが出来上がってるんだろう。
別に俺は、勇希に暴力をふるった事も暴言を吐いたことも何かを強制したことも無い。でも、頼ることもできない存在。俺にとっては好都合。でも、勇希にとってはこれ程までに扱いにくく頼りにならない人間もいないんだろう。
敵か味方か、わからない存在。俺にもわからない。善人、悪人…自分が勇希にとって何になろうとしてるのか。
リビングに戻ってきた勇希はやっと、カレーを一口食べた。最近勇希が飯を食べている光景を見ていなかったせいか、さっき見た腕の傷のせいかわからないが、段々と身体が脆くなっている気がする。
「学校はどうだ」
耳を疑う言葉に健吾を睨み、咳ばらいをする。馬鹿野郎、それ以上聞くな、という意味を込めて。だがそんなのはこいつにはわからない。友達、相談、勇希の地雷を踏むようなワードを平気で投げかけるこいつは、本当に何も見ちゃいない。
再び逃げるように寝室に飛び込んで閉じられた扉は、また暫く開くことは無いだろう。かける言葉も無い。健吾の無神経ぶりに呆れてため息が出た。
「悪いが今日は仕事、休んでくれ」
珍しく緊張した声が電話越しに聞こえた。迷惑を承知で、寝ているであろう店長に休み希望の連絡をした。
健吾から電話が来たのは午前中の九時過ぎだったが、二人が帰ってきたのは夕方の五時ごろだった。待ちくたびれて途中で寝落ちていたが、どうやらそれは正解だったらしい。長い夜になりそうだ。
額に手を当てて、ソファに座り込んだまま沈黙している健吾を他所に、勇希が精神科で貰って来た内服薬の中身を出した。精神安定剤が丸々一か月分。飛び降りまでしようとした人間に、これほどまでに頼りない物はないだろうと鼻で笑った。
健吾が随分と精神に応えている様子なのはきっと、腕の傷を見たせいだろう。人形のように脱力した勇希を着替えさせる時、前とは比べ物にならないくらいに刻まれた傷を見た。俺ですら、少し具合が悪くなりそうな程。でも健吾はその様子を見ても、自分を責めるような深い溜息をつくだけで何も言わなかった。恐らく、病院で既に見せつけられたのだろう。
自分にかかっていたストレス全部を傷にしてくれたお陰で、一目で勇希の重症具合がわかったってことだ。
あれは誰が見ても、異常だ。
「〜〜♪」
「それ辞めろ!」
何気なく歌った鼻歌に健吾が怒声を飛ばしてきた。他意はなかったが、そんな怯えた顔されると、とことん追い詰めたくなる。
「なに、あいつ歌ってた?」
「…知ってたのか」
「まぁな、歌うタイミングも、なんとなくわかってきたわ」
予想はしてたのか、額を覆うように両手を当て、溜息を吐いてる。どうやら帰ってくるまでの間、どこかで勇希が唄ったらしい。
「どうすればいい?」
「俺に聞くなよ」
「お前はいつもそうだよな」
「喧嘩売るなよ面倒臭ぇ。あいつがして欲しいことしてやりゃあいいだけだろ」
我ながら適当なことを言うと思った。そんなことで治る精神状態なら、死のうとしたりしないだろう。
俺の言葉を真に受けたのか、眉間に皺を寄せて考え始めた。健吾、お前はいい加減自分の行動が空回っているのに気が付いた方がいい。そうしないと地獄を見るのはお前自身だ。
言ったところで、こいつは俺の話など聞かないだろうが。
数日後の夕方、リビングの扉が開き勇希がカウンセリングから帰ってきた。
ただいまも言わなければ目も合わせず、棚から内服薬を取り出しキッチンに入っていった。後を追うように立ち上がった健吾も、同じくキッチンへと姿を消した。
勇希がして欲しい事、言う程簡単じゃない。だがそれは、今はただただ放っておいて欲しい、それに尽きるだろう。勇希の気持ちに共感したって不信感しか生まれない。否定すれば最後、自分の存在さえも自分で否定し始めて、死のうとする。全てが敵、全ての言葉がナイフになっている勇希に何を言ったって、勇希を完全に壊しかねない。なのにお前は。
『俺はお前の味方だから』
本当に大馬鹿野郎だよ。健吾。
人が変わった様、というのはこういう事なんだろう。今まで俺達の顔色を窺って、作り笑顔を作っていた勇希はどこにもいない。逆に、健吾が勇希の顔色を伺い始めたのが何ともおかしい光景だ。
表情筋、顔色さえも、一切変えなくなった。側で大きな物音がしても、熱湯に近い温度のココアを零しても、眉一つ動かさない。
無。まさにそんな感じだ。
勇希が壊れたのは誰のせいでもない、だなんて馬鹿げたことを言うつもりはない。勇希を虐めた学校の連中、見て見ぬふりをした教師、勇希を知ろうとしなかった健吾、そして知っていながらも放っておいた俺。全員が勇希を壊した。
もっと俺が良い兄貴だったら、勇希が正常な間に、勇希を元気づけたり楽しいことを教えたりしたのかもしれない。でも悪い。俺は、こういう奴なんだよ。
勇希が前みたいに戻るには、また莫大な金と時間が必要になるだろう。転校、精神科への通院費、毎日家にいる生活になれば生活費だってかかる。
また、繰り返しだ。そうなれば、更に勇希の精神が快方に向かう可能性は低い。もしかしたら今度は、健吾が病むかもしれない。そうなるのだけは御免だ。
「死んだ方が、楽だったんじゃねぇの」
誰に言うわけでもなく一人、出勤前の時間をソファで過ごしていた。
けたたましい音を立てて玄関が開いた。嫌な予感なんてものを感じる余裕すらなく、引きずられるように部屋に入ってきた勇希に溜息を漏らす。
また、よくもここまで頻繁に問題を起こしてくれるもんだ。何があったかを健吾に聞くよりも、成り行きを見た方が早い。そう判断して、俺はダイニングテーブルに腰を預けるようにもたれかかった。
今までのストレス発散方法は自己完結だった、けれど今回はついに他人に迷惑かけたって訳だ。健吾の『お前を信じる』発言を試したかっただとか、そんなところだろうが、それとこれとは状況が違う。
無音の空間に鳴るのはアナログ時計の秒針の音だけ。呼吸がしにくくてしょうがない。
いつから手癖が付いたのかは知らないが、きっと、俺達が勇希の異変に気が付くもっと、ずっと前からだったのだろう。
「お前、普通じゃないよ」
健吾も大概、限界が来ているんだろう。自分の手首を切りまくって、窓から飛び降りかけて、その上万引きで捕まりそうになってる奴が普通なわけが無い。
そんなの当たり前じゃん、と言った勇希の声は、久しぶりに聞いたせいか、俺が覚えているよりも少し低くなっていた。
俺と健吾が育ってきた環境と、勇希の今まではまるで別物だ。勇希の言い分は最もだと思うし、薄々そう感じているだろうとは思っていた。だから俺は何も言わなかった。
でも健吾は違う。勇希にしては思い切った発言だったがそれは、健吾にとっては捧げて来た自分の人生を一瞬で粉々にされたのと同じ事。
俺が動くのよりも一秒、健吾の方が早かった。鈍い音の後に、勇希がテレビ台に後頭部をぶつけたのを見て健吾の腕を背後から抑えた。
「おい、落ち着け馬鹿」
頭に血が上るといつもこうだ。腕を封じても身もだえ、自由な足で未だ勇希への攻撃を止めない。
俺だって大学に行きたかった。若い歳を楽しみたかった。自由になりたかった。やりたいことしたかった。自分の為に時間を使いたかった。
お前のせいで。
お前が生まれたから。
お前さえいなければ。
俺の腕を振りほどきながら、馬鹿みたいに吠えている。健吾が拳を振るう度、俺の頬や鼻にも飛んでくる血。これが、健吾の本音。本当の姿だ。
なんだそりゃ、殆ど俺への文句じゃねぇか。それを勇希に当てるなんてお角違いだろうよ。
勇希の顔を見ている暇はなかった。とにかくこの馬鹿を止めるので精一杯。ほんと、迷惑な兄貴だよな。
思い切り肘で鳩尾を突かれた。激痛に冷や汗を浮かべていると、暫くの打撲の音の後、短い、切れるような呼吸を最後に空気が静まり返った。
目の前を引きずられていく勇希を、黙って見続けた。俺のとばっちりであんなにボロボロになって、罪悪感が無い訳じゃない。でも、今回はお前ら、どっちもどっちだな。
健吾が蹴って割れた46V型の液晶テレビ。一人暮らしをする時が来たらかっぱらうつもりだったけど、もう使いものにならない。
戻ってきたのは健吾一人。人でも殺した後のような荒れぶりにため息をつく。
「すっきりしたかよ」
俺の問いかけに睨み返してきた。チンピラのような顔には、以前のような弟想いの兄の顔など微塵も感じない。昔から言うだろ、まとも気取ってる奴ほどキれたらヤバイって。
窓を開けたと思えば、ベランダで煙草を吸い始めた。なんだかな、俺は、お前の事も良くわかんねぇよ。健吾。
玄関の扉を開くと何もなかった。てっきりここに転がされてると思ってたが、その予想は半分当たりで半分外れていたらしい。点々と道を作ってる血は共同の非常階段の方へと向かっている。
「おっまえ、動くなよ」
近所に見られたら、とか、そういう問題はもう諦めた。さっきの騒音は隣や下にも聞こえていただろうし、最悪通報されている可能性もある。
俺が言ったのは、勇希の状況を見て、だ。嗚咽しているように呼吸も乱れ、散々蹴られた腹を抑えて唸っている。もう鼻血だかなんだかもわからないもので顔全体も汚れて、脂汗も涙も出て酷い有様だ。
「掴まれホラ、病院行くぞ」
持ち上げた身体は思ったよりも重い。鳩尾が刺すように痛んだが、昔喧嘩で肋を骨折した時よりはマシだ。俺の胸元のシャツを掴み、痛みをこらえている。
「~~、~~♪」
意味は特に無い。ただ自然と歌っただけ。家の扉の前に着くまでのほんの短い道のり。サビの部分を繰り返し唄った。
真っ先に治療が始まり、術後は精神病棟に運ばれた。腕の傷を見れば一発で精神がおかしいことくらいわかるんだろう。
意識は数日のうちに戻った。が、言葉を完全に無くした。発声器官が死んだわけじゃないらしいが、自分で遮断しているんだろう。誰の、どんな問いかけにも答えない。
アパートの住人は案の定、警察に通報していた。逃げようとしたわけじゃない。ただ、パトカーが到着する前に俺達が自分から病院へ向かっただけだ。勇希が死んでいないとなると、単に兄弟喧嘩と話をする事ができる。
健吾はアパートの解約手続きと弁償手続き、俺達が別々に住むための新しい家の手続きに追われている。
代わりに、俺が警察に説明する羽目になったが、状況を客観的に見ていた分、健吾が捕まらないよう説明するのは容易かった。
健吾から連絡が来て、それが良い話題である事なんてよく考えたら一度も無かった。着信を知らせるバイブレーダーの音が、早く出ろと告げている。
勇希が入院した精神科から健吾に呼ばれ向かった。勇希の部屋はミラーガラス越しに見る事が出来た。一言で言うなら、小学生の子供部屋みたいな場所だと思った。そんな部屋のベッドの上に寝ている中学生。違和感を感じながらも、ここに来る途中に前を通った個室の数に、そういう人間がこの世にごまんといる事を知った。
見た限り、部屋の中には何もなかった。だからと言う訳でもないが、絵本を一冊、渡すように医師に頼んだ。
この本は、例の歌の本。勇希の本棚にあったものを持ってきた。
勇希があの歌を好んでいるのか嫌っているのかはわからない。恐らく本当の歌詞も知らないんだろう。
俺も忘れていたけれど、この本のタイトルは『ゆうきのうた』。爺ちゃんが勇希の名前にちなんで買ったやつだ。
改めて読んだが、救いようのない言葉が羅列されてるだけの、現実を知らない人間が喜びそうな内容の歌詞だった。
本自体を手に取るかどうかは勇希次第だし、この歌詞を読んでどうなるかはわからない。もしかすると、壊れるかもしれない。
でももう、良いだろう。これで最悪な結果になったとしても、俺は後悔しない。死にたいのに死ねない。その方何倍も狂いそうになる。その引き金を引いてやるのが、俺の、兄としての最初で最後の役割だと思った。
もう、勇希を見守る事は辞める。ここにも、もう来ない。勇希も俺達に何の期待もしていないだろう。
勇希は、終わらせようとしてる。
それを俺は、肯定も否定もしない。
俺にそんな資格は、無い。
勇気と希望を胸に
物心ついた頃の記憶はぼやけていて、あまり思い出すことができない。でも、僕に始めて笑いかけてくれたのは、健吾兄ちゃんだった。
“お母さんとお父さん“がいない事に対して、疑問に思ったことは無かった。僕にはお爺ちゃんも、お兄ちゃんもいる。皆、いつも僕と遊んでくれたから、寂しいと感じた事が無かった。だからこの生活が、当たり前なんだと思ってた。
お爺ちゃんがよく連れて行ってくれた公園で、仲良くなりたい子達がたくさんいた。一緒に泥団子を作っていると、その子達の“お母さん”からよく聞かれることが増えた、どうして、お父さんとお母さんがいないのって。お爺ちゃんとはよく公園に来るけれど、お母さんとお父さんは?って。
どうして僕に聞くんだろう。僕は何も知らない。お爺ちゃんも兄ちゃんも、理由を教えてくれたことはなかった。特に、聞いたこともなければ、知らなくてもいいと思ったから。
だから、“わからない”と答えた。その大人は僕に“かわいそうに”と言った。お爺ちゃんは庇ってくれたけど、どうしてかその言葉が悲しくて、その日は一日中泣いていたのを覚えている。
悲しいことは続いて、お爺ちゃんが死んでしまった。前の日まで一緒に遊んでいたのに、もう会えないとは思えなくて、白い箱の中で目を閉じているお爺ちゃんを一生懸命起こそうとした。
お爺ちゃんが大好きだった。僕の一日の中で、寂しい時間が増えた。お爺ちゃんが買ってくれた絵本。毎日のように読み聞かせてくれた思い出の本。文字はまだよくわからなかったけれど、絵を全部覚える程、何度もページを捲った。
一生、大切にしようと思った。
健吾兄ちゃんの仕事が忙しい日や平日は毎晩、翔吾兄ちゃんが晩御飯を作ってくれた。
一緒に食べ始めても、翔吾兄ちゃんは仕事へ行くためにみるみるうちにお皿の中身を空にしていって、僕が半分食べ終わらないうちに食べ終わってしまう。そのうち健吾兄ちゃんが帰ってきて、晩御飯を食べ始めるけど、その頃には今度は僕が食べ終わってしまう。
兄ちゃんが忙しいのもわかっていて、僕が我儘を言えば兄ちゃん達に迷惑がかかる事もなんとなくわかってきていた。それでも少し、寂しかった。
僕が大きくなる毎に、兄ちゃん達と一緒にいられる時間が少なくなった。もうお爺ちゃんはいない。心の中で甘えそうになるけれど、我儘なんて言えなかった。
小学校に入学した。数日経つと、僕と他の子達の差がさっそく見え始めた。友達、勉強と、僕が初めてだと感じること全て、周りの子達は慣れていて、焦った。幼稚園を出ていない僕は友達の作り方も知らない、書けるひらがなも不格好。大勢で食べるご飯も初めて。
自分達と僕があまりに違うのに気が付いた子達は、“友達になろう”という僕の声に”嫌だ“と言った。
何もかもが怖い。
学校が嫌いになった。
それでも楽しみな行事がここには沢山あった。いつもの勉強とは違って、昔お爺ちゃんと一緒にテレビで見たような、楽しいものだ。
“友達になろう”とめげずに掛けた声に“いいよ”と答えてくれた子が沢山いた事に自信がついて、少し小学校が楽しくなった。だから、初めての“友達”と一緒に何かをするのが楽しみだった。
だから、それが叶わなくなったときはショックだった。兄ちゃんの仕事が忙しいのはわかっているけど、約束したのに、と思った。本当はお爺ちゃんと三人で観に来て欲しかった。でもお爺ちゃんはもういない。でも兄ちゃん達が来てくれるならって、折角いっぱいお友達と練習したのに。運動だって頑張ったのに、って、思い始めると止まらなかった。
それから一年ごとにある行事には、あまり期待しないようにすることにした。学習発表会もバザーも運動会も、兄ちゃん達が都合がついた時に来てくれればいいと思うようになった。
でも、他の子はお母さんとお父さんが必ず観に来てくれている子ばかりだったから、少しだけ羨ましかった。
小学校高学年になった頃から、健吾兄ちゃんが僕に優しく声をかけてくることが増えた。最初は嬉しかった、でも段々とわかってきたのは、それは僕に外に出て欲しがっている時だって事。
どうして外に居なければならないのか、そう聞いたって、慌てた様子であしらわれる。理由はわからないけれど、そうしないといけないのはわかる。だから言う通りにした。
夜は寒い。寒さを凌げる場所がわからなくて、一階にあるゴミ捨て場の木箱に寄り添うようにしゃがみ込んだ。する事も無くてただぼーっと、足元の石ころを眺めて過ごした。
眠っていたらしい。健吾兄ちゃんの声で目を覚ました。どれだけ時間がたっていたのかわからない。けれど、健吾兄ちゃんの機嫌が良さそうでよかった。
これを機に、同じように家から出るように言われることが増えた。やっぱり理由はわからない。でも、一度だけ見たのは、僕が外に出た少し後に、女の人が僕たちの家に入っていったところだった。
どうして女の人が家に入っていってのかはわからなかった。でも、僕がここにいる理由と、女の人は無関係じゃないと思った。
この間のように眠ってしまわないように、でも初日に兄ちゃんが呼びに来たくらいの時間まで自分なりに暇を潰すことにした。
ただ少し寒い季節だったから、体調を崩しやすかった。家に帰るころには頭が熱くて、なんとなく怠かった。
学校で放課後、職員室に呼ばれることが増えた。原因は、僕が保護者宛のプリントや連絡を保護者である兄ちゃん達に伝えていない事。
何となく、兄ちゃんに伝えにくかった。怒りはしないけれど、僕が話しかけようとすると良かったはずの機嫌がみるみる悪くなって行くような気がした。
それでも保護者の目に止めなければならない情報だから、どうしたって伝えなければならない。兄に話しにくい、だなんて先生に言うことは出来ない。兄が多忙でプリントを読む暇がないと、事実半分、嘘半分をついても先生はわかってはくれなかった。
ある日、いよいよ痺れを切らした先生が、兄に直接会いに僕の家に来ると言い出した。
考えなくたってわかった。もし先生が家に来るようなことがあれば、怒られるのは僕だと。今まで隠していたプリントの事も、先生についた嘘も全部ばれて、今までよりももっと機嫌が悪くなる。
兄ちゃんは言葉では怒らなかった。でも、もの凄い音を立てて棚にぶつかった机に鼻の奥がツンとした。
怖い。
今まで感じた事のないくらい、健吾兄ちゃんが怖かった。僕と兄ちゃんしかいない空間で、誰に助けを求める事も出来ない。
煙草から出る煙に咽そうになりながら、袖で懸命に涙を拭いた。面談に来てくれると言った言葉に募ったのは安堵の気持ちじゃなくて、恐怖だった。兄ちゃんが、次はどういう行動に出るのかがわからなくて、それが堪らなく怖くて、気がついたら逃げていた。
外に行けと言われなくなった頃から、今度は健吾兄ちゃんに無視されるようになった。“兄ちゃん”と呼んでも、返事が返ってくることがなかったから、聞きたい事があっても声をかける事が出来なくなった。僕を見ないようにしているのが、一目でわかった。
学校でも友達に無視されてた。何かをした覚えがないのに。でも無視されているという事は何かをしたんだ。でも、原因がわからない。だから思った。僕の事が見えていないんじゃないかって。
「僕の事、見えてる?」
急に怖くなって、翔吾兄ちゃんに聞いてみた。僕の声に振り向いたし、面倒くさそうに、でも「うん」と返事もしたから、僕の事が見えてない訳じゃない事は分かった。
じゃあどうして、皆僕を無視するんだろう。考えても考えても、わからなかった。考える度に不安になって、胸が苦しくなるから、じっと耐える事にした。
耐えられないのは僕が弱いせいなのかわからないけれど、毎日気分が悪くて、なんにも楽しい事が考えられそうになかった。学校に行かなきゃいけないのに、行きたくなくなってた。
具合が悪い日が続いて、翔吾兄ちゃんに学校に連絡をして貰って休んだ。
寝ようとしても寝付けなくて、ボーっと見つめていた本棚には、僕の学校の教科書やおもちゃが入ってる。目に留まった一冊の絵本の背表紙をジッと見た。
何度も読んだから、絵や話の内容は覚えている。それに作中の歌のメロディーだけは、思い出そうとしなくても勝手に音となって頭の中に流れる。健吾兄ちゃんと翔吾兄ちゃんが勝手に作った音程で、よく歌ってくれてた。
あの頃は凄く、楽しかった。兄ちゃん達との今の生活が嫌なわけじゃない。でも、お爺ちゃんが生きていてくれたらって思ってしまう。
辛い事が続いて起こるようになった。他の人からすれば大したことじゃないのかもしれないけれど、どうする事も出来ないくらいに辛い。
健吾兄ちゃんは、僕の事が嫌いなんだ。どうしてもそう思えてしまう。僕が何をしても不機嫌な顔をしているし、この間は怒鳴られた。酔って辛そうだった兄ちゃんに水を渡そうとしたらコップを払いのけられ、“余計な事すんな”“どっか行けよ”と言われた。
怖くて、悲しくて、女の人は来ないのに家を出て、暫く外にいた。でも、もうわかった。皆が僕を嫌う理由。それは、僕自身がいるからだって。
着替える時に偶然、切るのを忘れていた伸びた爪が、腕を引掻いた。チリッとした痛みに驚いたけれど、それ以上に、少し、ほんの少しだけ、心地よく感じた。
好奇心で、爪を三本腕に突き立てて、思い切り引掻いてみた。痛い、凄く。でも、楽になった。心にあったもやつきが、頭の中で渦巻いていた自己嫌悪が、今までにないくらい、楽になった。
気がついたら癖になってた。何でも、嫌なことが少しでもあったらすぐに爪で左腕を引っ掻いた。赤く膨らんだ線の上を指の腹でなぞると、皮膚が焼けるように痛んだ。
でも、辞められない。引掻く度に嫌な出来事が頭から自然と消えていくから。爪が真新しい線を引き、皮膚がガリっと音を立てる度に、鉄臭い匂いと一緒に安心した。
でも繰り返すうちに、慣れて来た。痛みをあまり感じななくなってきた。痛みを感じないと、すっきりしない。
この傷と出会うまでずっと感じていた頭を殴られるような痛みがまた、再発しそうだ。これは辛いから、嫌い。同じ”痛み”だけど、全然違う。
どうしようもなくて、布団の中で狂いそうになった。
翔吾兄ちゃんに見られた。偶然だったけど、なんとなく憂鬱な気持ちになった。健吾兄ちゃんに告げ口するんだろうなって思ったから。
でも翔吾兄ちゃんは、僕に凄いものを貸してくれた。刃物、どうしてこんないいものに気がつかなかったんだろうと思った。
翔吾兄ちゃんは健吾兄ちゃんと違って、あまり僕に感情を向けない。だから僕も翔吾兄ちゃんの事をあまりよく知らず、勝手に苦手になっていた。
でも、こうしてプレゼントをくれた。久々に嬉しいことが起こった。礼を言って、翔吾兄ちゃんが部屋を出た後にさっそく、開いた刃を腕に当てて引いた。
「…凄い」
当然痛い。でも、本当に凄い。今までの比じゃないくらいに心が落ち着いていくのがわかる。
よかった。これでまた、暫くは大丈夫だと安心した。
最近、体調がよくない。食欲がなくて、食べれるときに適当に冷凍食品を食べる生活をしているからだとは思う。
兄ちゃん達と食事の時間が被らないようにしていたせいもあると思う。なんとなく、食事中の無音の時間が苦手だった。
キッチンに用意してある食事は兄ちゃん達のもの。僕は働いていないから、兄ちゃん達と同じものを食べる資格がない。
だから食事も最小限に、兄ちゃんから貰っているお小遣いで買って用意する。誰かに強制されたわけじゃないけれど、そうしようと思った。
学校で急に具合が悪くなった。算数の時間で特に立っていたわけじゃないけれど、急に眼が回って、気持ち悪くなった。
暫くは我慢していたけれど、いよいよ横になりくなった。先生に付き添われて横になった保健室で、貧血だと言われた。
家庭の事情を知る担任の先生は、兄ちゃんに連絡して迎えに来るよう伝えると言ってきた。ぐらつく頭を必死に起こして、それだけは辞めるように頼み込んだ。先生はいつまでもわかってくれない。どうして兄ちゃんの逆鱗に触れるようなことをしようとするのだろう。わかっててわざとなのだとしたら僕はもう、この大人を信用できない。
あまり長居すると痺れを切らされて勝手に兄ちゃんに連絡されると思った。数十分休んで体調は回復したと嘘を付き、何度も倒れそうになりながら帰り道を歩いた。
家に着いた記憶も無ければ布団に入つた覚えも無い。けれど、耳に届いた声に意識は浮上した。
優しくて、一瞬誰の声かわからなかったけれど、健吾兄ちゃんの声だった。具合は少し楽になってはいたけれどまだ、気持ちが悪い。胃が空っぽで、分泌する胃液も無い気がする。
健吾兄ちゃんが部屋から出て行って、緊張が一気に解れた。また静かになった部屋に目を閉じた。けれど、リビングから聞こえる音がやけに大きく感じて、もう一度寝ようにも眠れなくなった。
暫く気持ち悪さに寝返り、脂汗を滲ませていた。時間が経てば治ると思っていたけれど、限界が来た。何かを胃に入れないと、この具合は解消しないとわかった。だから、水を飲もうと身体を起こし、部屋の扉を開けた。
空腹で空っぽの胃が締め付けられるようにへこんで、腹が盛大になった。そんなつもりじゃなかったのに、兄ちゃん達の食べているカレーの匂いに胃が欲しがった。
同時に、気持ち悪さが押し寄せた。具合が悪いからじゃない。僕を見る健吾兄ちゃんに何かを言われるのが怖いから。
懸命に腹を押して、鳴りやむのを待った。早く鳴り止んで。早く、早く。
でも鳴る腹が収まらなくて、堪らずに部屋に戻って布団の中にもぐりこんだ。
未だに鳴り続ける胃に拳を振りかざそうとした時、僕を呼ぶ声が聞こえた。体中の筋肉が緊張して、歯がカチカチと音を立てて震えた。何をこんなに怖がっているのか自分でもわからない。けど、健吾兄ちゃんの機嫌を損ねる事だけは絶対にしてはいけないと思った。
もう一度掛けられた言葉は予想していなかった言葉だけに、どう反応していいかわからなかった。強引に押してくることも無く、カレーを食べるならおいで、というように、僕に選ばせてくれた。
涙が目頭から溢れて、布団を濡らした。どうしてか、これだけの事なのに凄く嬉しかった。
目の前に用意されたカレーを見るとまた、胃が動いた。そもそも、ちゃんとした食事を久しぶりに食べる気がする。
ひとすくい口に運んだカレーは本当に美味しい。口の中に広がった味にまた涙が出そうになった。
もうひとすくい食べられるかな、なんて考えている時、健吾兄ちゃんが僕の学校生活について聞いてきた。兄ちゃんからすればただ、僕の近況を知りたかったのだと思う。けど、その話は聞いて欲しくなかった事だった。
最近、酷く嫌なことがあった。これは誰に言うつもりもないし、言いたくない事。腕の傷の殆どの原因でもある。それに加えて、友達だと思っていた人が僕の陰口を言っているのを知った。物も良くなくなるし、この間は背中を蹴られた。
でも担任の先生にそんなこと、言えるわけが無い。だってそんなことをしたらまた、先生は兄ちゃんに連絡を取ろうとする。それに兄ちゃんも僕が虐められてるなんて知ったらきっと、怒る。
それにわかってる。健吾兄ちゃんにも翔吾兄ちゃんにも、誰にこの事を相談したって僕への虐めは無くならないって。全く知らない土地へ引っ越したりしない限りはそんなの、悪化するだけだ。
相談なんて出来るわけが無い。だからこうして、自分なりに耐えている。毎日、一日の記憶を消すように腕に刻み続けてる。
飲み込んだカレーが戻りそうなくらいに気持ち悪くなって、布団に戻った。流れ出る涙をそのままに手探りで棚からハサミを取り出して、日課をこなしていく。
腕の半分以上を埋めた盛り上がりのある傷。初めて、無意味なもののように思えた。
どうでもよくなった。なにもかも。
ただ目の前の窓から落ちればいい。
考えるのをやめた。体の力は自然と抜けて、足が進むままに歩いて、棚を登って、何もない空間に体を傾けた。
終わろう。
そう思った。
なのに。
瞼を開いたら、何も変わってなかった。いる、僕を笑ってた人達。ある、僕を必要としない場所。声が聞こえる、でも言っている意味はわからない。
この掴まれた腕を切り落として、もう一度、誰にも掴まれないような速さで、思い切り飛び降りる。いや、ガラスで首を切ったほうが早いかもしれない。
確実に死ねる方法を、頭の中で二、三考案したけれど、全て病院へ運ばれる運命が見えた。
ああ、面倒だな。死ぬのって、こんなに大変なんだ。死にたいと思っても、邪魔をしてくる存在があるから。
目の前が、全く定まらない。揺れて、揺れて、吐きそう。目を閉じたい。閉じてみた。身体が揺れて、何処かにぶつかった。どこに行こうとしたんだっけ。まぁいいや、別の場所へ、行って、終わらせよう。でももう、少し、いや、大分眠い。身体も重い。もしかしたらこのままでいいのかもしれない。
目を開いたって何も良いことなんかないのはわかってるのに、どうしたって現実と向き合わなきゃならない。
目の前のものを見る前に、かけられている布団の中で身を守った。このまま誰にも見つからないでいれたら、どれだけいいだろう。
でもそんな現実逃避が許されてるほどこの世が甘くなくて、理不尽なことはわかってる。だから、健吾兄ちゃんの声が聞こえる。
僕を呼ぶ声は怒っている訳でも、心配している訳でもないように聞こえた。責めるような声。
耳を塞いで、何も聞こえないようにした。ついでに目も塞いで、感覚も無くして…ああもう、だからさっき、あのまま落ちていれば。
上げられた布団から覗きこんでくる好奇の目。嫌い。どうして皆、僕を楽しそうに見るの。何がそんなに楽しいの。兄ちゃんだって、本当は思ってるんでしょ。楽しいって。
煙草の匂いのするジャケット。振り払いたくなった。あの頃の兄ちゃんの匂いなんてどこにもない。懐かしさも感じない。
嫌。なにもかもが嫌だ。
知らないおばさんが笑いかけて来た。なに、誰。何を笑ってるの。そんなに何が可笑しいの。
僕が自慰行為をしてるのを見て、泣いているのを見て、それを写真に撮って、現像した写真を見て、それが黒板一面に張られてるのを見て、それを見る本人を見て、自殺未遂の現場を見て、
何が楽しいんだよ。
何を一方的に話してるのか、全く聞こえない。話すスピードが速いのか、僕の出来の悪い頭の回転が遅いの変わらないけど、なにも理解できない。する気も無い。
“辛かったわね”と、目を覗き込んでそう語りかけて来た。うん、辛い。辛かったじゃない、今も辛い。解るはずないんだよ、何も知らない人たちなんかに。
だからそういう事も平気で出来る。どういうつもりなんだ。翔吾兄ちゃんならまだしも、健吾兄ちゃんに見せるなんて。
今まで隠してきたつもりも無ければ見せつける気も無かった。でも知られたら、何かを言われるのは目に見えていたから、健吾兄ちゃんに見つかる前に辞めなきゃと思っていた。でも辞めれなかった。その繰り返しの、汚い痕を、僕の許可も無く兄ちゃんの前に曝け出した。
なんだよその得意げな顔。僕が自傷行為してるなんて、わかってましたよって顔。
嫌い。
顔色が一気に変わった健吾兄ちゃんに、女の人を思い切り睨みつけた。ほら見なよ。なんてことをしてくれたんだ。いったい誰の為だと思ってこんなことをしたんだ。僕は知られたいとも思ってなかった。健吾兄ちゃんが知る必要なんてなかったのに。
この人も、僕を面白がってる。
手渡された意味のない薬。これでもう、僕は完全に病人扱い。
唯一の薬だったハサミは、健吾兄ちゃんが取り上げるだろう。だからもう、諦めた。車の窓から見える空を眺めた。なんで僕はまだこんなところにいるんだろう。あの空のずっと奥、今頃、あそこにいるはずだったのに。
鼻歌を歌った。久しぶりに思い出したメロディー。多分、お爺ちゃんのいる場所を眺めたから。
なんだか心が安らいだ。家に着くまでの間ずっと、心の中で歌い続けた。
すべての事に興味がなくなった。自分にすら。呼吸は、ただ吸って吐いているだけ。やることなすこと全てに意味は無くて、いよいよ自分の存在意義なんてものはこれっぽっちも感じない。
毎日飲んでいる薬は何の意味も無い。効果のないものに金を掛ける事ほど馬鹿なことも無いけれど、薬を飲んでいるだけで健吾兄ちゃんは安心した顔をする。
あれ以来、健吾兄ちゃんはよく喋るようになった。というか、僕に常に話しかけてくる。でも僕はそれに何か言葉を返したりはしない。だって、全ての言葉が上辺だけに聞こえて仕方がないから。
本当に僕の事を知ろうとしていない。僕の事を考えていない。とりあえず、声をかけておこう、そんな感じに思える。
いらないよ、そんな気遣い。今まで通りの兄ちゃんで居てよ。そうすればお互い、気を使わないで済む。僕も僕できっと、放っておかれている方が楽なんだ。
兄ちゃんは、僕が隙あらば自殺しようとしていると思っているみたいだけれど、心から自殺しようと考えたのは学校での一件以来、ない。
自分でも何が引き金になるのかはわからないけれど、普通に暮らしている分には問題ないと思う。
けれどもう、前みたいにびくびくしている自分じゃない。今はとても清々しい気分で、何も怖いと感じない。
変化ない毎日を過ごす“病人”の生活に飽きてきたのもある。だから少し、刺激のある事をしたかった。というのは建前で、『お前の味方』。そう言った健吾兄ちゃんに少し、言葉の重みを知ってもらおうと思った。僕みたいな人間にそんな言葉を使ったら、後悔するよって。
やったことを正当化するつもりも無い。僕がしたことは犯罪で、その責任は全て兄ちゃんに行くこともわかってた。
兄ちゃんを困らせたかったわけでもなかった。結局は困らせたし、迷惑もかけたけれど。
でも僕は、確かめたかった。兄ちゃんの言葉を。
『お前の味方だから』
上辺の言葉だとわかっているけれど、本当に僕の味方で居てくれるのか、僕の話を聞いてくれるのか、知りたかった。
でも、そんなの結局は嘘っぱち。店の事務所で僕を一目見た瞬間に頬に感じた拳は怒りに震え、帰りに僕を車に押し込んだ力は、味方どころか僕を人間とさえ思っていなかった。
兄ちゃんを試した罰だ。さっさと諦めていれば、こんな厄介なことにならなかったのに。ダイニングテーブルによ寄りかかっている翔吾兄ちゃんと目が合った時、僕と全く同じことを思っている事がわかった。
翔吾兄ちゃんはいつもどこかで冷静に、僕たちを見ていた。今こういう状況になる事も、おおよそ想像していたのかもしれない。
また、健吾兄ちゃんが形だけの質問を始めた。何故万引きをしたのか。兄ちゃんの言葉を試したかったからなんて言えるはずもない。言ったら最後、何度も組み替えているその拳で殴られる。
未だに痛む頬を感じながら黙っていた。何をどう返せばいいのか考えていたのだけれど、その時間すら惜しいのか、途中に言葉をはさんできて思考を止められる。
普通じゃない。その言葉には少し苛立った。万引きの事だけを言ってるんじゃない。僕の全てを否定した言い方だった。
普通ってなに。何を基準として僕を普通じゃないって言ってるの。自分?他人?もしも自分なら、健吾兄ちゃんと僕は生まれた瞬間から何もかもが違う。持っているものも、性格も、考え方も、身体も、家族も環境も。
当たり前なことを言わないで欲しい。そしてそれを責めるなんて、あまりに酷い。
だから言った、今まで思ってたこと全部。
「そんなの当たり前じゃん。兄ちゃん達にはお母さんもお父さんもいて、誰にも気を使わないでみんなに愛されて育ったんだろ。でも僕は、爺ちゃんが死んでからずっと、なんでこんなに辛い思いしてるんだよ。普通じゃない?おかしくもなるよ!なんで普通に育ててくれなかったんだよ!僕だって死のうとなんてしたくなかった。でも、もう限界なんだよ!兄ちゃんだって僕の事邪魔だって思ってんだろ!だからそんなこと言うんだろ!邪魔なら邪魔って言えよ、前みたいに出ていくから!」
脳が揺れた衝撃で身体を支えられなかった。後頭部を思い切り打ち付けて意識が朦朧とする。腹を踏まれて、目を開く間もなく拳が飛んできた。
何度も何度も、何度も何度も。
健吾兄ちゃんの叫びと共に。振り下ろされた。
叫びは兄ちゃんの本音だった。兄ちゃんだって、自分の人生を送りたかった筈なのに、僕が邪魔した。僕の存在が兄ちゃんの人生を狂わせた。
なんだ、そっか、じゃあ、もう、ずっと前から、いらなかったんだ。
涙が零れた。二人にとって、大事な弟で居たいだなんて呑気に思ってた事が恥ずかしくて、馬鹿らしくて。
最期の抵抗にと、力の入らない拳を兄ちゃんに向けた。こんな、赤子の手よりも弱いもの、何の役にも立たない。小さかった僕の手を、兄ちゃんはどうやって受け止めてくれたんだろう。
最初から、こうやって骨が軋むまで力を込めてくれていれば、お互い違う人生があったかもしれない。
優しい健吾兄ちゃん。兄ちゃんを恨んだ事はある、でも、最後まで嫌いになれなかった。だって、翔吾兄ちゃんも健吾兄ちゃんも、僕の大事な兄ちゃんだから。
ゴン、という音が心地いい。常にある脳を締め上げるような痛みが、その一瞬だけ無くなるから。
ずっと頭が痛い。病んで、発狂したくなる程に痛い。けれど、発狂したってどうにもならないのはもうわかった。
部屋に散乱した紙のようなもの。これがなんだったかは思い出せない。部屋に送り込まれてその日に壊してしまったから。
ゴン、ゴン、ゴン、ドッ、
何度も叩きつける度、頭が楽になる。生暖かいものがこめかみをゆっくりと伝っていく。
徐々に、警戒に響いていた心地よい音が、汚らしい、生ものが潰れるような音に変わっていった。頭痛とは違う痛みが、壁に打ち付けている部分からする。打ち付ける度に痛む。でも、辞めると頭痛が再び襲ってくる。
痛い。
目が回って、ゴン、と一際大きい音が後頭部から脳に響いた。ああ、心地いい。でもまたすぐに、頭が痛い。
暫くして視界に入ってきた複数の足と、腕に刺さった針をただ眺めていた。
また、頭が痛い。だからまた、頭を打ち付けてみた。なのに、どうして。
ない。脳に響くような心地よい痛みを感じない。返ってくるのは跳ねるような不快な柔らかさ。首を痛める程重いきりぶつけても、何かに柔らかく包まれるだけ。
嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ。なんで、なんでだよ。なんで、なんでなんでなんで。痛い。頭が痛い。痛い、痛い。
暴れたいのに、もうそんな力がない。口から涎が垂れないように、唇を閉じるので精いっぱいだ。
「……~~、~、~~」
自然と頭に流れた音。これがなんだったかもわからない。でも、なんだか眠たくなってきた。
意識が深く沈む。このまま、覚めなければいいと思ってる。叶うなら永遠に。
もう何も求めない、いらない。
だからもう、放っておいて。
モラル @yokota203
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