第72話 おにぃ
……いつの間に琴歌はこんなに強くなったんだろう。琴歌の告白に抱いた初めの感想は、やはりどこまでも兄としての目線のものだった。
二年前に琴歌が家出した時。それからこの公園のベンチは琴歌の思い出の場所になっていた。
「告白してくれてありがとうな、琴歌」
そう言って頭を撫でようとするが、思い直して手を引っこめる。
俺と琴歌は変わらず兄妹だが、それとは別に今は告白した側とされた側の関係だ。頭を撫でるのは失礼だと思う。
「だけどごめん、気持ちに応えることは出来ない」
わかっていた答えだ。琴歌もそれを理解していたようで、困ったように笑顔を作った。
「えへへ……、うん。ありがとう、おにぃ」
存外に穏やかな琴歌は、涙の轍を拭いながら、溢れてくる涙をまた拭う。
ズキンと胸が痛む。中学の頃に告白された時は、こんな感情覚えもしなかったな。
「……っ、ごめんね、おにぃ。すぐ止めるから」
「琴歌……」
「……ごめん……っ……」
行き場の無い手を虚空で泳がせる。
……こういう時、俺はどうすれば良いんだろう。それともこの思考自体が気持ちを踏みにじっているのだろうか。
結局、俺は向き合えていないのかな。
小さな不安は伝播して広がっていく。自己嫌悪に苛まれる。
「大丈夫だよ、宮田くん」
トン、と背中を叩かれる。ずっと黙っていた長岡さんは、俺の欲しいタイミングで俺の欲しい言葉をくれた。
琴歌の前にしゃがみ込む。今までは琴歌が俺や長岡さんを見上げていたけど、今度は逆。
長岡さんは琴歌の頭に優しく手を置いた。
「泣いても良いんだよ。今は泣いて、それから飲み込もう」
「……早く……忘れなきゃ……」
「ううん。忘れなくても良いよ。琴歌ちゃんの告白を真っ直ぐ受け止めてくれたんだもん、忘れるなんて勿体無いよ」
「……だって……だってぇ……!」
とめどなく溢れる涙は想いの大きさを表しているよう。琴歌の心の内側を覗けてしまう俺は、実感を持って本当に好きだったんだなと理解出来た。
忌み嫌っていたこんな能力の副産物は、人を嫌うのには充分で、また人の好きを理解出来るのにも充分だった。
俺は後ろから暫く二人の様子を見守る。振った側に出来ることは何も無い。
それが好意を寄せてくれた人を断るという重さなのだと、初めて実感したのだった。
◇
琴歌の告白から二日程が経ち、また一週間が始まる月曜日。昨日は琴歌が部屋からほとんど出てこなかったため、顔を合わせていない。
少なくとも今は俺がいない方が良いだろう。いつもより早めに朝食を済ませ、玄関で靴を履く。
「おにぃ」
慣れしたんだ声。後ろから俺を呼んだのは、他でもない琴歌だった。
パジャマのままの琴歌は真剣な様子で俺のもとへ駆け寄る。
「昨日はごめんね。避けたみたいになっちゃって」
「良いよ。気にしてない」
「ありがとう。……えっと、それとね」
琴歌はもじもじした様子で身体をくねらせる。可愛い……いや可愛いけど何だこの仕草……可愛いけどね……?
「えっと、多分琴歌がおにぃをおにぃとして見れるのはまだ先なんだと思う。今もやっぱり大好きだもん」
「そっか」
「だからそれを思い出にするために、おにぃも協力して!」
「協力?」
「頭、もう撫でたらダメだよ! あとベッドの横のポンポンも!」
前者は言わずもがな、後者は俺がベッドに腰掛けている時に隣に座って良いよという合図の話だろう。
どっちも琴歌がされて嬉しがってたことだ。
「わかった。けど我慢出来る?」
「うっ……、ベッドポンポンは大丈夫……!」
「はは、それじゃ頭は撫でろって言ってるようなもんじゃないか」
「だ、だってそれはおにぃが琴歌をちょーきょーしたんでしょ!! おにぃのせいだよ!」
「人聞き悪すぎるだろ!? お前それ表で絶対言うなよ!?」
実の妹を調教とかどんだけ変態なんだよ!? ていうかどこからそんな言葉覚えてきたんだ!?
「と、とりあえず! 頭は良いとしてもベッドはダメだからね! ベッドに誘っちゃダメだからね!」
「琴歌……お前本当それ表で言ったらダメだからな……?」
「……? まあおにぃが言うなら言わないけど……」
こうなるともうベッドに誘うもヤバい意味に聞こえてくる。実妹をベッドに誘うとかモラルハザード起こしすぎだ。
……まあでも、いつもみたいに元気な琴歌で本当に良かった。俺は心の中で安堵のため息をつく。
「じゃあ行ってくるよ、琴歌」
これじゃ琴歌との仲を心配していたのがバカみたいだ。俺は習慣で琴歌の頭を撫でる。
……あっ、さっき撫でるなって言われたばっかりだっけ。
「も、もう……またおにぃは頭を撫でて……えへへ……」
「……まあ、今は良いか。妹の頭を撫でる兄は別に変じゃないもんな。シスコンでもないもんな」
「うん、これは多分違うと琴歌も思う……! 頻度は減らしてほしいけど、撫でるのは今まで通りでも……、だ、ダメ! やっぱり禁止だから!」
「そう? なら我慢するけど」
「絶対だからね! 絶対したらダメだから!」
そう言われるとむしろしてくれって言ってるみたいだけど……、そんな芸人みたいなことを言ってるわけないか。うん、撫でるのは禁止。今日から気をつけよう。
俺は家を出ようとすると、最後に琴歌はまた俺を呼び止める。まだ何かあるのか?
「おにぃ、もし頭撫でたい欲が爆発したら琴歌を撫でても良いからね……? べ、別に撫でて欲しいとかそんなんじゃないから! おにぃのことなんて全然好きじゃないんだからね!」
(す、好きだけど! 本当は今もすっごい好きだけど!)
「……ははっ、わかったわかった。じゃあもしもの時は頼むよ」
「うん! ……あ、あともう一つだけ!」
「まだあるのか? これ以上は琴歌が遅刻するぞ?」
「あと一個だけだから!」
別に無視する理由は無いので、俺は立ち止まって琴歌の言葉を待つ。
琴歌は一度大きな深呼吸をして、まるで太陽のような明るい笑顔を浮かべた。
「いってらっしゃい! おにぃ!」
思わず頬が緩む。口から覗く白くて小さな歯が可愛らしい。
「いってきます、琴歌」
そして俺はいつも通り、琴歌にいってきますを言って家を出ていった。
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