【4】 スワンボートと鯉 3
公園の中には大きな池があって、俺はかつて、藻や何かの蔦にからみつかれたスワンボートを何日もかけて救出した。
白かったと思われる白鳥はすっかり黄ばんでプラスチックもボロボロになっているけれど、乗れないことはない。
「なにこれ」
「見てわかるだろう。白鳥だ」
乗り場の横に自転車を停めて、俺は胸を張ってスワンボートを指さした。
黒いくちばしが誇らしげに天を向いている。
「乗れ」
紗奈は不審げに俺を見たが、俺はとりあえず敵意がないのを示すために、両手を開いて肩をすくめた。
狭いスワンボートは、少女が乗り込むとグラグラと揺れる。
紗奈の顔が不安そうになった。仏頂面ばかりだった紗奈のその顔が意外で、してやったりな気持ちになった。
座ったのを認めてから、リュックを前に回して、ひょいと乗り込む。一昨日射かけられたボウガンの矢も荷物に詰めていたが、リュックからはみ出てて、邪魔だった。
紗奈がパドルを手放さないせいで、ますます狭い。置き場がないので、床に立てて窓からはみ出させるしかなかった。
「これどうやるんだ」
「乗ったことないのか? 漕ぐんだよ。自転車と同じ」
まあ、乗ったことないだろうな。
俺が足元のペダルを漕ぐと、白鳥がゆっくりと動き出す。
池にゆったりと波紋が広がった。ぷかぷかと浮いていた本物の白鳥がゆらゆらと揺れる。紗奈はおっかなびっくり、ペダルを踏んだ。
大池の真ん中にはちいさな島がある。なんとなくそこへ向かって進んだ。
こんなところなにかに見つかったら、狙い撃ちだ。
だけど、スワンボートは天井もあるし壁も少しあるし、手も自由だから、手こぎボートよりはましな気がしてる。
スワンボートの屋根の下で、紗奈は赤いフードを下ろして、眼鏡をはずした。
池の真ん中にある島をぼんやりと見ている。島へ渡る観月橋には、鳩が数羽うろついていた。
「見えてるのか?」
まじまじと横顔を見る俺に、紗奈はあっさりと言った。
「伊達眼鏡だ」
紗奈は振り返って、大真面目に言った。
「防塵・防汚・撥水コートでとても役に立つ。博多駅のビルで拾ってきた。それにUVカット。人間だって紫外線から目を守らないと、すぐにばてる」
なんだそりゃ。
見えてるのか、と思った途端、近くで目を合わせているのがなんだか気まずくて、俺は目をそらした。顔を正面に向ける。
「しらね」
「お前も吸血鬼のふりするなら、サングラスくらいした方がいい」
天神で会った時のことを言っているのか。それはまあ、そうかもしれない。
だけど昔、ヤクザみたいだと亨悟に大笑いされてから、サングラスをするのはやめている。
「忠告どうも」
俺はそれだけ言って、ゆっくりとボートを漕いだ。
狭苦しいスワンボートの中で、俺たちは黙ってペダルを漕ぐ。ギコギコと軋んだ音と、水音があたりに響いた。
風が頬を撫でて、隣の少女の髪があおられて、かすかにふれた。空を灰色の雲が流れていく。
もうちょっと天気が良ければ気持ちがいいのに。島を出るとき言われた通り、空はどんどん陰ってくる。
静けさの中、水面を何かが跳ねた。
「なんだ、あれ」
紗奈が驚いた声をあげる。意外と素直な反応に、俺は思わず笑った。
「鯉だ。うまいぞ。泥臭いけど」
「だろうな」
「釣るか」
「誰か管理してないのか」
「誰が管理してんだよ、こんなとこ」
誰かの縄張りだなんてことは聞いたことがない。
それに鯉は池の中にめちゃくちゃいる。混乱のはじめの頃は食料として狙われて獲られまくったようだったが、人間が減っていつの間にかまた増えたようだった。
紗奈は俺を見て、ちいさくため息をついた。それから、くすりと笑った。
「のんきだな、あんたは」
また思いもよらない反応に、俺は戸惑った。
なんとなく間が持たなくて、腹にまわしていたリュックの蓋を開けて、中をあさくった。
七穂に渡された包みを取り出す。ハンカチの包みをほどくと、サランラップに包まれた白いものが出てくる。
本当は、とてもとても惜しい。
「食えよ」
七穂が握ったおにぎりだ。
海塩や海藻で味をつけてある。中味が何かは、食べてからの楽しみだ。
「妹の手作りだ。今まで誰にもわけてやったことがない」
一つ紗奈に差し出すが、少女は唖然とした顔で俺を見たまま、動かない。
仕方がないので、膝の上に乗っけてやった。
「あとこれ、コーヒー」
水筒を取り出す。
能古島には、もともと珈琲の農園がある。
自治会は、その珈琲農園をつぶして、食いものを育てることを検討したらしい。でも結局、俺の家の前のコスモスと同じように、何となく残された。
元々の島の姿を変えすぎるのを、嫌がる人も多かったのだ。
島で作って、焙煎して、挽いたばっかりの贅沢品だ。
「飲んだことない」
「そうだろう。インスタントコーヒーだって、どこで拾っても湿気てカチコチだからな」
「米も、子供の頃に食べたきりだ」
紗奈は、おっかなびっくりサランラップを開いて、握り飯を手で掴んだ。
目の前に持ち上げる。
白い握り飯は、スワンボートの狭い屋根の下で、輝いて見えた。
「せっかくの飯がカチコチになるぞ」
「……ああ」
意を決したように、おにぎりにかじり付いた。
思い切りよく、大きく一口。厳しい顔で噛み砕いて、飲み込んで。
肩を震わせて、ぼろぼろと涙をこぼした。
「うまい」
「そうだろう」
泣くほどうまいか。思わず笑った。
紗奈の仏頂面が崩れて、更にしてやったりな気持ちになった。奥の手を使った甲斐がある。
コーヒーをカップに入れて渡してやると、紗奈は涙をぬぐいもせず、受け取った。そのまま一口。
あれで味がわかるんだろうか、もったいないなあ。
俺は思っていたが、紗奈はぼろぼろと涙をこぼして、少しも泣き止まない。
おにぎりをつぶしてしまいそうなほど、強く握りしめて。
「おい……」
あまりにも泣き止まないので、少し浮かれていた気持ちがどんどん沈んでくる。
おにぎり落とすぞとか、早く食べろとか、コーヒーこぼすぞとか、いろいろ浮かんだけど、口から出てこない。思いもよらない展開に途方に暮れてしまった。
七穂なら、抱き寄せて肩を叩いてやればいいんだけど。
なぜか肩を震わせて泣く少女の横で、ただ黙ってボートをこぎ続ける。
「風が強いな」
ごまかすようにつぶやいた。
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