【2】 潮風に船は錆び 3

 仲間とはぐれて吸血鬼に襲われていたのを、俺が助けてやったのだ。

 別に知り合いでも何でも無い奴が死んだってどうだって良かったが、なんで助けてやったのかなんて、決まっている。

 吸血鬼を排除したそのついでだった。


 仲間を呼ばれるかと思って警戒していたが、その気配はなく、炭鉱ヤクザ達は去って行った。


 怪我をしていたのを放っておいて、別の吸血鬼の餌になるのは、なんだか不本意だったから、隠れ家をひとつやった。その後はもう関わらずにいたのだが、市内をうろうろしているときに不意に再会した。


 こいつはそのまま、ああやって騒ぐのも群れるの苦手なんだよと言って、そのままこの土地に居座ったのだった。


 ――自分のために生きてるって最高だよな。

 そう言ってへらへらと笑った。

 のんきだが、神経質な奴だ。

 常に一人で気を張らないといけない今みたいな状況だって、こいつにとっては気楽なんだろう。


 なんだかんだとウマがあって、いつの間にかツルむようになった。

 同世代の、別の土地の奴なんて物珍しさがあった。多分、お互いに。

 そのくせ俺たちは「群れが苦手」というところで、すごく気があったのだった。


 竹の箸で缶詰の中身をぐるぐるとかき混ぜてから、亨悟は俺に顎でしゃくった。

 俺は引き出しからステンレスのスプーンを持ってくると、軍手でアツアツの鯖缶を掴んで、少女のいる部屋に戻る。


「あんたも食えよ」

「……紗奈さな。名前」

 部屋に立ちつくしたままだった少女は、ぽつりと言った。赤いフードを脱いで。


「いらない」

「……あのなあ」

「ほんとうに、いらない。悪く受け取らないでくれ。食欲がない」


 あんだけ動き回って食欲がないとは。

 意地を張ってるのでなければ、この暑さでやられたのか。


「二度はすすめないからな」

 食料は貴重だ。いらない奴にやるものはない。


「気持ちだけもらっとく」

 愁傷なことを言って、紗奈と名乗った少女は、部屋の隅に腰をおろした。

 膝を抱えて、大きく息をつく。手当てもしない、飯も食わない、なんでついてきたんだ。――なんで、俺は連れてきたんだ。


 俺は自分の荷物のそばに座ると、卵とじにした鯖缶の鯖をスプーンですくった。

 ほどよく味噌の焦げた香ばしい匂いを吸いこんでから、ひといきに口に放り込んだ。


 熱い。ほくほくでうまい。

 とろとろの卵に、味のしみ込んだ鯖の柔らかい身を、ゆっくりと噛んだ。

 味の濃いものはなかなか食べられないから、じっくり味わう。


 亨悟は、菜種油をフライパンに敷くと、その上に卵をふたつ落とした。


「……いたのか?」

 卵に海塩をふりかけながら、亨悟はさらりと言った。何でもないことのように言おうとしているのが分かった。


「見てない」

 はふはふと息を吐きながら、俺もさらりと返した。亨悟は顔を上げずに言う。


「ほとんど無傷みたいだし、そうだろうと思ったけど。良かったのか残念なのかだな」

「でも、見覚えのあるチェック柄を着てる奴は見た」


 亨悟が、カセットコンロの火を消した。

 途端に、家の中が薄暗くなる。亨悟はフライパンの半熟目玉焼きを持って部屋に戻ってくる。

 真ん中に腰を下ろしたので、俺は鯖缶の残りを奴の膝元に置いてやった。


「あたしが殺した奴か?」

 薄暗い部屋の中、紗奈が唐突に口を開いた。今までろくに話をしようともしなかったくせに。


「そう。お前が殺ったあの女、ブランド物のトレンチコート着てた」

「よくある柄だろ?」

 だから? という声だった。眼鏡が俺の方を向いた。


「似たようなものはよくあるが、あれは高級ブランド物のチェック柄だ」

「それがどうした」

「集団になればトップが出来る。奴らでも同じだ。いいものを着てるのは、立場が強い証だ」

「それでブランド服か」


 表情はよく見えないが、鼻で笑うような声だった。こんな世界で、ブランド物がなんだって言うんだ、と。


「馬鹿だな、いいものは丈夫なんだよ。雨にも強いし、トレンチコートは元々軍用だったんだってよ」

「変なこと知ってるな」


 前にいたブランド物好きのおばさん……もといお姉さんが言っていた。彼女はもう死んだけど。

 ふうん、と彼女は不服そうに言う。


「弱かったけどな」

「不意打ちだったからだろ」

 だが、そんなことよりも。


「俺の嫌いな奴が、よく着てる柄だ」

 目玉焼きをたいらげた亨悟が、俺にフライパンを渡してくる。物言いたげだが、何も言わない。


 俺は、塩味の効いた目玉焼きを、黙って口に放り込んだ。熱い。口の中が焼けるようだ。

 ――しょっぱい。

 涙の味だ。




「起きろ!」

 怒鳴りつけられて、俺は飛び起きた。


 部屋の雨戸は開け放たれて、朝日と爽やかな風が入り込んでいる。コケコケとニワトリの声が聞こえる。

 庭先に立った亨悟が、ものすごい形相で俺を見ている。


 しまった、亨悟が起きて外に出たのも気づかなかったなんて。

 いくら昨日動き回ったからって、熟睡しすぎた。


「ニワトリが一羽いなくなってる」

 怒りを抑えた亨悟の言葉に、逃げたんだろ、とは返さなかった。


 軽い考えが命を奪う。

 『奴ら』は人間の血を求めるけど、たまに動物の血肉も食らう。ただし、人間の血を長く口にしないと体が衰えてくるらしいから、結局人間も襲うんだけど。


 奴らに噛まれたニワトリは、俺たちは食うこともできない。かわいそうに。


 いなくなっているのだとしたら、逃げたか、俺たち以外の人間に盗られたか、吸血鬼に殺されたかだ。

 ただ、一羽っきりと言うのは気になる。


「おい、榛真。あの女はどうした」

 少女がうずくまっていた部屋の隅を見るが、もぬけの殻だ。

 俺の目線と焦った表情に、亨悟はまた大声を上げた。


「ちゃんと見張っとけよ」

「お前が出てった時はいたのかよ」

 亨悟は口をつぐんだ。やっぱりちゃんと確認しなかったんじゃないか。

 亨悟はむくれた顔で、八つ当たりのように言った。


「あの女、吸血鬼じゃないだろうな。お前を油断させてついてきたんじゃないだろうな」

 少女は、吸血鬼を殺しまくっていた。この土地の事情を知らないよそ者だ。

 だからって、吸血鬼じゃない保障にはならない。知らないフリかもしれない。


 それに奴らだって、フードをかぶって、日を避ければ、昼間も少しは動ける。

 そう言えば家に入るまで、ストールポンチョのフードをかぶったままだった。


「お前、噛まれてないだろうな」

「はあ?」

 どこにも傷なんかないし、痛くもない。何より、噛まれればさすがに気がつく。それに。


「噛まれたらとっくに死んでるよ」

「だから聞いてんだろ、噛まれて死んでないんだったら、傷なんかとっくに治ってるし吸血鬼になってる!」

 亨悟が怒鳴る。


 吸血鬼に噛まれれると、大抵は死ぬ。

 だがたまに、同じように体質が変わる場合がある。ごくごく、たまに。


 そして奴らは、驚異的な回復力を持っている。まるで、人間の命の源を奪って、自分の活力にしているみたいだ。

 亨悟の言い分は正しいけど、ムッとして俺は言い返した。


「お前こそどうなんだよ」

「ほんと馬鹿だな榛真。俺が立ってるのはどこだよ!」

 庭。太陽の下。日光をさんさんと浴びて立っている。頭にかぶりものもしてない。吸血鬼なら死んでる。


 確かに、馬鹿だった。同時に、俺は急に不安になった。

 そんなわけない。だが気づいていないうちに噛まれてて、もし吸血鬼になってたら?


 ブルゾンのフードを被らないまま、ピアノ線を避けて、恐る恐る太陽の下に出た。

 カンカン照りの太陽は、肌を焼くほど強い。だけど、それだけだった。


 内心、ほっとした。

 途端に、昨日打ち付けた肩や腕が痛みを訴えてくる。こんなんで吸血鬼なわけがないのに。

 亨悟のせいで焦って、麻痺してた。


 亨悟を見る。目があうと奴は、詰めていた息を一気に吐いて、破顔した。俺に抱きついてくる。


「もーびっくりさせんなよ、良かった良かった」

 ぽんぽんと背中を叩いてくる。

「痛い! お前が勝手にびびったんだろうが、ほんといい加減な奴だな!」


 ホッとした反動で、俺は悪態をつく。むかつくけど、その用心深さを責めることは出来ない。


「いやーだから、わるいってー。お前がやられるなんてないって分かってるよー」

 調子のいい奴だ。亨悟はへらへら笑いながら、家の中に入った。


「盗られたものはないか?」

 最低限のものは、何かあった時にすぐ逃げ出せるようにいつも身近に置いている。

 俺のリュックは枕がわりにしていたし、手元に置いていたエコバッグもなくなっていない。戸棚の奥や床下に隠していた食料も無事。


 貸してやった毛布一つ持って行かなかった。

 ただ、俺が渡したタオルだけがない。


「何も盗られてないな」

 亨悟は不思議そうに言う。吸血鬼でないのなら、食料の一つ二つ、盗っていったっておかしくない。


「なんなんだ、あいつ」

 俺は思わず漏らしていた。亨悟はそんな俺を珍しそうに見た。

「ニワトリはあいつの仕業かな?」

「知るかよ」

 俺は一気に不機嫌になって、吐き捨てる。


 だけど亨悟はそんなこと少しも気にしていないようだった。ほんとにマイペースな奴だ。

 ピアノ線に気をつけながら縁側に踏み込み、家に上がり込むと、てきぱきと動き出した。


「用心のためにこの家は廃棄する。とりあえず急いで食料だけ移動させる。しばらく近寄るな。ほかのものは様子見て移動させようぜ」

 言いながら、亨悟はさっさと自分のボストンバッグに戸棚の食料やカセットボンベを詰め込みだした。


「お前は他の人に警告に行くんだったよな?」

 他の人、というのが誰なのか、亨悟は聞かなかった。


 ――いくら気があったって、俺の生まれた島のことは、こいつには教えていない。


 吸血鬼から助けてやって、怪我の手当をしてやって、隠れ家を共有したり、情報を交換したりはしているが、肝心要のところは線を引いている。

 こいつがスパイでない保障なんてどこにもない。だからこいつに教えてない隠れ家だってたくさんある。

 こいつだってここに住んで数年、同じはずだった。


 家族の話をしたって、過去にあったことや、自分の目的を話したって、守るべき場所のことは必要以上には教えない。

 そんなことはこいつも分かっているから、聞かない。


 俺はため息をつくと、同じように庭から暗い家の中に入った。


「炭鉱の奴らのこと知らせないと。お前どうするんだ? 見つかったらヤバイんだろ」

 俺はリュックに、昨日持ち帰ったエコバッグや荷物を詰め込む。ボウガンの矢も入れたままだ。何かの役に立つ。


 それから、食料を詰めた床下収納の扉の上にマットをかぶせる。とりあえず持てない分は隠すだけにする。


「ニワトリたちを別の隠れ家に動かしてから、城南区か南区にでも逃げる」

「気をつけろよ」

 ああ、と亨悟は飄々と応える。


 荷造りを終えると、俺が自転車を停めていた家の車庫までついてくる。俺が自転車を取り出すのを見ながら、亨悟はつぶやいた。

「夏ミカンとハチミツ。持ってきてくれよ」

 俺は苦笑する。


「夏ミカンはもう季節はずれだ。もうすぐ芋がくえるぞ。七穂ななほがコーヒーいれてくれるから、持ってきてやる。生きてたらな」

「生きてたらな」


じゃあな、と手を振ってから、亨悟はニワトリを回収しに近くの家の庭に向かった。

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