【2】 潮風に船は錆び 1
俺は息を切らしながら、長浜の漁港に辿り着いた。
まいた気はするが、地響きのようなエンジンの音がまだ聞こえている。油断はできない。
遮るもののない海の近くは、吸血鬼の心配は減るが、人間には関係ない。
海には漁船がたくさん浮いている。
ここに浮かぶ船も、ひっくり返った船も、放置されてそろそろ二十年くらい。とんがった船首を並べているどれも、塗装は剥がれ、潮風に錆ついて、ぼろぼろだった。
イカ釣り漁船の、ずらりとぶらさげられたランプの半分くらいが割れている。
雨風にさらされて濁っているものの、西に傾き始めた太陽の光をかえして、キラキラと光りながら揺れていた。
青々とした海と、車の通らない高速道路を背景に。
海に逃げた人もたくさんいたと言う。
周遊遊覧船も、いまだに人を乗せたまま近海をうろうろしていて、たまに食料を求めて博多港にやってくる。
俺は漁港近くの歩道のガードパイプに駆け寄った。
ここに、改造してソーラー発電を装着した電動アシスト自転車を、チェーンでぐるぐる巻きにして固定してあった。
前かごにはソーラー電池が突き立っているが、その後ろに、朝つっこんでおいたエコバッグがちゃんとあるのを確認する。
天神へ向かう前、近くの総合病院や調剤薬局で手に入れた薬剤だ。
念のために一度戻って、ここに隠しておいて正解だった。持ったままだったら、あの騒ぎで落としたり壊したりした可能性が高い。
「おい」
ほっとしたのもつかの間、唐突な声に振り返ると、パドルを持ったさっきの少女が立っていた。
ぎょっとして叫ぶ。
「なんだお前は。どういうつもりだ!」
爆音と煙に気を取られて気づかなかった。
追ってきたのか。
俺は慌てて、腰の後ろの鞘から包丁を逆手に抜いた。
フードに隠れたままで、少女の顔は見えない。
だけど俺の反応に驚いたようで、害意がないのを示すように、パドルを持っていない手を広げて見せた。
「なんとなくだよ。人が逃げ出すと、つい自分も逃げないといけない気がして」
追ってきたのではなくて、ついてきてしまったのだと主張する。
人が慌てるとつられるのは何となくわかるが、なんでここまで一緒に来る必要がある。
「だからってついてくる必要あるか」
「だから、なんとなくだ。どこに行けばいいか分からないし、行き先もないから」
威嚇する俺に、赤いフードの少女は、間の抜けた返答をした。
街には掠奪者だらけだ。
吸血鬼、炭鉱の奴ら、そしてこういう、害意のなさそうな奴。
油断させて俺の戦利品を奪う気か。自転車に近づく前に気づくんだった。走って逃げるべきか、倒すべきか。
俺が迷ったのは、一瞬だった。また爆音が聞こえてきた。
しまった。追ってきたのか、偶然か。もうどうでもいい。
俺は少女を気にしながらも包丁を仕舞い、自転車のチェーンをはずしにかかった。
こんなに頑丈にするんじゃなかった。焦っているうちに音が近くなってくる。
自転車をあきらめて、どこかに隠れるか。
迷って顔をあげたところで、すぐそこのカーブを曲がって、黒煙と共に大型バイクが現れた。
ちくしょう、間に合わない。
二人乗りの煤けた男たちが、俺たちを見つけて咆哮をあげる。
後ろの奴が、拳銃を向けてきた。
俺はガードパイプを飛び越えて歩道にあがり、一目散に走り出した。くそ、体のあちこちが痛い。
銃声が響いた。近くの地面に弾がめりこむ。
俺が路地を曲がったところで、後ろから悲鳴が聞こえた。
バイクの後ろに乗っていた男が地面に転がっている。片腕がおかしな方向に曲がっていた。その目の前に、パドルを構えた赤いフードが立っている。
バイクを運転していた男が、俺を追うのをやめて、ハンドルを切った。
普段なら少女を餌にしてこのまま逃げるところだ。
だけど俺は踵を返してバイクを追った。自分の自転車のところに駆け戻る。
最後のひとまき、チェーンを外す。振り回して勢いをつけてから、バイクの後輪に向けて投げつけた。
ギャリギャリと大きな音をたてて、チェーンがタイヤに巻きつく。
後輪が跳ね上がって、乗っていた男ともども宙を舞った。数メートル離れた場所に頭から落下して、その上にバイクが落っこちて、男は動かなくなった。
「てめえええ!」
腕をへし折られた男が叫んで、俺に拳銃を向けた。俺は何を考えるよりも前に、地面に伏せた。
銃声。顔を上げると、俺の前に、赤いフードの少女が立っている。腰を入れて両手でパドルを構えると、男の頭を思い切り殴りつけた。
バイクが黒煙を上げている。石炭の臭いがあたりに充満している。
こんなところにいると、あっという間にヤクザや吸血鬼に嗅ぎつけられそうだ。
俺は、少女が叩き潰した男の手から、オートマチック拳銃を拾いあげる。撃ったばかりの銃口からは煙が出ていた。
そのまま少女に振り向く。銃口は下をむけたまま。だが、いつでも撃てる。
「お前、どういうつもりだ」
「だから、たまたまだ」
少女は、変わらず淡々と言う。俺の持つ拳銃を気にもしていない。
俺は、口が曲がってくるのが自分でも判った。
少女は、赤いチェックのポンチョの上から脇腹を抑えている。その手が赤い。
「撃たれたのか?」
「問題ない」
「血が出てるだろ」
「あたしの血じゃない、あいつの血だ」
嘘くさい。俺はあからさまな疑いの目で少女を見た。
赤いチェックのフードの下の、赤縁の眼鏡の奥で、意志の強い瞳が睨み返してくる。まさか、さっき俺をかばったのか。
「お前を助けようと思ったわけじゃない。たまたまだ。放っておけ」
――ああ、ああ、そうだろうな。滲むように湧いた罪悪感を読まれたような気になって、俺はイラだった。
知らない奴だ。どうでもいい。
あっちにとってもどうでもいいはずだ。バカバカしい。
知りもしない奴を助けようだなんて、そんな奴がこんな時代にいるもんか。助けたわけじゃないって、あいつも言ってる。
俺は、少女を見ていると、ますます口が曲がってくるのが自分でも判った。
――ああ、だけど、こいつがなんて言おうと、助けられた。それは事実だ。天神の時と、今。二度もだ。
「くそっ」
俺は自転車のカゴからエコバッグを取り出してベルトに結びつけると、かわりに拳銃をカゴに放り込んだ。
薬莢も拾いたかったが、すぐ見つからない。探してる時間はない。
それから、首にかけていたタオルをとると、少女にさしだした。
「これで押さえてろ。血の跡残すな」
少女は反射のように手を出して受け取ってから、無言のまま、問うような目で俺を見た。
「乗れ」
俺はソーラー自転車にまたがる。完全に日が沈む前に、身を隠して眠る場所を確保しないと。
「後ろに乗れ、とにかくここから移動して手当てしないと」
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