第13話エマの受難
「…………」
音も無く、言葉も無く。エマ・クレイモアは闇に潜んでいた。
雲の多い、夜だった。
いつも優しく照らしてくれる月は覆い隠され、辺りは濃密な闇に包まれている。
警備員の制服がブーツに至るまで黒一色なこともあって、彼女の姿は最早、完全な影となっていた。
闇は、怖くない。
じっとしていることも苦ではない。自分の指先が見えないほどの漆黒に抱かれて、ただただ一日中座り込むことなど、かつては良く経験したことだ。
暗いところは安心する。
誰にも、自分にさえ見られることのない空間というのは詰まり、究極のプライベート空間だ。そこでの待機任務など、安寧以外の何者でもない。
普段ならば。
少なくとも今夜は、そこはエマにとって、安らげる空間ではなかった。
静かな闇に抱かれるエマの心は、この数時間ずっと愚痴り続けていた――どうして、と。
どうしてこんなことにと、問い続けていたのだ。
……ノックスの予想通り、泥棒の襲来からエマは逃げ延びていた。
誉められたことではないと、理解している。
警備員は展示品を守るのが仕事であるし、そうでなくとも最低限、生き延びたのなら連絡をするべきである。自身の無事、敵の情報、他にも報告しなければならないことはいくらでもあるのだから。
しかしエマは、そうしなかった――否、出来なかった。
そうできなかった理由は、二つある。
一つ目としては単純に、時間がなかったということ。
エマが現場に着いた時点で、展示品は移動し始めており、悠長に連絡などしていては見失ってしまうところだった。そして一度でも行方を見失ったなら、追い付くのは不可能だとエマは判断したのである。
結果として、その判断は正しかった。この一週間、目標の移動は激しく、気ままだった。
二つ目は、こちらがより深刻なのだが要するに、犯人が居ないということである。
無論、盗人の侵入はあった――ドアやケースの破損、魔力の痕跡を見れば、魔術師の狼藉ぶりが手に取るように解る。
魔術師はドアを破り、ケースを破壊した。望むものを手に入れるために行動した。
だから、こう言うべきだろう。
犯人は既に居ない、と。
……エマが目撃したのは、最後の一人だった。
仲間の数だけ同じ光景を見てきたのだろう、飛び出してきた彼女の眼からは既に、あらゆる戦意が失われていた。
顔からは血の気が失せ、焦点の合わぬ瞳は果たして、出会したエマのことを正しく認識していたかどうか。
震える唇が、何事かを呟こうとした。
魔術師の言葉を、それも泥棒に入ってきた魔術師の言葉を待つのは、警備員としては愚行そのもの。相手は言葉一つ、身振り手振りで神秘を起こす歩く災害。一言で敵を葬る手段が千はあるだろう。
それを理解していてなお、エマは、彼女の言葉を聞こうとした。
その唇が紡ぐのは呪文ではないと、エマは確信していた――彼女は理解している、もう、時間がないことを。
彼女は死ぬ。
その前に何かを残そうとしている。
それは遺言か。魔術師らしく自分の研究に関することか、財産の分与、この場に居ない大切な誰かへの想い? それとも単純に、死への恐怖を叫びたいだけか。
どれであるにしろ、最後だ。
人生最後の一言を。エマは、聞いてあげたいとそう思ったのだ。
だが――。
「っ!!??」
その前に、彼女は追い付かれた。
一瞬びくり! と彼女は身を強張らせ、次の瞬間――塵になった。
「あ、あれ…………?」
着ているものさえ、残らなかった。
肌が髪が眼球が、彼女を構成するありとあらゆる物が、一斉に乾燥したのだ。
水分を即座に奪われた結果、まるで砂か何かのように彼女の肉体は崩れ落ちて、風に舞って、消えた。
跡には何も残っていない。何も、何事さえ、残すことはできなかった。
「…………」
ごくり、と喉が鳴る。
全身の震えとは裏腹に、右手はゆっくりと持ち上がった。
握り締めた
――エマは、それを見た。動く、死体を。
「っ……!」
甦った恐怖に身を震わせ、エマは回想を打ち切った。
これから暫くは、あの夜の幻影に怯える日々を過ごすことになるのだ。あえて思い出す努力をする必要はない。
重要なことは、二つ。
一つ、接触すると死ぬ。
魔術師は全身の水分が奪われ、砂のように崩れ去った。
押し入る際にどれだけの抵抗を想定していたにしろ、準備はしていた筈。その防御を突破したのだ、握手するべきではないだろう。
二つ目。
あれは――喋った。
今でも、耳にこびりついている――暗い廊下、干からびて粉々に砕ける魔術師の肉体。
その奥からゆっくりと現れたあいつは、頼りなげにふらつきながら、細過ぎる足を不器用に動かして迫ってきた。
酔っ払いより不安定に揺れるマッチ棒みたいな頭、抉れた眼窩の奥に、澱んだ暗闇を滾らせて近付くあいつ。
かつて暗黒の大陸で見た、邪神に仕える
枯れ木のごとき全身を包む包帯は、千年以上地中に埋められていたにも関わらず、染み込ませた香油の影響で風化を免れている。
胸元には、別なケースに安置されていた筈の豪華な首飾り。
展示前に掃除されたため、中央のラピスラズリは在りし日の輝きを取り戻している。
直ぐに気が付いた――あれは、間違いない。あの姿は、発掘されたミイラだった。
既に死んでいるし、原始的な方法での防腐処理さえ施されている筈の、死体。
絶対に、動くわけがない。
魂以外にも、腐敗を防ぐために内蔵まで抜かれているのだ。動くのに必要なパーツが、尽く欠損している。
それなのに――ミイラは立ち、歩いていた。
そして眼球の無い眼窩をエマに向けて、無い筈の舌を震わせて、何事か言ったのだ。
「…………」
あり得ないことが、起こっていた。
だからこそエマは逃亡し、それからずっと、ミイラの後を追っていた。
そして今夜、漸く追い付いた。
片目に填めた魔法道具のレンズが、特徴的な魔力の痕跡を伝えてくる。村外れの、壁も屋根も壊れている、打ち捨てられた小屋。
「……あれは、たぶんヤバイ」
そのままにはしておけない。
エマは懐の武器を確かめると、耳をそばだてる。
死体が寝るのかは解らないが。
少なくとも、活発に動き回っているよりはましだろう。
「……良し、行くよ、エマ・クレイモア。ここで、あいつを……」
そっと小屋に近付いて、軽く深呼吸。
それから意を決し、扉に手をかけて。
「【キゾヌミオ、ウィギヌケチエ】」
奇妙な響きの呟きに続いて飛び出してきた何かに、吹き飛ばされた。
それが、ごく小規模な砂嵐だと気付いた瞬間。
地面に打ち付けられたエマは、意識を失った。
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