5-3
「はへぇ……」
すたすたと部屋を出ていったカルディアの背を目で追いながら、依恋は変な声を漏らしていた。
抱き抱えられた時はどうなることかと思ったけれど――思ったのは、体調不良の所為だ、多分、普段からそんな事ばかり考えてるわけじゃないし――なんだか随分と気を使われてしまっている。
「風邪なんて、寝れば治るのに」
医療用ナノマシンはちゃんと摂取しているので、この程度の風邪ならこじらせることもなく簡単に治るはずだし、その事はカルディアだって分かっているだろうに。
まぁ、それはそれとして、こうして気遣われて、悪い気はしないんだけれども。
――いや、気遣われたのかな?
そんな事を、考える。
何というか、カルディアはそんな風なものの考え方をしないような……でもどうだろうなぁ、へこまされたカルディアは、昨日までと大分変わっている気がするし……
「ふふっ」
熱で湯だったような頭の中だけれども、ふわふわとそんな事を考えると、なんだか楽しくなってくる。
変にテンションが上ってるけど、なんだかどうでもいいことしか考えられていないみたいな。そしてその感覚が重く、鈍くなっていく。
――あー……もしかして、これは本格的に良くない感じ?
どんどん頭の中身が溶けていくような気がする。脳味噌が、バターを沸騰したお湯に入れて煮立ててるみたいになってる気がする。
瞼が重たい。
その重さに任せて、瞳を閉じた。そうして分かったけれども、瞼の下、目も大分熱い。
はぁ……と、息を吐いた。その息も熱くて、自分の体調の悪さが、事実として襲いかかってくる。
体内に取り込んでいる医療用ナノマシンが、過剰なまでに駆動している所為で、体温が上がって、ついでに身体がだるぅくなっているのは分かる。
「待って……ないと……」
――カルディアが帰ってくるまで、待ってないと……
思考とは裏腹に、どんどん依恋の瞼は下がってきて、視界がぼんやりと歪んで来ていた。
これもまた、医療用ナノマシンの影響だろうか。依恋の肉体は休息を求めている。
どうにも、依恋はその求めを拒むことが出来なさそうだった。
どんどんと重たくなってくる瞼。
まるで、舞台の終わりを告げるかのようなその動きに、依恋は抵抗を諦めた。
:――:
「戻った」
言いながら、カルディアは依恋の部屋の扉を開ける。そして、その場で待つ。
その両手には、無人コンビニのビニール袋――それも店舗で最大のサイズ――が下げられており、その中には大型のペットボトル入りのスポーツドリンクが二つずつ……計四本入っていた。
それなりの重量は有るものの、カルディアが問題にするほどではない。
そうして、ペットボトルを下げながら、待つ。
が――
「……む」
待っていたが、依恋の声が帰ってこない。さて、勝手に玄関に足を踏み入れて良いものだろうか。
「戻ったぞ、依恋」
もう一度声をかけて待ってみるが、状況に変化はない。空気の冷えのような、しんとした雰囲気だけが残っていた。
――何かが起こった可能性もある。
「入らせてもらう」
カルディアは言うと、依恋の部屋へと入る。
リビングダイニングまで入っても、やはり依恋の姿はない。ということは、カルディアが外出したときから変わらず、依恋は寝室に居る……ということになる。
もっとも、外出したのでなければだが。
――いや、あの体調でそれはあり得ない。
そう判断して、カルディアは寝室へと足を動かす。
「依恋?」
寝室、扉の前で、カルディアは再度声を掛ける。声が帰ってこないのも、先と同じ。
――仕方ない。
ゆっくりと、カルディアは寝室の扉を開ける。すると――
「む」
そこには、ベッドに身を横たえて、すぅすぅと寝息を立てる依恋の姿があった。
頬を赤らめて、肌をじっとりと汗で湿らせていながらも、規則正しい寝息を立てる姿は、それなり以上に安らかであるように、カルディアには見えた。
「眠ってしまったのか」
小声でカルディアは言いながら、静かに手荷物を下ろすと、足音を立てずにベッドサイドへ歩いていく。
そうして、そっと依恋の顔を覗き込む。
「……」
医療用ナノマシンが働いている以上、依恋は何の問題もないだろう。こうして、カルディアが様子を見る必要すらない。
そんな事は、カルディアは当然理解している。理解しているというのに、カルディアは依恋の顔を覗き込んでしまっていた。
「すぅ……すぅ……あ……」
「む、どうした?」
目を閉じて、口を開けて、依恋は何かを探るように、右手を布団から出して動かしていた。
そんな依恋に対して――半ば寝言だと理解しながら――カルディアは声をかける。
「み……」
「み?」
「みず……おみず……」
ふぅ……と息を吐きながら言う依恋。その表情を見て、カルディアは小さく頷いた。
「なるほど」
依恋の肌に玉のように浮く汗の粒を見ても分かる通り、体温の上昇に伴って発汗も激しくなっている。水分が不足するのも、当然のことだ。
スポーツドリンクを買ってきたのは、正しかった。
「少し待って欲しい」
言うと、カルディアは手早くキッチンからコップを持ってきて、そこに今しがた買ってきたスポーツドリンクを注ぐ。
そして、虚空を彷徨う依恋の手に、コップを握らせる。その瞬間、カルディアの手が、依恋の手に触れた。
「……」
一瞬、カルディアの動きが止まった。思考も、一瞬だけだが、確実に止まった。
「ありが……と……」
そんなカルディアを意識すること無く、依恋は自らの上体を起こして、受け取ったコップからスポーツドリンクを一息で飲み干す。
「う……ふぅ……」
スポーツドリンクをベッドサイドに置くと、依恋はまた掛け布団の中に入っていった。そうして、また規則正しい寝息を立て始める。
依恋の様子を横目で見ながら、カルディアは自らの手を持ち上げる。そして、視線を掌へと移す。
奇妙な――違和感とでも言うべき情報流入。
手が触れただけ、温度がエントロピーの法則に従って、移動してきただけ。
なのに、その重要性がそれだけのものであると、カルディアには認識できないのだ。
――これは、どういう事なのだ。
おかしい、奇妙だ――という、感覚を得ること自体が、本質的にはAIである筈のカルディアにとっては、おかしい、正常とは言えない。
これはどういう事だ。
その答えを探して、思考を走らせて、でもそれは答えに辿り着くことはない。
それはまるで、入り口は有るけれど、出口は存在しない……だが、ネズミ取りなどとは違って、分岐などで迷うことと、入り口から出ることは出来るような、迷わせることだけが目的の迷宮のようで……
「ん……んん……」
くぐもった、悩ましい声を漏らしながら、依恋が寝返りを打った。
はっとして、カルディアは視線をベッドの方へと移す。
依恋は横向きになって、むにゃむにゃと何やら呟きながら、また寝息を立て始めた。
ただ寝返りを打っただけ……それを確認すると、カルディアは壁に背を預けて、片膝立ちの体勢を取る。
――見ていることにしよう。
そう思考して、カルディアは依恋へ視線を向ける。
観察ではない。強いて言うなら、見守る、というところだろうか。汗が流れたら拭いてやるし、喉が渇いたようだったら、さっきと同じようにスポーツドリンクを飲ませてやる。
眠っている間は、そうしている事にしよう。
そうすれば――
――奇妙な思考について考えずに済むだろう。
:――:
「ん……」
ぼやけた視界。水を混ぜすぎた水彩絵の具で、キャンパスに描いた絵みたいな光景。
でも、それも一瞬のことで、あっという間に見知った光景が、依恋の視界に戻ってくる。
自分の部屋の、天井だ。
上体を起こして、軽く伸びをする。と――
「起きたか」
横から少年の声がした。思わず、そちらへと視線を移す。そして、そこに居る少年を見て、声を上げた。
「え、あ、え……?」
カルディアが、片膝立ちの姿でそこに居た。
――な、なな、なんで――?
と口を輪の形にして、慌てながらも依恋はカルディアの姿を見ながら、思考を回していく。
確か、なんだかボロボロのカルディアが来て、それで話を聞いて、そしたらなんだか体調が悪くなってきて、それから……
そう言えば、なんだかぼんやりとだけれども、寝苦しいときに水を飲ませてくれたり、汗を拭ってくれたりした人が居たような……
――大体思い出してきたかも。
「その、もしかして、一晩そうしてたの?」
「そういうことになる」
言うカルディアの様子からは、疲労の後は感じ取れない。やっぱり、戦闘用に作られたからなんだろうか、と依恋は思う。
「それは、なんていうか、その……ありがと……」
思わず、依恋は目をそらしてしまう。
――なんか恥ずかしい……し。
事情はあったし、カルディアの善意十割なのは間違いがないところだけれども、男子を――男子扱いして良いんだよね? クラスメイトの男子だし?――自室に一晩泊めちゃったわけだし。
横目でそろりとカルディアを再度見てみるけれども、どうもそういう意識は無いような顔色に、依恋には見える。
――いやまぁ、分かってたことなんだけど。
カルディアがそんな事を気にするわけがない。だってカルディアだし。
カルディアは何時も通り――正確には、昨日以前までの姿に戻っているように見える。
それはつまり、カルディアの精神――いや、AIのそれを、精神と呼んで良いのかな?――は、大分状態を回復した、良くなった、という事を意味している……と、依恋には思える。
「気にすることはない」
そんな依恋の考えを、当然の事ながら知ることもない様子で、カルディアは言う。
それこそが、カルディアが平常に戻ったという証――と、納得する。することにする。
そんなことよりも――
「さっ……てと」
大きく伸びをする。すると、依恋の身体が、まるで悲鳴をあげるようにあちこちで音を鳴らす。痛みはなく、むしろ気持ちいいくらいだけれども。
「ご飯食べて、学校行かないとね」
「そうだな。さすがに、君には昼食が必要だろう」
「そうそう、お昼ご飯が――へ?」
カルディアの、さも当然というかのような言葉に、依恋は目を丸くした。
聞き間違えたのかもしれない、と思い、聞き返してみることにする。
「お昼ご飯?」
「昼食だ」
「朝ご飯じゃなくて?」
「時間を確認すると良い」
言われて、依恋はベッドサイドに置いてある時計を見る。
「うわぁ……」
正午はとっくに過ぎているし、昼食であってる、というしかない。そうして時間を認識すると、なんだかお腹が減ってきたような気がする。
――状況は変わってないのに、なんだか不思議な気がする。
いや、そんなことよりも、だ。時間を見るに、もう昼休みも終わって、午後の授業が始まってしまったところだろう。
今から学校に行くのは、どうなんだろう。
「う、うーん……」
依恋はベッドの上で、腕を組んだ。
午後から出て、事情を説明するのも面倒といえば面倒。無遅刻無欠席に拘るほど真面目で通っているわけでもなし。
――うん。
一人、依恋は頷く。
「休もっか」
「なるほど、サボタージュだな」
呼応するように頷くカルディア。
「いやいや、体調悪かったのは本当だし。サボったわけじゃないって」
「調べたところによると、サボタージュは元々労働しないことによって損失を与える攻撃的行為であって、自己の怠惰が原因のサボる、とは全く違う意味だ」
「いや、それはどうでもいいし……」
知らなかったけど、知った所でどうにもならないし。今の状況でなんの役にも立たないし。
ともかく――
「今日は休む! 今からご飯は食べる! そういうことで!」
「君の選択だ、僕が口を挟むべきではないだろう」
「何その他人事みたいな言い方……」
いや他人事以外のなんでも無いんだけど、と自分の言葉に反する事を思いながら、依恋は言う。
「僕は君ではない」
「はいはいそーですねー……っと」
言いながら、依恋はベッドから出て、キッチンに向かう。その途中で――
――おっと。
と、足を止めて、依恋は首だけで後ろを向いた。
「あんたも食べてって。お礼もしたいし」
依恋の視線の先には、当然のことながら、カルディアが体育座りをしていた。
「分かった」
「じゃ、あんたも今日はサボりだ」
依恋はにやっと笑うと、また前を向いて歩きだした。
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