第130話

 蒼然となったアオイ。悚然しょうぜんおののく心を抑え、冷静になれと努めた。悪魔をにらみ据え命じた。

「貴様、誰に憑依している。立ち去れ」冷静になどなれない。戦慄わななく声。


 炯炯と光る眸子に倨傲のぞかせリリス、答えず。


 念恚ふんい抑え、繰り返すアオイ。「立ち去れ」。冷静になれ、己に言い聞かせ。

 我を失えば結果は火を見るよりも明らか。それは1パーセント未満の可能性かも知れない。憤激にのみこまれれば、その可能性さえもついえてしまう。コンマ1パーセントでも可能性が在る限り、救う。必ず。


 火がついたように泣き出したユウ。この地に、冥界にそぐわない赤子の泣き声響く。追いついたアヅハナウラ、両者の様子を見て言葉を失った。アオイはユウをアヅに渡した。


「先に行ってください。リリナネさんは必ず俺が救います」


 アヅは無言で頷いた。言葉に出来ない思いを眸子にこめ、互いに交わした。

 アオイは歯がゆかった。アヅの目は語っていた。リリナネを救ってくれとは語っていなかった。超克せよと語っていた。乗り越えよ、と。


「必ず救います。サラとユウをお願いします」


「うむ」本心をアヅは言わなかった。異界より降りた若者の可能性に託した。「頼む」


「必ず」


 サラとユウを両腕に抱き、駆け去ったアヅハナウラ。リリスはまったく興味を示さなかった。マアシナの御子に。一瞥もくれない。


 狙いは、俺—。何が愉しい—。

 したアオイ、リリスに再度対峙した。


「今すぐ立ち去れ、悪魔。誰に憑依している」


「誰でも。知ったことか」倨傲あらわにリリス、愉快げに嗤った。


 愛しい人の顔がそんな表情をすることが悲しかった。「立ち去れ。俺を苦しめることが狙いならば、俺に憑け。その人を解放しろ」


 愉快げに目をゆがめリリス。「断る」呵々と笑った。「この女が誰でも知ったことか。言ったはずだ。アオイセナよ。貴様のような英雄気取りの若僧が壊れる様を眺めるのは愉悦ゆえつの極みと」


 言葉が出ずにらむアオイに悪魔は更に滔々と続けた。「さあ、殺すがいい。思い人を。おのが手で」高々と笑った。


 動揺するな—。冷静になれ—。知識を総動員して必ずリリナネを救う。あきらめない。コンマ1パーセント未満の可能性であっても。ゼロではない。信じたい。キリスト教の伝承は役に立たなかった。対して修験道は、摩利支天隠形法は効果あった。ならば。


「オンアビラウンケン……」大日如来真言を唱えようとして気付いた。大日如来は密教の創作じゃないか、と。如来とは、本来人のこと。それは悟りを得た人の呼称。釈迦の死後五百年から七百年経って創り出された密教大系。しかも大日如来は密教内において太陽神的存在。彼は知っている。この世界には最高神、太陽神、統治神、その類の神は存在しないことを。

 如来は悟りを得た人、菩薩は悟りを得ようと修行中の人、明王とは仏法を守護する王。古来インドで崇拝されていた神々は『天』に属する。それが日本に伝来し、日本的な信仰と融合したと言っても、はなはだかけ離れた存在となるとは考え辛い。であれば。


 次いでアオイが試みたのは帝釈天呪法。

 帝釈天諸天護衛法という強力な呪法が在る。その真言をとなえるやいなや、諸天が降臨して術者を加護する呪法。


「オンキョバミリヤ、キャバカミリキャ、ナラアロウジンニョウアロウバカ……」


 アオイが唱えはじめるやいなや、悪魔リリスは笑った。あろうことか、悪魔はその陀羅尼だらにを知っていた。


「笑止! アオイセナ! その神のルーツを貴様は知っているはずだ。ペルシャではアンラ・マインユの配下であることを忘れたか」


 アオイは真言を途中で止め、唇を噛んだ。そうだ—。悪魔に教えられるなんて—。


 リリスの言葉通り。帝釈天とはインドの軍神インドラ。インドラは古代インドの土着民を滅ぼしたアーリア民族が崇拝していた神。これがゾロアスター教、つまりペルシャにおいては悪神アンラマインユ配下の神となる。アンラマインユとはアーリマンのこと。アフラマズダの対立者。言うまでもなく、アーリマンとはクムラギの人の言うウポコポー。サタン。


 無理なのか。しょせんは幻想なのか。俺の住む世界の神々がこちらの世界の神々に合致するというのは。信仰が単一であり神々のルーツが同根であるというのは俺の思い違いか。


 数千年に及ぶ人類の歴史。古代、神は為政者にとって統治の材料だった。加えて民族間の戦い。敵対する民族の神は必然的に悪神となる。いや、古代に限った話ではない。近代まで。巨大宗教は国境を越えて人々を支配していた。現代でも。ゆわえとなっている。

 くじけ、萎えそうになる心を叱咤する。


 古代、こっちの世界に迷いこんだ人が、神々の伝承を伝えたに違いないんだ。あるいは、こっちの世界から来た人が神々の詳細を教えたんだ。神話は民族固有の物語。民族の数だけある。その中に取りこまれたものもあればまったく想像の産物もある。当然……。

 思索する間もリリスは待ってくれない。


「もどかしい」嗤う。「否、愚かしい。アオイセナ。冴えぬ奴だ」小刀ふり廻し襲い来た。「選べ。アオイセナ。おとなしく思い人の刃にかかるか。それとも思い人を殺し生きのびるか」


 身を掠める切っ先。彼にはたやすく躱せる。躱しながら、必死に考える。キリスト教の伝承はもとより、密教の呪法も役に立たないとわかった。効果があったのは修験道の摩利支天隠形法だけ。それも悪魔に働きかけるものではなく、自身にかける呪術。


 けれど。


 摩利支天は存在し加護を与えてくれた。それは事実。

「お願いだ。摩利支天。彼女を助けてくれ」

 悪魔の刃かいくぐりながら、祈るように摩利支天真言唱えた。「オンマリシエイソワカ、オンマリシエイソワカ、オンマリシエイソワカ」


 刃繰り出す手を休め、悪魔は笑った。


「マリコラギに救い求めるか。一つヒントをやろう、アオイセナよ。貴様の国の片田舎に摩利支明神なるものを祀る神社がある。そこは元は『天乃御中主アマノミナカノヌシ』を祀るやしろだった。いかに? 興味深い話であろう。マリコラギにこの娘救うことなどできない。ヒントは天乃御中主にある。考えろ、アオイセナ。天乃御中主とは何だ」


「なぜお前がそんな事を知っている」

 悪魔の話に驚きながらも、考えるため時間稼ぎに問い返した。


 鼻で笑った悪魔リリス。「我とて神。この世の森羅万象を知る。何が意外か?」


 考えろ。天乃御中主と摩利支天に共通点など全く無い。おそらく中世の摩利支天人気に変節したのだ。けれどそもそも、天乃御中主を祀る神社など日本にいくつあるのか––。


 天乃御中主とは、古事記の一番最初に現れる神。宇宙の始まりに現れる神である。が、不思議なことにその後まったく名前が出てこない。一番始まりに存在し、その後まったく語られることなく、姿を消した神。


「天乃御中主はどこへ消えた……」小声で呟いたアオイ。自身に問いかけた。こちらの世界の信仰と重ね合わせれば、天乃御中主はラアテア。そう考えていい。「ラアテアはどこへ……」それは原初の光。ラアテアの祭殿は無を祀っていた……。


 アオイはリリスの前に仁王立ちし、聖杖をその額に突きつけた。むろん、それで制圧できるわけではない。それは承知の上。ただ、威圧するため。

 リリスは不敵に、いや、愉快げに口を曲げた。


「万有引力の法則が発見されたからと言って、人が引力を感じることは希だ。そこに引力があっても人は引力を感じない。リンゴが落ちるのを見てニュートンが気付いたから、だから俺達は引力の存在を知った。けれどだからといって、人が普通に暮らしていて引力を感じることはない。それは当たり前にあって人が感じることのできないもの。天乃御中主も。俺達が当たり前に感じていて当たり前すぎて感じることのできないもの。神話から姿を消した理由は俺達の読み解く解釈よりずっと深い意味がある。それは外に存在せず、うちにある。故に始まりに在ってそれ以降登場しない。そしてそれはラアテアと同一の存在。内在するモノ。現代ポリネシアのマナの概念とは外れるが、ひょっとしたら古代ポリネシアの民はこの現象をマナと呼んでいたのかも知れない。世界の信仰の母体は単一だ。少なくとも俺はそう信じる」


 額に突きつけられた聖杖の先を指先で払い、リリスは笑った。「九十点だ、アオイセナ。いや、九十五点やろう」

 さらに愉快げに笑いながら、言葉を継いだ。怖ろしい意味含む言葉を。

「故に。この娘救いたければ貴様の手で殺すほかない。我はこの娘のそれを喰う。未来永劫、この娘の魂は消え去る。この瞬間から、輪廻の輪から消え去る。この娘救いたければ殺すほかない。貴様の手で。いくら貴様が愚鈍でも、もう解ったろう」


 アオイは眦をけっした。

「いや。救う。貴様を祓う」

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