第120話

二十六.[悪魔問答]




 昨夜イオワニは言っていた。石など強弱の問題に過ぎないと。途轍もなく強い霊に出くわしたら石など容易く砕かれると。しかしこうも言っていた。

『冥界は広い。出くわす方が希だと思っておけ』


 出くわした。違う。逆だ。巧妙に誘い出され、仲間と引き離され、独り対峙する羽目に陥った。


 こいつなら、容易に俺の石を砕き、俺に憑依し、何食わぬ顔で仲間のもとへ戻り、仲間を皆殺しにできる––。


「俺に何の用だ」

 動揺を隠し、努めて冷静な口調で問うた。その口の中に違和感。口を動かすと、過去に感じたことのない妙な違和感あった。歯に、何かがまとわりついている。指を入れてみるとはたして、唇の裏の薄皮がズルズルと破れていた。舌で触れてみると他にも火ぶくれができている。何カ所も。

 悪魔の発散する瘴気がここまで届いていることに気附いた。迂闊に瘴気を吸い込んだせいだ。火傷同様となり破れた。眼球も干涸らびたように乾いている。目が焼けそうだ。アオイは腕で口をかばい、一歩下がった。


 悪魔の返答は意外だった。逆。


「あんたが私を喚んだ。そうでしょ?」凄みある言葉質で、オウム返しに。


「喚んでなどいない」


「知りたがってたじゃない。私を。私達を。あんたに教えてあげる。真実を。真理を」


 アオイは、次の言葉を思いだし、今さらながら総毛立った。『おまえが深淵を覗くならば、深淵も等しくおまえを見返すのだ』

 俺が悪魔に興味を持って調べていたとき、悪魔もまた……。


「お前は、古代バビロニアの悪魔……」人類最初の文明、チグリスユーフラテス文明の、その古代バビロニアで恐れられていた女の妖魔。それが、この悪魔のルーツ。


「で?」悪魔は口を歪めて愉快げに笑い、問い返した。

「それって何?」


 何を問われたのかわからなかった。答えが分からず口をつぐんでいると。


「悪魔ってなに?」


 根源的な問いかけ。それは、彼自身が知りたかった問い。悪魔に対峙して逆に訊かれるとは思ってもみなかった。


「これは、何をしているように見える?」

 リリスは右拳を彼に向け、中指を立てて見せた。いや、立てたときには既にそこに指はなかった。骨が現れ、血の色の肉をまとい、皮膚で覆われ爪が現れ、指になる。次の瞬間再びはじけ、消え失せ、また骨が現れ……、瞬きする間にエンドレスで繰り返されるその事象。


 アオイは、悪魔がこれ見よがしに見せつけるグロテスクな技を、目をそらさず、逆にしっかりと見据え、答えた。

「創造……」


 再び、ニヤリと笑った悪魔リリス。

「ご明察」答えた口が歪み、その歪みが大きくねじれ、裂け、口の端から太いムカデが這い出て、バリバリと音を立て頬を走った。

 気付けば目に眼球がなく眼窩からボロボロとムカデが流れ落ち、否、流れ落ちるように這い出て、顔を覆い、黒髪の中に潜り、うねうねと蠢いた。

 目をみはったアオイを、悪魔は高々と嘲り嗤い、次の瞬間、その首がはじけ飛んだ。分子崩壊したかの如く散り。血の色の霧、刹那漂い。破裂音と共に元の女の顔に戻った。目尻をつり上げ、凄まじい笑みを浮かべて、彼をにらみ据え。

「悪魔ってなに?」


 姿形は––。関係ない––。

 姿は、変化自在。惑わされるな。物象を創造できるならば。天使の姿でも可能。応化した姿はその霊の嗜好に過ぎない––。あるいは、嗜好ですらもなく、単に人の恐れる姿を現し、彼の心を萎縮させようと試みているのかも知れない。怯えたら最後と、彼にも分かった。恐怖に囚われれば、敵の思うつぼ。


「神……」アオイは静かに答えた。「古い神……」


 既にそこまでの解釈はできていた。冥界で記憶を取り戻し、そしてタパに教わったことを、取り戻した記憶とすりあわせて。こちらの世界で、その位階は同じ。闇の『ポー』も、光の『ラギ』も。同じ位階の神。


 悪魔は満足げに笑った。

「じゃあ、どこが違うの? あんた達の敬う善霊と、忌み嫌う私達と、何が違う?」


 答えあぐねていると、たたみかけるように悪魔は言った。

「悪魔ってなに? 何をするのが悪魔なの? 悪ってなに? じゃあ、善は? お前は善を知ってるの? 知らない? それで、善を為すから善霊、悪い事をするから悪魔」


 タパの言葉が脳裏に蘇り、悪魔の言葉と重なった。思えばこの世界に来てから、それを知りたいがため、日々おのが心と向かい合い、黙想してきた。が、いまだ答えは分からぬまま。

「いや、俺は知らない……分からない」答えて自分でも弱々しい声と感じた。


 悪魔リリスは勝ち誇ったように笑った。轟と冥界の空気が震えた。地がゆらいだ。

「善悪が如き、恣意的な人間の価値観でわれをはかるなぁ」






 目を剥き嗤う悪魔リリス。「愚かな人間の矮小な価値基準で我らをわかつか」


 人類を代表するつもりはない。が、せめて一矢報いようと反論した。

「善霊は人を助け、お前達は、人を苦しめ……」しかし、言いかけた口をつぐんだ。返ってくる答えが予想され。


 思った通りの答えを、さらに愉快げに目を剥いて、悪魔リリスは言った。

「人は人を苦しめないのか! 人を苦しめるのは常に人であろう!」

 予想通りの答え。

「それとも、人を苦しめる人は、全て我らが操っているとでも思っているのか」笑止千万とばかり嗤う悪魔。「人の世の不幸は全て我らの為した結果か? 嗤わせるな。どれほど小利口になっても、何万年経っても、お前達はサル。いや、どころか、捕食される危険が消え去り、まったく現実を見なくなった。頭の中は夢想でいっぱいだ。お前達は夢見るサルだ。夢見がちなサルの群れだ。人の世に不幸絶えぬ理由はそこだ」




 悪魔は滔々と得意げに続けた。

「小狡く好奇心強く、どいつもこいつも草食獣のように臆病なくせに、弱い相手には肉食獣のように獰猛。いつの世も、お前達は変わらない。夢想好きなサルの集まりだ」


 アオイは毅然と言い返した。既に己を取り戻していた。

「夢想じゃない。想像力だ」

 気附いたのだ。悪魔が巧妙に触れず誤魔化し彼を追い詰めた、自明の理があることに。この宇宙を別つ原理は善悪ではない。

「想像力は人間の進歩の原動力だ。お前達は悪を司る神ではない。物象の原理、闇の原理に従う神だ」


 この宇宙をわかつ原理は光と闇。目の前にいるのは悪魔ではない。闇の霊。光の姿が善に似ているため、人は光を善と同一視する。その逆もまた同様。


 悪魔はピクリとも表情を変えなかった。代わりに、白く豊かな乳房の上をゾロリと蛇が這いあがり、鎌首をもたげ、威嚇するかのように、口を裂き舌を見せた。


「我らが闇として。どこに光がある?」リリスは言った。低い声音で抑揚のない口調だったが、凄まじい侮蔑を舌にのせて。

「うぬらは永遠に無明の闇の中に在る。光など見たこともない」


「いや」ここも。アオイは惑わされなかった。むろん、彼自身のことではない。

「見た人はいる」光の開かれた者の為すことは全て善行となる。

「イシュア、イエス、当時は何と呼ばれていた? お前はその頃もその地域にいたはずだ。その人を知っていたはずだ。その人は真に救世主だった。その人は、人を救い得た。違うか?」


 轟と悪魔は笑った。

「都合よいことにすぐに殺されたわ。広く人々が知ったときには磔になった後だ。その後起こったことは貴様も知るとおり。考えろ。アオイセナ。少し考えれば、明白な解答に辿り着く。サタンはどこに潜んでいる? 考えてみろ。アオイセナよ」


「いや」アオイは悪魔の問いかけを読み違えた。「サタンは存在しない。その名は、神に仕える天使の名。神への忠誠心を試すため、信者を苦しめた」旧約聖書では。


 悪魔リリスはアオイの読み違えを嘲笑った。悪魔が嗤うたび、冥界の仄暗い空気が轟と震えた。


「名称などどうでもよいわ。貴様も分かっているはず。それは物象の神。物象存在の原理。万物を創造した造物主。よいか、アオイセナ。明白な解答がそこに在る。木を隠すならば森の中、文(ふみ)を隠すならば書架? では造物主は? 何を利用してどこに身を潜めた」


 唇を噛んだアオイを見て悪魔はニタリと笑んだ。理解したのだ。彼が理解したことを。


「気付いたか! 貴様らは偉大な主により創造された、命与えられた、サタンの子、永遠に闇から逃れられぬ! 知らされれば自明の理、覆せぬ道理、これこそが真理、分かったかアオイセナ」


「けれど……」

 反論を試みる彼をさらに嗤い、悪魔は続けた。

「ルシフェルに救いを求めるか? サタンの対立者に。笑止ぃ、アオイセナよ。その光に、人を導く意思などない。破滅の解放神とはよく言ったもの。ノア(自由)とはよくぞ名付けた。自由! 闇の中に在る貴様らには理解できぬ。それは諸刃の刃。どころか、破滅の剱! サルには危険すぎる玩具。もっとも、昨今では貴様らも自由など存在しないと気付いているようだが」


「ふざけるな」アオイは怒気はらむ声で吐き捨てた。彼の中で何かが音を立て切れた。

 既に口中の火ぶくれが全て破れ、口の中がズルズルした感触であふれていた。目が焼けつくように痛い。障気を浴びて、熱病に感染したかの如く総身に悪寒走っている。耐え難い、禍々しいモノ。こんなモノが口を開いて善悪だの真理だの語ること自体、許せなかった。

「黙れ! これ以上、一言たりとも語るな! 黙れ!」


「ふふふ」悪魔は愉快げに目を細めた。「黙さぬ。なら、どうする?」からかう様な口調で口の端をつり上げ、リリス。


「貴様を却ける」邪霊にらみ据え、アオイセナ。


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