第116話

二十.[血塗られたファンタジー]


 唇を噛んだアオイ。身構えた。ようやく、自身の置かれた状況を理解した。はぐれた。悪魔に欺かれ。いったいどれほどの間気付かずに走らされ、仲間から引き離されたのか。

 悔やんだが遅い。

 周囲の霧の中に立ち現れた無数の影。

 右から躍りかかってきたそれを聖杖で薙ぎ払った。杖を廻し、背後の敵に突端を喰らわせた。泥人形は柔い。ボロボロと崩れ落ちる。砂塵に帰す。

 脆い。彼は思ったが、それが思い違いであることを、すぐに知らされる。

 二体同時に襲われて、一体を払い崩し、勢いもそのまま聖杖を地に突き、もう一体の胸ぐらに蹴りを入れた。

 かかとがジンと痺れた。強烈に硬かった。面食らったアオイに、ここぞと襲いかかってきた敵。体勢立て直し、聖杖で薙いだ。


 ガチガチじゃないか––。プアロアの巫術師の言葉、思い出した。『そこにては、我らに元素術が使えぬと同様、悪魔らにも他にすべがない。されどこれより授ける聖杖が、その業をたやすく打ち砕く』。


 聖杖だから砕けるんだ。感心したが。クソ––。不用意に繰り出した蹴りのせいで、くるぶしを変な風にひねっていた。大丈夫、これくらい大したことない––。


 間断無く、聖杖振るいながら、仲間の名を呼んだ。叫んだ。しかしその声は霧の中に吸い込まれるばかり、呼応する声微かにも聞こえず。しかも泥人形の数が増えた。周囲を埋め尽くさんばかりに。


 まずい。他の悪魔まで呼んだか––。無駄にあがいた所為で、余計なモノを呼び寄せた。


 足をくじきながらも、旋風の如く聖杖廻し突きを繰り出すアオイ。砂塵に帰す人型の造物。彼の周りが土煙で満ちた。口中に入り込んだ細かなジャリを唾と共に吐き捨てた。


 畜生、これは幻覚か? それとも本当にここに在るのか? とても『そこに在るように見え、そこに在るように感じるだけである』とは思えねえぞ––。唾を吐き毒づいた。


 悪魔を退けなければ……。


 方法を、彼は知っている。悪魔を祓う呪文をいくつも知っている。その一つを口にしようとして。

 気付いた。それは、『御身の手の内に、御国と、力と、栄えあり。永遠に、つきることなく、アーメン』その文句をヘブライ語で言うもの。

 振り下ろされる人形の怪椀躱しながら、寸隙ぬって、

「Atheh,Malkuth,ve Geburah……」そこまで唱えて、その意味に思い至り、気付いた。


 駄目だ……、これは通用しない……、それがグノーシス主義に拠るなら、正統派キリスト教会の伝承は役に立たない。


 グノーシス主義は原初キリスト教最大の異端。(それは、キリスト教成立以前から在った哲学的宗教思想がキリスト教を吸収したものと、現在では考えられている。が、)原初キリスト教を二分した勢力。正統派キリスト教会により、迫害され、排除された。そちらが正しいとなれば、正統派の解釈はなにもかも全て役に立たない。全て、空虚なファンタジー。まるで呪われているかの如く、膨大な年月、綿々と連ね。


 まだ、手はある––、襲い来る悪魔の業紙一重で躱しながら、再び唱えた。それは、オカルティストたちが、古来、悪魔を召喚する際、そして退去させる際、唱える言葉。『AGLA』。Atheh gabor leolam,adonai(御身は強大にして永遠なり、主よ)の略。


「AGLA」唱えたが。まったく変化無い。「畜生ぉ」聖杖ふり廻しながら連唱しても。


「クソっ」次々と振り下ろされる怪腕躱し打ち砕き、その間隙に。

「Atheh gabor leolam,adonai」略さず唱えても。変化無い。


 駄目だ、これも同じだ––。

 気付いた。ここにある『主』とは『御身』とは、旧約聖書の神でありユダヤ教の神であるヤハウェの事。その文化圏の悪魔払いの伝統が全てその神に拠るならば、全て無意味。役に立たない。(グノーシス派では、その神は格下の神々(支配者たち(アルコンテス))の長であり、デーミウールゴスと呼ばれる存在であり、至高者の下に位置づけられ、至高者の存在を知らず、下界と人間を創造した者。いわば造物主。創造主ではない。)


 瞬間、閃光のように閃いた不謹慎な解釈。刮目した。が、しかし。

 この想像はやばいな、いくら何でもまずいだろ––。自ら失笑した。

 彼の脳裏を一瞬掠めたその想像、それは。造物主、それはつまり言ってしまえば、物象を司る神。人知学の創始者であり二十世紀最大のオカルティストと呼ばれるルドルフ・シュタイナーの解釈によるアーリマンの姿。こちらの世界で、闇の支配者(ウポコポオ)と呼ばれる物象存在の原理。


 ありえねえ、自分の想像を笑った。


 そして。笑っている場合じゃないと自分を叱咤した。


 調和の原理ヴェセプタは、扉を開いてくれる。人を行き来させるため。おそらく、二つの世界のバランスを保つため。自然に開かれるその扉を、人の依頼で開いた場合、そして、開いたままにしておく場合、人命を犠牲とするに違いない。術者の命と引き替えに、術者の目的を果たすまで。けれどどれほどの時間が保証されているのか、それは全くの未知数。


 俺がはぐれた所為でこの冥界入りを失敗させたら? シュスさんの死を無駄にしてしまったら? 


 再び、唇を噛んだ。


「うおおお」叫びながら、活塞の如く杖ふるった。コマの如く躰廻し。捻ったくらいで動かぬ足なら千切れてしまえとばかり、地を蹴り。


 周囲の影が次第に減ってゆき。そしていつしか、全て消えていた。深い霧の中。彼は独りきり。無音。満ちている。


「あれれ……?」逆に戸惑った。


 諦めたのか。


 戸惑いながらも歩を進めると、霧の中にたたずむ無数の影。異形の人型。しかし動いてはいない。これは……? 考える暇があったら、砕くべきだと判断した。ここに、悪魔の業以外のものが存在するはずない。彼は聖杖ふりかざし、影に向けふり下ろした。

 今までとはまったく違う手応えで、それは粉々に砕け散った。中が空洞の像。


 え? これ、乾漆造かんしつぞう? まさか?

 大地に落ちた欠片拾い上げ、呆然とした。何が何だか、わけが分からない。有り得ない。


 欠片地に捨て、側の影に近寄り、よくよく見た。やはり神像。しかも。クムラギの物であれば、綺麗な彩色がなされている。あるいは金色こんじき。これは、褪色している。過去には鮮やかな色合いで塗られていた物が、歳月を重ね、色褪せ、風化した物。しかも見覚えがある。


 これ……。


 仏……像……。興福寺の……?

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