第60話
二十二.[地水火風空]
汗びっしょりになり、興奮冷めやらぬ人々に混じって会場をあとにした二人。ツキツキ小屋の中は蒸し暑い。人の熱気がこもり、さらに人の壁で風が通らず。アオイは外の風を冷たく感じた。溢れかえった見物後の人混みの中で、ルルに訊いた。
「このあとは何処か行きますか?」
「そうですね。皆さんはバルでお茶を飲んだりします……」
「バル?」
「はい……」
「へえ……」
その時、半鐘が鳴った。始め遠くで微かに。そして町の四方から一斉に。すぐ側でこの区画の半鐘も鳴り始めた。ツキツキ小屋の前を埋め尽くした人々の間にざわめきが広がった。そして早駆けの蹄の音響き、駆けてきた数騎の武人。一人が馬を止め、人々に危急の事態を告げた。
「蜥人が入り込んでいる。見失った。ここへ現れるかも知れぬ。急ぎ家へ帰られよ」
人々は皆、不安げに顔を見合わせた。慌てて駆け出そうとした者もいたが、大抵の人は冷静だった。年輩の男性が武人に問い返した。「何匹かね?」
「十数匹入り込みあらかた退治したが数匹取り逃した」口早に答え武人は駆け去った。
アオイもまた、冷静だった。大規模な襲撃じゃないと判断できた。捜索を手伝うよりも、この子を安全な場所まで送っていくこと––、ふり返るとルルは怯えた顔をして、彼の袖の後ろをつかんでいた。アオイは心配ないと笑ってみせた。
「心配要りません。剣を持ってますから、出くわしても大丈夫です」
ルルオシヌミは「はい」と答え、ぎゅっと袖を握った。
足早に散ってゆく人々の間を、二人も急ぎ足で歩いた。騎兵が何騎も駆けていた。
アオイは、いつ敵が現れても良いように精神を集中させた。いつ、どんな形で現れても即座に反応できるように。それは彼が昨日やったことだった。心を静め、耳を澄まし、周囲に神経を張り巡らし、自分を保ち。
大きな辻を通り過ぎたとき、アオイのすぐ前方で悲鳴が沸き起こった。彼は悲鳴の上がる前に気附いていた。すでにその目が捉えていた。狭い路地から飛び出してきたその姿を。筋骨隆々とした上半身、太い首、パックリ裂けた口と大きな顎、灰色の顔、トカゲそっくりの目を光らせて、身には毛皮の革鎧をまとい。立ちすくんだ人々に向けて、棘だらけの鉄球をふりあげた蜥人。三匹。
アオイはルルオシヌミの手をふりほどき剣を抜いた。
たった三匹––。アオイはそう感じた。
剣を抜くと同時に印を結び地を蹴り。
次の瞬間、そこにいた人々は、アオイセナを三人見た。突如現れ躯を廻して剣をふり抜いたアオイセナ、その隣の蜥人の側方に現れ、切っ先を敵の躯に埋めたアオイセナ、残る一匹の背後に出現し、敵の後ろ首を真一文字に斬り裂き、背を向けて立ったアオイセナ。
実際には同じ空間同じ時間に彼は一人しかいなかった。人々の目に映った姿のうち、最後の姿以外は全て残像。
人々は言葉を失った。始めて目にした術に。本来、移動呪はそう使われるものではなかったうえ、移動呪の上級術はそうではなかった。今、人々が目にしたものを名付けるならば、分身の術。しわぶき一つなく静まり返った中、絶命しきれずのたうち廻る蜥人の嗄れた叫び声だけが響いていた。
アオイが呪文文言唱えたのは一回。後の二回は目線だけで移動した。体裏表に刃をふるう一連の動作の流れの中で。彼は朧に感じていた。今までの自分とは截然と違う何かを。
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