第35話

「じゃあ、君が拾ってたの?」


「はい……。昨日、私はリリナネさんのすぐ側に入ってたんです。で、これが湯船の底に転がっているのに気附きました。というわけです……」一瞬悪戯っぽい笑顔を見せて、すぐに恥ずかしそうに目を泳がせた。


「どうして言ってくれなかったの……?」


「だって、気附いたのがリリナネさんが出てしまった後でしたもの。それに……」あさっての方向に目を泳がせて言った。「あまりにも高嶺の花なんですもの」


「……⁇」


 女の子は夢見るような瞳で彼方を見つめ、右手をきゅっと握り、続けた。


「黙ってればアオイさまは「痴漢」。一気に減る恋敵たち。でも、私は無実と知っている。そしてこれをきっかけにお近づきに……そして始まる親密な交際……これは、まさに恋の種……」小さくきゃっと言って再びあさっての方角を向いた。


 これは、厄介な人かも知れない―。


「アオイさまはお芝居はお好きですか……? それともツキツキの方が良いかしら……?」


 ツキツキって何だ―? 訊いてみたかったがグッとこらえた。「あの……、それより、その種の事をみんなに話してもらえませんか? このままだと俺は痴漢に」


 少女は恬として答えた。

「いやです」


 こういう人を叱っちゃいけない、本能で感じた。この人は、アレの素養充分、アレ、何て言ったっけ―? 何処か夢見ているような大きな瞳も、危険な兆候をいっぱい孕んでいる。


 アレ何て言ってたっけ……、スト……ストリ……違うな……。


「私とつきあって頂けますか……?」頬を染めて、うつむき加減に言う少女。ほんの少し、首を斜めに傾げて。


 アオイは頭を抱えたい気分だった。曖昧な返事をしてはいけないと感じた。それに、女の子に告白されて安請け合いしてはいけない、とも思った。記憶はないが過去にそれで痛い経験をした気がした。しかし上手い断りの文句など浮かばなかった。


「駄目ですか……?」大きな眸に見る見る涙がたまった。

「いや……」

「いいんですか?」

 涙をためた眸が嬉しそうに輝いた。その顔を見たら、「はい」と言ってあげたい気持ちになった。


 流されては駄目だ―。


 流されては、と言うよりも、渦巻きにのみ込まれそうな感じだった。得体の知れない何か、ポワポワと渦巻いていた。


「俺はその……あなたのことをあまり知りません……ですからあなたの望むようなお返事は出来ません……」


 再び泣きそうな顔になった。けれど心を鬼にして続けた。

「それよりも、その種の事、みんなには黙っててもいいですから、一人だけお話してもらえませんか?」


「誰ですか?」

「リリナネさんです」

「どうしてですか?」

「リリナネさんはきっと、その……、傷ついた筈だからです」

「ううん、それは嘘です……。アオイさまはリリナネさまがお好きなのですね……?」


 ポワポワなくせに意外と鋭かった。アオイは一瞬躊躇したが。


「はい」と答えた。告白してきた相手に、嘘を言ったり誤魔化したりしてはいけない気がした。


 ルルオシヌミは泣かなかった。泣きそうな顔になったが、にこっと笑った。けなげな笑顔で「分かりました」と言った。


「え? 分かってもらえましたか?」

「リリナネさんにお話しします。でも、その代わりお願いがあります」

「お願いって?」

「お友達になって下さい」

「そのくらいなら……」

「一緒にお芝居を見に行ったり、お弁当を持って公園に行って肩を寄せ合って座ってお喋りをして、手をつないでお散歩しながら時に見つめ合い」


「ちょっと待って。その、途中辺りから友達と言うよりも恋人がすることになってますが」

「あら。アオイさまはご記憶がないのですね。友達といえば普通そうですよ。みんなしてます」心得顔で言った。

「え? ほんとに?」


 嘘みたいだった。目を泳がせて黙り込んだ。そのあと、消え入りそうな小さな声で言った。


「お友達になって、私のことを知ったら……、お返事を頂けますか……? 良いでも、駄目でも、私のことを知ってから……」


 期待させるようなことを言っていいのだろうか、少し迷った。けれど、このくらい約束してもと思い、笑顔で答えた。

「はい。分かりました」


「私、頑張ります……」嬉しそうに、にこっと笑った。



 お廟に戻ると入り口でユタが待っていた。聞きたくて堪らない顔をしているくせに、こういう事を興味津々に訊くのは男らしくないとでも思っているのか、一言も訊かなかった。アオイも、こういう事柄は軽々しく話すものではないと思ったから言わなかった。


 けれどニコニコ笑って附いてきて、とうとう部屋まで附いてきた。所在なさげに、けれどニコニコ笑っているその顔を見ると、言わないでは済まなさそうだった。言葉を選んで簡単に言った。


「お友達になることにした」

「へえ」ユタは嬉しそうな顔をした。「良かったですねえ」

「うん……」良かったのかどうか分からない。少し気が重かった。先延ばしにした返事を、いずれ言わなければならない。


「オシヌミさまはとっても優しくって良い方ですよ」

「ん? 知ってるの?」

「はい。ご近所ですから。お母さまを小さい時に亡くされて、今はお父さまと二人暮らしで……」


 そんな気の毒な事情は聞きたくない。断りづらくなってしまう。


「オシヌミ家は、もとは旧家の出なのですが今はすっかり……。確かお父さまは普通のお勤めのはずです」

「ふーん……」出来れば聞きたくない話が続いた。気のない返事をしたが、ユタは気附いてくれなかった。

「はい。町外れに大きな製鉄所があったでしょ。あれはオシヌミ本家の製鉄所ですよ」

「オシヌミ、製鉄……?」


 記憶の暗い霧の奥深くに、微かな閃光が走った。遠い雷光のように。ここに存在する違和感を一気に吹き飛ばしかねない瞬き。何かが暗い霧の奥底で胎動していた。


「旧家……、旧家って……?」


 ユタはそんな彼の心の内側の様子には全く気附かず、物知り顔で答えた。


「サザキベ、ミチモリ、オシヌミはクムラギの旧家で、御三家と呼ばれています。あ、あとワニも。イオワニさまも旧家の出なんですよ」


「サザキ……オシヌミ……」心の奥底の細い記憶の糸。口の中で何度も繰り返した。その糸をたぐれば、一瞬でこの闇は明るく照らされる、記憶が戻る、そんな気がした。


 けれど途切れた。何かが降りてきてよりいっそう深い霧の中に彼を閉ざした。それっきり何も見えなくなった。春雷を運ぶ雲が遠ざかってしまったように、それっきり。


「どうしたの? お顔の色が……」


 気附くとユタが心配そうに見ていた。


「いや、何でもない……大丈夫だ……」


 笑って見せた。答えながら今の感覚を心の裡でなぞった。ぞっとする感覚。何か得体の知れないモノが自分の裡に入ってきた感覚を。


「あんたは呼ばれたの―」フィオラパの言葉が鮮明に蘇った。


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