第23話

九.[言葉]


 少女は父親が大好きだった。


 彼女の父親はいつも難しい本を読んでいた。


 その日、彼女の父親が読んでいた本には、見たことない文字が沢山載っていた。ひらがなでも漢字でも、英語でもない文字。本の上半分がその文字で、下半分が日本語。上の文字の説明をしているみたいだった。


「それ、どこの国の字?」


 父親はにっこり笑って答えた。

「日本の、だよ」


「うそ」それは全然違っていた。丸や三角と棒を組み合わせた図形のような文字。見たことがなかった。


「うん。そうなんだ。実は偽物」


 首を傾げた少女に父親は笑って言った。

「これはホツマ文字といって、漢字伝来以前に使われていた文字と言われている。つまり、弥生時代の頃のモノってこと。「ホツマ伝え」という古事記に似た内容の本があるんだ。でも、それは江戸時代に捏造された偽書と言われている。実際の処、パパもそう思う」


「ねつぞう?」

「でっち上げってこと」

「嘘なの?」

「うん。でもね。漢字が伝わる前に何かの文字があったとしても不思議じゃないだろ」

「そうだよね。言葉があるのに字がないなんて変だもん」


 父親は笑って言った。

「いや。それ自体はちっとも変じゃない。日本語の親戚みたいな古代ポリネシア語には字がなかったんだよ」

「古代ポリネシアってどこ?」

「現在の、東南アジアからミクロネシア、メラネシア、ポリネシア、イースター島」父親は彼女が考え込んだ様子を見て言い直した。「ハワイみたいな南の島々だ」

「ふーん……」

「ハワイ語に文字があてられたのは西洋文明が入ってきてから。だから全部ローマ字読みで日本人にも読みやすい。ホノルルとかワイキキとかね」

「ふーん……。日本語の親戚ってどういうこと?」

「発音がよく似てるんだ。だから日本人のルーツは古代ポリネシアの民だっていう話もある。けれど実際の処はよく分からない。と言うより、実はお父さんもその辺のことは詳しくない。発音が似ているだけじゃないかな。でもね。たまに意味まで同じモノもあるよ」


「例えば?」

「うん。例えば古代ポリネシア語でつつくことや突き砕くことを「ツキ」という。突き、だよ」

「へえ……」

「だからお父さんの大好きなボクシングは古代ポリネシア語で言うと「ツキツキ」だ」

「古代ポリ……ネシアにボクシングがあったの?」


 父親は笑って答えた。

「いやいや。あったかどうかは知らないけど、ボクシングを古代ポリネシア語で言うと、そうなるってこと。重複形と言って、同じ言葉を重ねるんだ。「ラパラパ」とか「リコリコ」とかね」

「ふーん……面白いし、何となく可愛い」

「だろ?」

「どういう意味なの?」

「ん?」

「ラパラパ」


「ああ。ええっとね……。ラパには二つ意味があって、一つは『峰』、つまり山がぐわあって盛り上がってる感じかな。だから山がぐわあぐわあっていっぱい盛り上がってる感じを「ラパラパ」って言うんじゃないかな」

「へぇー。面白い。もうひとつは?」

「うん。『活発すぎる』って意味とか『害がある』とか、そんな意味もあるらしい。でもこっちの意味が「ラパラパ」になると『泡だつ』とか『跳ね回る』って意味なんだって」


「ううん、よくわかんない……」

「うん。実はお父さんもよく分かっていない。ラパはハワイ語と同じで、今言ったのはハワイ語での使い方。言葉って長い間使っている内に使い方が変わるからね。古代ポリネシアでも同じ意味だったかどうかはパパも分からない」

「じゃあ、わかんないってこと?」

「うん、だね。でも、ハワイ語のもとだから、全部置き換えることはできるよ。例えばハワイ語で地平線はクムラニだけど、これを古代ポリネシア語になおすとツムランギ……」父親は彼女がつまらなそうな顔をしていることに気づいた。子供には難しすぎる話が続いていた。

 ニマッと笑って話題を変えた。


「じゃあ作ってみようか」

「作る……? 誰が? パパが勝手に作っちゃうの!」

「うん、そう。例えば、こないだ一緒に観た映画の人魚姫は古代ポリネシア語で『ファフィーネイア』。意味は魚人間」


「さかなにんげん!」きゃっきゃっと笑う彼女に、父親は、

「うん。ファフィーネが女性で、イアが魚。で……」次々言葉を作って遊んだ。


 彼女はきゃっきゃっと笑いながら夢中になって聞いた。



 それが、父親と過ごした最後の夜になった。彼女の父は翌日自動車事故で帰らぬ人となった。

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