第14話
五.[龍翅]
アオイが部屋に戻ると、ユタミツキ少年が待っていた。彼の姿を見ると嬉しそうに笑った。が、思い直したようにほっぺたを膨らませた。「もう。何処に行ってたんですか。待ちくたびれちゃいましたよ」
当然のことながら、その顔を見ると少し戸惑った。「タパ様と少しお話ししてた……」。
「そうだったんですか」疑う様子はなく、すぐに笑顔に戻った。
見ると少年は鉛筆と紙、それから薄い本を持っていた。
「それは?」
「約束したでしょう。文字を教えるって」
「ああ。そうだったね。教えてくれるの」
「アオイさまはまったく憶えていないようなので、五歳の子供用の手習いの本からはじめます」
「うーん。ひどいなぁ……」
しかし、いざ始めてみるとそれが丁度良いくらいだった。なにしろ全く記憶から欠落していた。少しやったら思い出すんじゃないかと実は内心思っていた。しかしその期待は見事に打ち砕かれた。やればやるほど、存在しない記憶の袋小路で右往左往する羽目になった。
それは、基本が四十四文字から成る表音文字。
先ずはじめにユタ少年は渦巻きと逆渦巻きを書き、「これが「あ」で、これが「わ」。「あ」は宇宙開闢の渦巻き、「わ」はそれが塊り地になったことを意味します」と説明した。
「ただ、これは旧字で、普通の「あ」は、こう書きます」と言って、円を描きその真ん中に点を打った。
三角の真ん中に点を打つのが「う」で、四角の真ん中に点を打つのが「お」だった。円の真ん中に縦棒を貫かせると「か」だった。基本となる円、半円、三角、といった図形に、加える点や棒の種類で分けて順に教えてくれた。
「あ。いけない。もう晩御飯の時間だ。急がなきゃ。今日はこれくらいにしましょう」
少年は手早く紙と鉛筆を片付け、「ご飯を貰ってきますね」と言ってぱたぱたと出て行った。
暫らくして少年は箱膳を抱えて戻って来た。「お待たせしました」と笑顔で言って、彼の前に置いた。大きなハサミの蟹が乗っていた。
「すごい蟹だね」
「うん。のこぎり蟹だよ」
いつものように一緒に食べるものと思って箸をつけずにいると「早く食べないと冷めちゃいますよ」と言った。
「ユタは? 今日は一緒に食べないのか?」
「うん。僕はいいんだよ。今日はお腹が空いてないから。今日はこれで失礼します」
おかしな台詞だった。さっきお腹が鳴っていた。それで夕飯の時間だと気附いたのに。アオイは全く理由も事情も分からなかったがこう言った。
「うーん。困ったな。実は俺もあまりお腹が空いてないんだ。半分食べてくれないか」
そう言うと少年の顔が嬉しそうに輝いた。やっぱりお腹が空いてるんじゃないか、と思った。
後から知った事情はこうだった。夕飯を取りに来るのが遅れた爲、二人分のご飯がなかった。ユタは、自分の分はいらない、と言ったらしい。リュウ少年から聞いた。
「でっかいハサミだな」
「この道具で殻を割るんだよ」
「貸してみな」
殻を割り、身を出してやり、渡した。二人で蟹を半分ずつ食べた。淡白な味ながら身が詰まっていて美味かった。アオイは思わず「へぇ。美味いじゃいないか」と言ってしまい、またたしなめられた。
お膳にはラッパ型のコップも附いていた。これは? と訊くと「葡萄酒だよ」と答えた。
「これは駄目だぞ」と言ってアオイが一人で飲むと、少年は口を尖らせて羨ましそうに見ていた。けれど楽しそうだった。
「のこぎり蟹も年魚も、大河ラーで獲れるんだよ」
「ラー?」
「うん。アオイさまはその岸辺に倒れてたんだよ」
「え、そうなのか……。じゃあ、俺はそこで溺れたのか……」
そこに行けばひょっとしたら何か思い出せるかもしれない、そう思っていると少年は言った。
「もうお元気になられたので明日ご案内してさしあげます。クムラギの街も」
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