第11話
三.[浴堂]
翌朝、文字を教えてくれるものと思っていたらユタ少年は朝ごはんの後姿を消した。彼の分と自分の分の箱膳を二つ重ねて抱えてぱたぱたと部屋を出て行って、それから暫らく戻って来なかった。
アオイは昨日よりずっと気分がすぐれていた。
とは言え、相変わらず頭の中は霞がかかったようだった。切れ切れに浮かぶ言葉。辿ろうとすると靄の中へ消え去る。その繰り返し。
ふと、家族の事が気になった。
俺に家族はいたんだろうか? 今頃捜しているんじゃないか。捜索願を出してないのだろうか––。そこまで考えて。
捜索願ってどこに出すんだっけ……、誰が捜索してくれるんだ? と首を捻った。
やがて少年は一人の男性を伴って戻って来た。「お医者さまをお連れしたよ」にこにこ笑って言った。
「医者……?」
医者は六十代の髭のお爺さんで、上品な薄茶の着物を着ていた。笑みを浮かべて言った。
「お加減は如何かな。旅の方」
「ええ。今日は割と。気分は良いんですが、やっぱり、憶えていないことが多くて……」
「うむ。聞いておる。それは時に任せるしかなかろう。今日は傷口を診て、ふさがっていれば抜糸してあげよう。どれ、診せなさい」
膝で立ち、座っている彼の頭の包帯をほどき、額の傷を診た。ふむふむと頷いた。
「これなら今日抜糸できるわい」
ユタ少年が嬉しそうに横から口をはさんだ。
「じゃあ、もうお風呂に入っても大丈夫なの?」
「うむ。じゃが、長湯はいかんぞ」
「良かった」少年は目を輝かせて、アオイに向き直り言った。「じゃあ、後で浴堂にご案内してあげる」
「浴堂……?」
「やだなあ。アオイ様はこんなことも憶えてないんだね。普通、お廟にはふるまい用の浴堂があるんだよ。お廟に浴堂がなきゃ、家にお風呂がない人は何処でお風呂に入るんだい?」
「浴堂って大きいの?」
「勿論さ。僕たちが沸かすんだよ。お手伝いの子供の仕事なんだ。僕は今アオイさまのお世話で外れてるけど」
「へぇ……」
大きなお風呂に入るのは気持ち良さそうだった。アオイも思わず顔が綻んだ。
「さて。抜糸の前に……」
医者が、持参した木箱から葉っぱを一枚取り出した。千切ってきたばかりと思しき緑色の葉っぱだった。
「これを噛むのじゃ。痛むのが嫌ならば」
手渡された葉っぱを、言われるまま口に入れて噛むと、肉厚の葉からとてつもなく苦い汁が出てきた。「うげぇ……」思わず顔をしかめたアオイ。
医者は言った。
「我慢するのじゃ。噛んだことがないとは言わさぬぞ。多分忘れているじゃろうが」
すぐに口が痺れてきた。さらに噛むと痺れが広がった。噛んでいるつもりだったが、すでに顎の感覚が無かった。
「さて。もう良かろう。横になりなさい」医者は小さな鋏とピンセットを木箱から取り出した。
アオイは言われたとおり横になろうとして、体まで痺れている事に気附いた。「あれれ?」と言いつつ床にごろっと転がった。咄嗟に手で支えようとしたが痺れていた。
その様子を見て医者も少年も笑っていた。
ほんの数分で抜糸は終わった。医者は言った。
「おそらく傷跡が残ろうが、男の子ならば気にせぬことじゃ」
はい、と答えながらも気になった。彼自身はまったく困らないが、誰かに怒られそうな気がした。誰か口やかましい人がいたような……。
誰だっけ––、首を捻った。
「さて。わしは帰るが、今宵傷が痛めばまたこの葉を噛むのじゃ」葉っぱを二枚、床に置いた。
「はい。わかりまひひゃ……ありぇりぇ?」舌がもつれた。
ユタ少年が笑いながら言った。
「クコの葉を噛んだんだもの。暫らく口が廻らないよ」
「ひょうなのか……」
「じゃあ、僕はお医者さまをお見送りするね。すぐに戻ってくるよ」
「うん……」
部屋を出る医者に礼を言ったがやはり口が廻らなかった。医者は笑いながら帰って行った。
その後、二分と経たずユタ少年は戻ってきた。アオイは訊いた。
「今の葉っぴゃはろんなろき噛むんら?」
「ぷっ。何言ってるか全然分らないよ」
「今の葉っぴゃはほんなとき噛むんら?」
「歯を抜く時とかだよ」
「へぇ」
「面白いからもう喋らないでよ」
「ん……」
「お風呂の用意をして迎えに来るね」
「ん……」
少年はぱたぱたと出て行った。
アオイは何日ぶりなのか記憶にはないが、久しぶりに入るお風呂が少し楽しみだった。しかも大きなお風呂らしい。それは確かセントウと言っていたような気がする。ナントカセントウ。
けれど、お風呂がセントウって意味が分からないじゃないか、と思った。ヨクドウ、が正しい気がした。
ユタ少年は、同じ歳くらいの少年を連れて戻って来た。
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