この多重宇宙のどこかで

かべちょろ

第1話 序章

一.[売れないタレント]


 十七歳の瀬名蒼惟は高校生ながら小さな芸能事務所に所属している。とは言え、学業に支障をきたすほど売れていない。

 ほどというより、全く、と言った方が良いくらいだと彼自身は感じている。


 しかし彼はそのことをあまり気にしていない。気にしているのはこの人。もうすぐ三十歳になる女性マネージャー、木原美奈。美人なのに今日も眉毛を吊り上げている。彼はそういう表情を何と言うか知っている。柳眉を逆立てて、と言う。


 柳眉を逆立てて木原美奈は言った。雑誌の表紙をパンパン叩きながら。

「大手事務所のブサイクがこんなに売れてるのに悔しくないの。ブサイクにどんどん追い越されて、ちょっとは悔しがりなさいよ」

「怒られますよ……。それにみんな格好いいですよ」

「あんたに比べたら月とすっぽん。言っとくけど、トイレで使うパコパコすっぽんよ。少しは目立とうとしなさいよ。ふられたら気の利いたことを言うの」

「思いつかなくて……。それに、本当に怒られますよ……」


 暖簾に腕押しといった風の彼に苛立って、木原美奈はファミレスで許される最大ボリュームの声で言った。つまり、声を押し殺して怒鳴った。


「あんたはっ、仕事が来ない最大の原因を何だと思っているのっ」

「事務所の大きさ?」

「ぎぃ――」

 木原美奈は漫画みたいに唸った。唸っただけじゃ足りなくて吼えた。釈迦の説教を獅子吼と言う。意味合いは全く違うがそれも獅子吼だった。形相が。


「さっきの収録っ、やっと廻ってきたテレビ出演のチャンスにっ、全く会話に入らないっ、ふられてもジョークの一つも言わないいっ! 何あのつまんない受け答え! あれじゃあ、全部カットよ! あんたの映ったところは全部カットお! 女子高生も女子中学生も、あんたの顔を見たことないのお!」

 すでにファミレスで許されるボリュームではなかった。周りの客が目を丸くしている。


「見て貰っても……僕はそこそこ普通くらいで……」

「その性格を直せえ! それから不敵な面構えで謙虚な台詞を吐くなあ! あんたの本心は一体どっちなのよっ」

「ええっと……謙虚な方……?」

「だったら、こんな顔をするの。分かる? これ。これが「申し訳ありません」って顔」木原美奈は顔を作ってみせた。

「上手いじゃないですか。美奈さんが役者やった方がいいと思いますよ。美人だし」


「お……おぅ……」

 美人という部分に木原美奈は顔を赤らめたが、すぐに我に返った。


「おべんちゃら言って誤魔化さない! それから、レッスンにはちゃんと行ってるの?」

「今更カポエイラなんて周回遅れもいいトコと思いますが……? 前みたいにヒップホップ系の……」

「どっちも出来なきゃ駄目。いい? この先アクションの仕事だってあるかも知れないんだから」

「役者の仕事がないのに?」

「ぐ……ぐちゃぐちゃ言わない。一つずつ実績を作る。仕事は私が取ってくるからあんたはもっと頑張りなさい」

「はい、はい、と。ケーキ食べませんか?」

 蒼惟は木原美奈の弱い処を知っている。


「う、うん……。そうね。私は食べる。あんたはダイエット」

「え、まぢに?」

「当然」


 蒼惟がまったくと言って良いほど興味ないタレント業をやっているのは、この年上の女性が何となく好きだから。

 街でスカウトされ、マネージャーだと紹介されて以来、彼にはり附いて、いつも口やかましく小言を言って、その癖やり返されると慌てふためいたりして一緒にいると面白い。

 口やかましいくせに、実は相手が自分に弱いことを知っている。一年附き合って学習した。現に今こうして話していても、なるべく目を合わさないようにしている。目が合ってしまうと弱いらしい。


 蒼惟がドリンクバーからコーヒーを持ってきて笑顔で手渡すと、木原美奈は目をあわさず小さな声で「ありがと」と言った。それから、ことさら憤懣やるかたない、といった表情を作ってみせた。


「まったく……。どうしてそんなに飄々としてるのかしら。君は全然思わないの? 芸能界で大物になってやるとか、……」

「だって、威張った人だらけで怖いですから。俺、威張った人は嫌いです」

「何処の世界に行っても、威張った人だらけよ。先ず頭を下げて、仕事を教えてもらって、そうしてみんな一人前になっていくんだから……」

「でもほら、なんとか言う人は新人を連れてご飯食べに行って、箸の持ち方が悪いと怒るって。俺、箸の持ち方悪いから」

「それは礼儀を教えてくれてるの」

「俺の箸の持ち方が悪くって誰が困るんです? それとも俺が恥を掻かないように? そうじゃないでしょ。そうかも知れないけれど、実際はそんな事どうでも良くて、つまりこうでしょ。貴様は箸の持ち方さえなってなあい。俺が一から教えてやるぅ。……それってもう舎弟じゃないすか?」

「呆れた。あんたって、捻くれてるのか素直なのかほんとに分らない……」

「俺は、威張ってない人には素直なんです」


 木原美奈は首をふった。


「それじゃ働けない。威張ってない人なんていないもの。今度の撮影はそんな事言わないでよね。端役だけど初めて来た映画の仕事なんだから」


 来週にその撮影がある。簡単に言えばそれは災害救助シーンで、蒼惟は濁流の中をロープをつかんで渡らなければならない。勿論、救助する側の主人公ではなく救助される役。


「アクションシーンがやれるって証明してみせれば、廻って来る仕事もあるんだから……」


 木原美奈ははっきり言わなかったが、実は内々に抜擢の話しがある。主役ではないけれど、日曜朝の子供向け特撮物のレギュラー。代々それに出演した男の子は、みんな出世している。

 もしもこの子がそれに出ることが出来たら、敵の怪人だけじゃなくテレビの前のママさん達までバタバタぶっ倒してくれる筈、と思っている。

 けれど黙っているのは、教えると面倒くさがって今度の仕事の手を抜くかも知れないから。


 彼女は彼女で、一年附き合って蒼惟の性分をほぼ見抜いている。

 この子は、一見爽やかで素直な好青年だけど、将棋で言えば絶対真直ぐ進まない桂馬のような奴。飛車角金銀の活躍を横目に見て、ちっとも羨ましいとも悔しいとも思わない奴。角も斜めに進むけど、この子は、まっすぐ進むと見せかけて斜めに着地する奴――。

 普通ならこの世界にいられない。育たない。けれどどうしても捨てられない、惜しい素材。いつかきっと大化けしてくれる筈と、祈る思いで見守る毎日……。


 溜息をついた木原美奈に蒼惟は言った。


「大丈夫ですよ。ちゃんとやりますから」

「本当かしら……」

「俺、信用ないですか……?」

「わたしは、信じてるわよ」

「良かった。美奈さんの爲に頑張ります」


 蒼惟がにっこり笑いながら目を見て言うと、木原美奈はコーヒーを咽喉に詰まらせ咽た。


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