終 章 帰路(1)

 天還祭が終わって遊牧七民族同盟イェッテ・カビーレの賓客をはじめ、各国の賓客たちが帰路に着いた。

 人身御供の祭祀を止めて、雄牛の生贄に変更したため、前時代に行われた口封じはされるはずもない。

 皆が無事故郷に帰れるようションホルが大街道や各地の関所に働きかけた。

 自らが曄帝のような口封じの勅を出していないにもかかわらず、彼はまだ以前の天還祭を引きずっていて、全員が無事故郷に帰れるか懐疑的なのだ。関所を通れば役人が無事通過の鳩を飛ばしてくるはずだ。

 天還之儀に侵入したムグズは再び牢に入れられることになった。恐らく彼は死ぬまで牢で生活することだろう。そのために専属の守衛がつけられた。

 最初からそうするべきだったのだ。養花殿の離れに置いて自活できるはずのないのだから。天還祭の真相を知るものとして、温情をかけたのが間違えだった。彼にはもう昼も夜も感じる能力はなく、正気を失って獣と化しているのだから。

 ションホルは牢に入ったムグズを沈痛な面持ちで眺めた。

「イパクのことを考えているのか」

 ハドゥの指摘は図星だった。彼は己の妻がムグズと同じような状態にあることを懸念していた。もしも彼女が罪を犯した時には、ムグズと同様に牢に繋がなくてはならないのかもしれないと思うと罪悪感に苛まれた。

「手の施しようも分別もねぇって分かっているが、こうはさせたくないな」

「ん。アルトゥン、今は悩むな。もしもその時が来たら俺が共に考えよう」

 ハドゥの励ましにションホルは小さく笑った。

「ハルは厳しいからきっと牢に入れるか毒を下賜しろっていうんだろうけどな」

 かつて従姉に抱いた憧れや恋心は、再会したころにはもうすっかりなくなっていた。イパクがあまりにも様変わりし過ぎていたからだ。幼い頃の憧憬を引きずったまま、一度は夫婦の契りを結ぼうかと考えたこともあったが、もはや無理な話であった。

 ションホルの中でイパクは一人の家族だった。もしその時が来たら家族としてイパクに何をしてやれるだろうか。罪を犯すのが先か、毒に蝕まれて命が散るのが先か。いずれにせよ覚悟を決めておかねばならない。

 また、牢を破った刺客は以前エルデニネが名を上げた出入りの商人・鄧柵望が出入りしている羅氏とは別の貴族の屋敷の厩から発見された。ハル配下のトゥルケ族が密かに尾行して突き止めたのだった。

 恐らくこの屋敷は羅氏と並んで反瑛勢力の根城の一つだと思われたが、王宮の要求はあくまで下手人の引き渡しであった。貴族も事を荒立てたくないのだろう。見知らぬ男が忍び込んでいてとても恐ろしい思いをしたと素直に身柄を引き渡した。今回のことで睨みを利かせたことになるので、暫くは静かかもしれないが、この先彼らがどう出るか見張る必要がある。

 ツァガーンの死体は見つからなかった。ションホルの穹廬きゅうろでハルは二人に顛末を語った。

 ハルが長い間両親の仇を討とうとしていたことや、ツァガーンが随分前から瑛を裏切っていた――そも、彼は曄の間者であったという共通認識が改めて語られたが、ハルはツァガーンの死体を一体どこへやったかは決して明かさなかった。

 ションホルとハドゥは長年裏切られていたとはいえ、ツァガーンの処分に消極的だった。誰しも裏の顔はある。そう思って見ないふりを続けてきた。しかし、今後新王朝である瑛を盤石な体制にするためには後顧の憂いを絶たねばならなかった。下手に泳がせた挙句、ようやく基礎を築き上げた時に瓦解されては困る。二人はハルが個人の裁量でツァガーンの処遇を決めることを黙認した。勿論、彼が死ぬということを視野に入れて。



 後宮は解散される。しきたりどおり、前皇帝の後宮であった事が理由だ。

 トゥルナ族とトズ族は帰る場所のない民である。時の皇帝が彼女たちの容姿と異能を気に入って誰の目にも触れぬよう多くを王城内に閉じ込めたのがきっかけだ。

 離散して曄北の山岳地帯に少数の生き残りが暮らしているが、土地が痩せ、雪深い厳しい場所だ。

 殆どの者が養花殿で生まれ育った者だ。少数の去る者は宮仕えの中に良人を見つけて嫁いでいったが、大半は伝手もないので王宮を去ることができず、養花殿は当初憤然とした女たちで埋め尽くされた。

 ションホルは程家の力を借り、養花殿を女官の学習所に変えた。

 曄は女が宮仕えする制度がない。トゥルナ族はあくまで神官として一部の女だけが城内で活躍できた。これは能力に応じたものではなく、年功や主人の地位によるもので極めて不公平だ。その機会をトゥルナ、トズともに一元化しようという試みで、急な措置であったが、以前エルデニネが曄平帝に奏上した案の一部が翻って叶えられた形になった。

 というのも、瑛を支配するヨルワス族やトゥルケ族には当たり前のように女たちが男と同じ働きをしている。武を誇る女は武人に、諜報のうまい女は間諜に。それが普通だった。だから養花殿ばかりが異様に映るのだ。

 オルツィイは学習所に変わった養花殿を以前にもまして元気に渡り歩いている。念願の授業が受けられるとあって、発案者のエルデニネへの尊敬は増すばかりだ。

 エルデニネは以前のように氷の仮面に包まれた女性ではなくなった。オルツィイを傍に置くことも多く、反目していたドルラルとは口喧嘩をする程度には仲良くなった。

 円丘から戻った時、ドルラルはエルデニネの髪色を見て青ざめた顔をした。トズ族の誇りでもある銀髪を赤茶色に染めるなど、彼女には到底考えられぬことだった。ハドゥの仕業だと分かると彼に物申してやろうとさえしたが、エルデニネは断った。

「あなたの髪はまっすぐに艶やかで羨ましい限りですのに、そのように関心がないなんて忌々しいですわ!」

 後に聞いたところだとドルラルは巻き髪を気にしているらしかった。

 ドルラルは勿論学習所に残ることになったのだが、彼女の側仕のハワルはこの場を離れることになった。サィンが死に、またツァガーンも消えた。

 裏切り者として処分されたツァガーンの死は公には伏せられ、皆にはムグズが逃げた際に負った傷が深く、遠くに療養へ行くことになったと伝えられた。完治の見込みはなく、長い間の療養が必要だと聞いて、ハワルは養花殿の裏で密かに涙を流した。



「これをやろう」

 御花園でエルデニネに差し出されたのは孔雀の飾り羽だった。

「一度湯を通しているから虫はついていないはずだ」

 彼女は差し出したションホルの得意げな顔と飾り羽に視線を二往復させてから受け取った。飾り羽は夏から秋にかけて抜け落ちるのだが、好事家によって収集されることもある。

 当のションホルは稀少なものという概念はない。愛玩している鳥が己にくれた季節の贈り物としか思っていない。

「ん? 孔雀が好きだといっていなかったか?」

 反応に乏しいエルデニネを怪訝な顔で見る彼に、エルデニネはどこかくぐすったい思いで飾り羽を胸に寄せると、白皙を俯かせた。

「はい、孔雀は好きです。有難く頂戴いたします」

「それにしても此度の天還之儀では少し驚かされた。まさかお前がアルマとすり替わるとはな」

 痛快に笑う彼に、エルデニネは見たことのない表情を知って恥ずかしなる。

 天還祭以後、彼女はションホルをどう直視すればいいのか分からなくなっていた。

 天還祭の際、大胆にもアルマと入れ替わったのは以前にションホルの考えをここで聞いたからだ。彼に影響されて大それたことをしでかした気恥ずかしさもあるし、彼の前で舞った気恥ずかしさもあるが、もっと別の背筋が痺れるような気恥ずかしさが時折襲ってくるのだ。この時ほど無表情と皮肉にされた己の面の皮を有難く思ったことはない。

「全てあなた様のご助言の賜物でございます。予知を免れて、アルマ様がご無事で何よりでございました」

「予知の回避は別に神への叛逆にはなるまい。勇気を見せてもらったぞ」

 ションホルは徐に立ち上がると鳥の餌が入った桶を拾い上げた。

「次の場所へ行く。また孔雀に餌をやりたくなったら来るがいい」

 エルデニネは肘を一直線に張って彼を見送った。背中が木立の中に消えゆく直前、ションホルはふと振り返った。

「そうだ。もしお前が文治の母となる心つもりがあるのなら席を用意する。考えておいてくれ」

 須臾、それがいかなる意味か分からなかった。

 何度か言葉を噛みしめて、エルデニネはそれを自分の都合の良いように、好意的に解釈してもよいものか考えあぐねた。

 傍の池の水鏡を覗く。飾り羽を耳の上に添えた。深い青と緑の煌めきが己の赤茶色の髪の上で命を得たように大らかに胸を張っている。

 髪色が銀に戻ってからつけるべきか、今の赤茶色で飾っても問題ないだろうか。どちらがより映えるのだろうか。オルツィイに聞いてみよう。さっきの言葉の意味だって自分だけでは解釈しきれない。

 些細な疑問が恥ずかしく、また愛おしいのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る