第四章 授業(1)

 後宮とは皇帝と女たちの享楽の場であり、女たちの熾烈な権力争いの場であり、夢のように豪奢な楽園である。

 旅の詩人や村の古老から伝え聞いた話で、少なくともアルマは後宮というものは小さな箱庭の中であらゆる知恵と色と時間を浪費し、皇帝の目に留まるよう、或いは我が子をいかに高位に座らせるか権謀術数し、悲喜交々の歴史を繰り広げる場だと想像していた。

 現実には少し違う。

 自由な時間は多いが、決められた時間もある。

 特に王宮に来たばかりのアルマのような人間はいわゆる教養を身に着けるための時間が多く割り当てられている。内容は歌舞、音曲、礼儀作法、語学、料理、読み書き、裁縫、文学、祭祀等である。

 礼儀作法の授業は唯一王宮での作法を知らぬアルマのために年配のトゥルナ族の女性が自室にやって来たが、その他の授業は殆どが養花殿の広間――彩雲の間で行われた。

 アルマが授業を受けている間、オルツィイたちトゥルナ族の側仕は外に行って別の仕事をする。トゥルナ族には授業中の彩雲の間に入る権利がないのだ。

 エルデニネが授業の概要をアルマに伝えに来た時、オルツィイはひどく羨ましそうな顔でエルデニネとアルマを交互に見ていた。アルマは、エイク族の自分が教養を身につけられるのであれば、側仕たちだって十分に資格はあるはずだと考えたが、トゥルナ族が知において主を上回らぬよう、トゥルナ族には教育を受ける権利がないのだという。

 トズ族が男児を出産できない、つまり国母になれぬというのに、もしも知を身につけたトゥルナ族が皇帝の目に留まり手付きになって男児を生むと、養花殿の階級制度はたちまち崩れ去ってしまう。

 オルツィイはアルマが部屋を出る時にこっそり耳打ちした。

「お嬢様、一体どんなごようすなのか後で教えてくださいましね」

 アルマは片目を瞑って答えたが、どうにも教養というものは難しい。特に後宮の教養というのは皇帝の隣に侍るのに恥ずかしくない作法や生々しい房中術、皇太子たるに相応しい性質の子を育てるための知識など、どれもこれもアルマには馴染みがなくて難しい。約束したのにすぐにはオルツィイに教えられそうもない。

 歌舞や音曲もまたエイク族や周辺の部族のものと違い、優美でしとやかなものばかりで馴染みがない。指の本数や形が違うだけでこういう感情に変わるなどと講義されても繊細すぎて必要だろうかと不粋な疑問まで湧いてくる。

 読み書きは当たり前なのだが瑛の文字である。瑛の文字は直前の王朝・曄やその前の時代の文字を流用しているのだが、護衛や商売に必要な簡単な読み書きはできても当代に流行した名詩や名文の類はさっぱりである。日常的に使わない難字の羅列だけでも頭が痛くなるのに、更に手本通りに美しく書き取れといわれようものなら胃まで痛くなりそうだった。

(せめて料理くらいはと思ったけど、瑛の料理って味うっす……)

 料理についても文化差を埋めるのがなかなか難しい。アルマはたった一度の授業で何度も油が多いだの香辛料が多いだのと注意を受けた。

(折角の羊肉なんだから、もっと油たっぷりのほうがおいしいよ。削ぎ落しちゃうなんて勿体ない)

 骨だってついたまま焼いたほうが旨みが出ておいしいのに。と独りごちた。

 昼食は授業で作った焼いた羊肉に小麦を蒸して作った餅、それに青菜と人参と茸のあんかけに卵白と鮫鰭の汁物だったが、味は実にあっさりしており物足りない。本来一日二食のところ、間食ができるのだから有難く思わねばならないのかもしれない。

 蒸し餅の真中を割いて羊肉と野菜を挟んで食べようとしたら、老師に木の鞭で手の甲を叩かれた。曰く、遊牧民族のようなはしたない食べ方はご法度とのことである。

 瑛王朝は遊牧騎馬民族の者たちが中央を牛耳っているが、曄時代からの勤め人も多く、トゥルナ族の老師である彼女の価値観は勿論曄人寄りだ。

 目まぐるしく授業が施され、部屋に戻った頃にはまだ昼間だというのに一直線に寝台へ突っ伏してしまった。

「お嬢様、もう暫く休憩なさったらはた織りの時間ですよ」

 オルツィイはアルマの疲労困憊の愚痴さえも、笑顔で羨ましそうに聞いていた。

「機織りなんてやったことないよ……」

「ご安心ください。機は一人では織りません。二人が師弟となって織るんですよ」

 それを聞いてとりあえずアルマは安堵した。遊牧民族の女性は家で機を織って収入にすることが多いが、アルマは実際に機織り機に触れたことはない。それどころか裁縫も下手で見かねたシャマルがいつも綺麗に繕ってくれる。己の手さばきには不安しかないが、一人よりは二人のほうがよっぽどましだ。どうやら今度行われる国家大祭で養花殿の者たちが織った布を神に捧げるらしい。

 そもそも、とオルツィイはいう。

「機織りという行為そのものが神への奉職とされているんです。全て対になっていて、師と弟で和と荒の神霊それぞれの衣を織り、接ぎ合わせ、天の神に地の王が捧げるんです。奉ずる祭祀によって織るものが違うんですが、今度は一か月後の大祭のために皆頑張っているんです」

「大祭……?」

「天還祭ってご存じないですか? 遊牧七民族同盟イェッテ・カビーレ――以前は遊牧八民族同盟セッキズ・カビーレと呼ばれていましたが、それらもこの国の大祭に参加していたんですよ」

 耳慣れない祭祀の名にアルマは暫し過去の記憶を辿った。だが、各地を放浪し続けているせいか、記憶の糸を辿っても件の祭祀には心当たりがない。

 放浪していると個々の部族の祭祀に参加する機会がなかなかないのだ。

 祭祀は執り行う特定の集団のものであり、その集団の祈りである。放浪する者は集団に属さない。例え所属しても一時のことでやがて集団から離脱する。よって、祭祀に客や手伝いとして参加することはあっても、祭りの主体として運営することはない。

「天還祭というのは前王朝の曄では最も重要な国家祭祀だったんです」

 九年に一度行われ、五穀豊穣と天地平安を神に願うのだが、ある時期から遊牧八民族同盟セッキズ・カビーレもここに参入して貢物を献上し、曄国と義兄弟の契りをその度に結び直していた。新王が立てばその都度天還祭は行われるはずであったが、混乱期に立った王、曄平帝と曄哀帝は祭祀を行うことなく薨去したため、最近では十二年前の曄武帝時代に行われたっきりである。

「私も小さかったので覚えていないんですが、沢山の貢物が王宮に集まってそれはそれは目を見張るものがあったそうです。祭祀自体は王宮ではなくて禳州じょうしゅうっていうここから西に行ってやや南下した場所にある土地で行われるんで、もし私が今の歳であっても見ることはできなかったと思います」

 でも、とオルツィイがいった。

「一生懸命に織った布はちゃんと禳州に行きますからね! 頑張って織りましょう」

 笑顔につられてアルマも自然と笑顔になる。少しできそうな気がしてきた。

 たった数日ではあるが彼女と過ごしていると気持ちが楽になる。まだ気心知れた仲とはいかないが、見知らぬ人間しかおらぬ、しかも誰もが好意的とは限らない王宮では唯一の心の拠りどころだ。

「オルツィイも一緒に織るの?」

「いいえ。私はトズではないので織りません」

「そうなんだ。あたし、あなたとが良かったな」

 オルツィイは顔を赤らめて身振りで精いっぱいの否定をした。

「とんでもございませんお嬢様! オルツィイはそのお心だけで十分です」

 アルマはそれ以上いうのをやめた。

――あたしだってトズ族じゃない。

 多分それをいってはならないのだろう。トズ族でないから駄目なのではなく、トゥルナ族だからきっと駄目なのだ。

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