第二章
第二章
「いい、杉ちゃん。パリの人たちに、日本人はここまでマナーが悪いのかと言われてしまわないように、気をつけてやって頂戴よ。パリの人たちはね、とても気位が高いことで有名なんだからね。」
成田空港へ向かう長距離タクシーの中で、蘭は杉三に一生懸命言い聞かせたが、
「具体的には何かなあ。」
と、鼻歌を歌ってかえされてしまうのだった。
「だから、ご飯を食べることにしても、音をびちゃびちゃ立ててスープを飲むとか、パスタをラーメンと間違えて、ずるずる音を出して食べるとか、そういうことはしないでね。それから、ご飯粒を顔につけて大食いしたり、喉が乾いているからと言って、お茶を一気飲みすることはしないこと。わかった?」
「うるさいなあ。もう、ご飯を食べるのだけでも、いちいち制限かけるな。」
蘭はいくら注意しても、頷いてくれないので、終いにはいらだってきた。
「それだけじゃないよ。パリの人は、結構高級な服ばっかり着てるから、黒大島で街を歩くなんてしないでね。日本では、ありえないはなしかもしれないけど、パリではちょっとした外出であっても、着替えていくんだよ。いつでもどこでも、黒大島なんて、絶対にしないでね。わかった?」
返事の変わりにかえってきたのは、口笛であった。
「あと、着物を着替えたら脱ぎっぱなしとか、お風呂の中ででかい声で歌うとか、そういう事はしないでよ。フランスでは、温泉なんてものはないんだから。温泉で大酒のみなんて事は、絶対にないよ。」
また口笛が返って来たので、蘭は、
「いい加減にしろ!」
と怒鳴った。
「もう、蘭も拘りすぎだよ。日本からの観光客も多いから、多少のことはパリの人たちも知っているよ。それに、パリでの主食の殆どはパンだから、ご飯を食べるのは、殆どないので、ご飯粒をつけてどうのこうのというのは先ずない。」
隣の席でうとうとしていた水穂が、蘭の声で目が覚めたらしく、そう発言した。
「おい、お前は無理して喋らなくて良いよ。ただでさえ、体が大変なのに、パリなんて、そんな遠いところへ行かされるなんて、もう、」
「哀れでたまらんというんだろ。そんな中途半端な同情はありがた迷惑なだけだから、かえっていわないほうがいい。」
と、続きを言うが、また咳をして、杉三に背をさすって貰う始末であった。
「あーあ、大丈夫かなあ。うまくやっていけるんだろうか。異国の地で。何か、製鉄所を追放されてしまったような、可哀相な気がしてならないよ。」
これからどうなるんだろうか、までいいたかったが、そこを言うのはやめておいた。
「僕が、マークさんの手紙を受け取ったのが間違いだったのかなあ。まさか本気にしようとは思ってなかったよ。波布のやつが、それを製鉄所へもっていってしまって、恵子さんたちに見せちゃったのが間違いだったんだよ。あの二人が楽をしたくなって、誘いに乗っちゃったから。ああ、もう、すまんな!」
蘭は、どうしてもやるせない思いを吐き出すつもりとして、そういったのだが、
「蘭さ、もう気にしないで良いよ。どっちにしろ、いずれにしてもこうしてどこかに行かされるはめになるのは、仕方ないと思ってたから、ある程度、覚悟はできてるさ。」
親友は、わかりきったという顔をして、蘭の顔を見た。
「パリには、どんな旨いもんがあるかなあ。日本の旨いもんもはやっているそうだが、それもかなりアレンジされているそうじゃないか。それじゃあ、本来の味も忘れられて、面白くなくなっているだろうなあ。」
杉三だけ一人ニコニコ、楽しそうにしていた。
そうこうしているうちに、タクシーは成田空港に到着した。適宜、搭乗手続きを済ませると、軽く喫茶店でお茶を飲み、杉三と水穂は搭乗口へ、蘭は自宅へ帰ることになった。
「じゃあ、気をつけて行ってきてな。パリは雨が多くて、湿気の多い場所だと思うけど、本当に体に気をつけて、ゆっくり療養してくれよ。」
蘭は、改めてそういったが、その言い回しが実に特徴的で、
「ばーか。フランスに戦争に行くわけではないんだから、そういう言い方はしないでもらえないかな。」
と、杉三に笑われてしまう始末だった。
「だけど、似たような事でもあるんだよ!観光に行くわけではないんだからね!」
蘭にとっては、ある事実を予想してしまっていて、そればかり頭に入っていたのである。それを口にすることはどうしてもしたくなかったのであるが、考えるほど、頭を渦巻いてならなかった。
「頼むよ。杉ちゃん。絶対に面倒なことは起こさないことと、水穂に何かあったら、すぐに手を出して、助けてやってね。」
下を向いて、そう呟き続ける蘭に、
「あーあ、もう。そんなに大げさに考えて。ただ旅行にいってくるだけなんだけどねえ。なんだか兵隊に行く父ちゃんを見送る、母ちゃんみたいな顔をしているぞ。ほらあ、飛行機乗り遅れるから早く行こう。」
「そうだね。僕たちはちょっと特殊な手伝いも必要だからね。」
と、言いながら、杉三と水穂は搭乗口へ行ってしまったのだった。
そういうわけで、蘭は、予定していた「最期のお別れ」をいう事はできなかったのである。もしかしたら、というか、確実に水穂の顔を見ることはもうないだろうと、確信していたのだった。水穂と杉三が、二人そろって搭乗口へ入っていったあとも、蘭は暫くそこを離れることはできなかった。彼の前を、飛行機に乗ろうとしている、家族とか、カップルとかあるいは単身者が、ひっきりなしに歩いていった。皆楽しそうだなあ、僕が考えているようなことを思って飛行機に乗りたがる人なんていないんだろうなあ、、、。蘭は、そう思いながら、帰りの長距離タクシーに乗るため、タクシー乗り場に向かったのであった。
一方、飛行機は、予定通りに離陸して、日本を後にした。一応ジョチの計らいで、本当に小さな小さな飛行機だったけれど、ファーストクラスというものはついていて、それに座らせてもらうことはできた。そうなると、乗りっぱなしで疲れる可能性は低いが、それでも長時間座っていることを強いられるのは、結構辛いものである。
杉三が、機内食を一人でがつがつと食べている間、水穂は座席に座ったまま、うとうとしているしかできなかった。
そうこうしているうちに、飛行機は地面に着陸した。その場所はもう、日本ではなくて、フランスのパリだった。
水穂は杉三にたたき起こされて、目を覚ました。客室乗務員に連れられて飛行機を降りると、空港で待っていた人たちは、皆成田の人たちよりも背が高くて、髪は金髪で、青い瞳を持っていることに気がつく。ついにきてしまったか、という気持ちがないわけでもなかった。
杉三がしり込みしないで空港を動けるのが羨ましかった。確かに記憶していた通り、大幅な変更があるわけでもないが、それでも、日本の空港とは雰囲気が違うなあというのは見て取れる。
「いいところに来させてもらったなあ。ほらあ、成田とはえらい違いだぜ。成田には空港の前にあんなに広い公園もないし、噴水もないよ。いいねえ。こうしてのんびりできる場所が用意されているんだからよ。日本のような、せわしない雰囲気が何もない。」
確かに、成田に比べると、ところどころに休む場所が設けられていて、お年寄りや、障碍のある人たちが、適宜、利用していた。
「でもさ、日本に比べると、どっかのんびりしていて、僕たちみたいな人には確かに過ごしやすいのかもしれないね。」
水穂も杉三の発言に同調して、そういった。二人の発言を聞き取って避難する人は誰もいなかった。それはそうなんだけど、どうも何か違和感があった。
「えーと、どこへ行けばいいのかな。確か、正面玄関で待っていろと言っていたよなあ。」
杉三が周りを見渡すが、周りはアルファベットばかりで、漢字は何もないのだった。もっとも、文字の読めない杉三には、そんなこと、どこ吹く風であったけど。
「あ、ごめん。こっちだよ。あの看板にそう書いてあるでしょ。」
フランス語を解読できた水穂は、看板の案内表記に従って、杉三を連れて歩いて行った。
「杉ちゃーん!」
不意に正面から声が聞こえてきた。よく見ると、マークと彼の妹である女性が二人で待っていた。姿を確認すると、二人は、あっという間に駆け寄ってきた。
「あれ?正面玄関で待っていろと言っていたはずでは?」
「いや、僕が時間を間違えて、一時間早く来てしまったんです。暫く近くのカフェテリアで待ってましたけどね、だんだんお昼近くなって、お客さんが沢山来ちゃいまして、あんまり長居をするのもよくないと思ったので、じゃあ、探しに行くかとなって、こっちまで来ちゃいました。」
発音こそへたくそだが、マークは頑張って日本語をしゃべってくれているのだった。無理してしゃべらなくてもよかったが、マークさんの好意はつぶせないのでそのままにしていた。
「あ、どうもお疲れ様です。ずいぶん長旅だったでしょ。飛行機と言ってもやっぱりこっちまではまだまだ時間がかかりますよ。」
「まあな。確かに、機内食はまずかった。早く手料理が食べたいな。といっても、インスタント食品はダメだよ。あんなまずいものは聞いたことないからな。お茶を飲むにしても、ティーバックはだめだぞ。」
マークの歓迎のあいさつに、杉三がいつもの杉三らしく、でかい声でそう応答していた。その間に、彼の年の離れた妹という女性が、水穂をにこりと見つめた。
「初めまして。トラーです。宜しくお願いします。」
彼女も、発音は正確ではないが、頑張って日本語をしゃべろうという気になっているらしい。
「日本語をどこで覚えたんですか?」
水穂が思わず聞くと、
「はい、お兄ちゃんから特訓してもらいました。もう、覚えるのも一苦労でしたけど、一生懸命覚えました。」
と、にこにこしていった。若い女性らしく、恥ずかしがってはにかんでいる様が見て取れる。瞳こそ青色だが、髪は黒く染めなおしているし、もとは巻き毛だったようだが、直毛に直してしまっているらしい。その黒髪は腰まで伸ばしており、ツインテールに髪を縛っていた。よく、海外では高校生でも化粧をしてしまうことが多いようだが、彼女は頬紅も口紅も何もつけていないことが見て取れた。そうなると、ヨーロッパの女性としては少々変わり者と解釈することができる。
「どうもどうも、僕は影山杉三だ。こっちは、親友の磯野水穂さんね。僕のことは、本名ではなく、杉ちゃんと呼んでね。」
杉三が、そういっていつもする自己紹介をした。日本では、やくざの親分みたいなしゃべり方をされて怖いなと言われる事が多いが、ここでは誰も怖がる人はいなかった。
「それにしても、かわいいやつだねえ。どっか色っぽいところもあるなあ。なんか、昔の映画女優として名高かった、ヴィヴィアン・リーにどこか似ている気がするよ。」
確かにその顔は、そういう雰囲気を出していた。化粧をしなくても、そういう雰囲気があるというわけなので、かなりの美人ということだろう。
ところが、彼女は、そういわれるとがっくりと頭を下げてしまう。
「杉ちゃん。それは言わないでやってくれないかな。いくら気にするなと言っても聞かないんだ。とにかく、そういわれるのを避けたくて、髪も染め直したり、化粧もしないようにしているんだけど、まだ言われるんだって、時々泣いて帰ってきたことも少なくないので。」
「へえ、いじめでもあったんか?」
杉三が聞くと、
「うん。なんだか、そうなってしまったらしい。もうかなり昔に、学校も除籍になったよ。無理をさせると、かわいそうだとおもったので、うちにいろと言ったのさ。そのまま、家で生活するようになって、もう何年たつんだろ。」
と、マークは、本当に困っているのがわかるような口ぶりで、そう話した。
「なるほどねえ。あんまりかわいらしすぎると、ねたまれてそうなっちゃうのねえ。あーあ、美人って、文献では得するように書いてあるけど、現実はそうでもないねえ。」
杉三はそういったが、多分こういう答えを出してくれるのは、よほどのことがない限り、いないと思われる。特に女の子は、ねたんだりひがんだりする人が多い。
「容姿の事で狙われるのは、日本でもフランスでも同じなのね。」
だから、そうさせないように、髪も黒くして、化粧もしないようにしているんだろう。綺麗になりたい人は良くいるが、ぶすになりたいと訴える人はいないのではないだろうか。
「じゃあ、うちへ行きましょうか。ちょっとタクシーを呼んできますから、皆さんは、正面玄関で待っててくれる?」
マークが、スマートフォンを出して、タクシー会社に電話をかけ始めた。トラーはその間に、二人を正面玄関に連れて行った。正面玄関では、迎えに来てくれる家族を待っている老婦人や、亭主の帰りをまつ妻、親の帰りを待つ、母又は父の姿が見て取れた。
「ごめんなさい。お兄ちゃんも私も車の免許は持ってないのよ。」
トラーが、申し訳なさそうに水穂に言ったが、
「いいえ結構ですよ。僕もこちらでは、日本ほど車を買う人はあまりいないと聞いてますから。」
と、笑って答えてやった。
「昔は、日本でも車は一家に一台でしたけど、今は個人に一台ですからね。なんか持っている台数が、多すぎですよね。ヨーロッパでは、そうでもないんでしょう。」
「ええ、環境保護とかそういう目的で、車の使用はあまり勧められていないんです。それよりも、電車とかタクシーのほうが、推奨されるみたいで。運賃急に値下げしたりとか、積極的に行われているみたいなんです。」
なるほど、ちゃんと車を使わせないようにするために、そうやって憐憫を垂れているんですか。対策はしっかりできているのが、ヨーロッパならではだった。
「それに、そういうものがちゃんとあるってことは、わざわざ運転免許を取る必要もないっていうことになるね。そうなったら一番いいよね。」
杉三もそう同意した。
「みんなのんびりしてるよな。こっちの人たち。なんか時間の流れが遅いような気がするよ。日本は、みんな毎日毎日仕事仕事ばっかりでさあ。終わったら、もうかったりいの連発で、べちゃべちゃしゃべって楽しくやろう、なんて人は誰もおらんよ。逆にさ、面白くしようなんて言えば大迷惑だといって、煙たがれるよ。そのせいで、子供や若い人が、居場所をなくして、次々怒りをぶっけるのよ。そうじゃなくて、もうちょっと、のんびりしていれば、そうはならなんじゃないかなっていう、若い奴らが一杯さ。やーれやれ。もう、どうしょうもない悪循環だぜ。」
杉三は、そうでかい声でしゃべったが、
「あ、すまん。こんな日本の話してもわからないか。」
と、頭を掻いた。
「いいえ、面白かったわ。あたしが、想像していたのとだいぶ違うのね。日本ってもっと、自然豊かで綺麗な場所だと思ってた。」
トラーはちょっとがっかりしたように言った。
「ずいぶん素直だねえ。自然豊かなんて、デマだよ、デマ。そんなものに騙されちゃいかん。きっと君が、こっちへ来たら、あまりにも気ぜわしくて、付いていけなくなるんじゃないかな。」
「そうなの?でも、ここみたいに、何でもきちんとしていないと、気が済まないひとたちばっかりじゃないって聞いたけど?ほら、ここでは、第二次世界大戦の時にもそうだったでしょ。徹底的にやってしまわないと、気が済まない人が多いの。だから、曖昧なままで放置して置ける日本はすごいってあたし思ってたわ。」
「ばっかだねえ。放置どころか、もうちょっと、手を出してやらんとかわいそうなひとばっかりだ。もう、日本人は冷たすぎる。冷たすぎて話にならん。」
「まあ。杉ちゃんたら。嫌なことばっかり話して。お兄ちゃんが、日本人は一番初めに悪いことを言うから、非常に困るってよく言ってたけど、ほんとね。」
「ムキになってもかわいいな。」
杉三がそうからかうが、
「だから、その言葉はやめて!」
と、彼女は本気になって怒った。
「ああ、すまんすまん。僕みたいなのは口が悪いんだ。口が悪いのは、しょうがないと思ってくれ。じゃあ、かわいくないと思わせるように、あだ名でもつけてやるよ。トラーというわけだから、おとらちゃんってのはどう?おとらちゃん。」
杉三がまた頭をかじりながらそういうと、
「ほんとに、変な人ね。でも、かえってそのほうがいいわ。そのほうがあたしはいい。だって、今まで本当によくいじめられて、辛かったのよ。変なところで比べっこするものなのよね。高校って。」
トラーは、にこやかにそういうのだった。なるほど、有名人並みに綺麗な人は、そういう変ないじめをされてしまうようになるのか。そうなると、ぶすとして扱ってもらったほうが、かえっていいんだなとわかる。
「なんか、あの人もそうだったのかしらね。あたしが見ても綺麗な人ってしっかりわかるし。まあ、男の人は、そういうことはあまり気にしないのかな。」
そういって、正面玄関近くのベンチの上で、横になってうとうとしている水穂をトラーはじっと見た。
「あーごめんごめん。遅くなって。もう、開いているタクシー会社がどこにもなくてさあ、10軒目にかけた会社でやっとこっちまで来てくれることになった。あんまりこの辺り、大規模な会社がないから、すぐにとられちゃうんですよね。」
正面玄関へマークが走ってきた。それに気が付いて、水穂も目を覚まして、急いで立ち上がる。
「すみません。お願いします。」
そのまま杉三たちのほうへ歩くが、もうかったるくて、どうしようもないという顔をしていた。
「うち帰ったら、客用寝室用意してあるから、そこでよく休んでください。たぶん長旅で疲れていると思いますので。」
マークが、親切にそういってくれるが、これから自分はどうなるのかとも思ってしまうのだった。
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