本篇15、杉、パリへ行く
増田朋美
第一章
杉、パリへ行く
第一章
いつの間にか富士山は真っ白になり、あちらこちらで寒いねという言葉が飛び交う季節がやってきた。商店街やショッピングモールなどでは、ひっきりなしにクリスマスソングが鳴り響き、店員たちはクリスマスツリーの飾りつけに、忙しくなる季節になった。
恋人たちは、クリスマスがやってくると言って、楽しそうにしているさなか、製鉄所ではとても深刻な問題が浮上していた。
「ほら、もういいなんていわないで、頑張って食べようという気にはならないんですか!」
ブッチャーが水穂に言い聞かせて、一生懸命食事をさせようとしていたが、返事の代わりに返ってくるものは咳であった。これはいつものことだけど、毎日毎日これが繰り返されると、しまいにはイライラしてたまらなくなってしまうのである。
「晩御飯もたくあん一切れ、朝ごはんも昼ごはんもたくあん一切れしか食べないで、あとはお茶ばっかりですもんね。そんなわけですもの、よくなるはずもないですよ!」
丁度そこへお皿を取りにやってきた恵子さんが、ブッチャーの言葉を聞きつけて、乱暴にふすまを開けてはいってきた。
「今日もまた、たくあん一切れで満足?」
「は、はい。すみません!」
ブッチャーは小さくなっていった。
「ブッチャーが謝る必要はないわよ。謝るのは水穂ちゃんでしょ。こんなにさ、あたしたちが一生懸命食べさせているのに、咳で返事するなんて、無神経にもほどがあるわよ!」
恵子さんもついに堪忍袋の緒が切れはじめてきたようだ。今日は大分感情的になっている。
「恵子さん、それはちょっと言いすぎなのではありませんかね。食べないのは確かですが、悪気があってそうしているわけではないですから。無神経といういい方はないんじゃありませんか?」
ブッチャーは反論したが、実は内心恵子さんと同じことを感じていた。
「ダメ!優しすぎるわ。もう、ひっぱたいてもいいから、無理矢理食べさせるくらいの気持ちでやらなくちゃ。」
一度、ノイローゼの為に実家に帰っていたことがある恵子さんなので、こういう発言も出てしまうのかもしれなかった。そのままだと、大声で悪口をいう可能性もあるので、
「それじゃあだめですよ。ひっぱたくなんてしたら、また拷問するのと同じことになります。それだけは、しないようにしようって、俺たちは誓いをたてたじゃありませんか。いくら何でも、それを破るわけにはいかないですよ。」
ブッチャーは急いでそれを阻止した。
「そんな誓いを立てたの、いつだったかしら。当の昔に、あたしはとっくに忘れちゃったような気がするわ。」
恵子さんは、そう発言するが、皮肉なことに水穂はこれまで以上にせき込んでしまうのであった。恵子さんもブッチャーも、これを見て大きなため息をつく。
丁度その時。
「ごめんください。」
ガラガラと、玄関の戸が開く音がした。
「あれ、だれだろ。急いで行ってきます。」
ブッチャーが急いで応答に行くと、
「曾我です。」
やってきたのは、曾我正輝、つまりジョチであった。
「やれやれ、様子を見に来ましたが、随分大変そうじゃないですか。そうなると、相当深刻なようですね。そんな有様ですから、本人だけではなく、看病しているお二方もかなりお疲れなのではないですか?」
やっと、自分の事をねぎらってくれた人物が現れたので、ブッチャーは男泣きに泣き出してしまうのだった。
「どうしたんですか?僕は単に形式的なことを言っただけにすぎないのですが、その一言でそんなに泣くんですか?」
そういわれても、ブッチャーは泣いてしまうのだった。冗談でもいいし、ギャグでもいいし、からかわれるのでもいいから、自分の事をねぎらってくれる人が欲しかったのだろう。
「もう、泣かないでくださいよ。それより、本人の顔を見させていただけないでしょうか?僕も、ちょっとお話したいことがありまして。」
ブッチャーは、自分ではなく、水穂に会いに来たんだとこの時点で分かったが、彼に嫉妬することはなく、同時に自分たちも何とかしてくれるのではないかと、期待を寄せてしまうのであった。すぐに入ってくれと言って、彼を部屋の中へ招き入れた。
「ほら、せめてもう一個。もう一個食べて頂戴よ。どうしても怖いんだったら、肉魚はまた後で、今は抜きでいいわ。でも、たくあん一切れで晩御飯を済ませるなんて、いくら何でもありえないわよ。本当に、少なすぎるというほど少なすぎる。」
恵子さんは、ブッチャーが応答している間、水穂の口元へもう一切れのたくあんを突き出したが、また顔をそらされてしまったのであった。
「だから、もういい加減にしてよ!そんなに食べ物を拒否しつづけて、何が面白いのよ!そういうのを、贅沢というのよ、贅沢と!」
「贅沢ならそれでいいですよ。早く終われるのなら、それで結構です。」
やっとそこだけ、「言葉による返答」ができた水穂であった。
「馬鹿!」
本当はぶっ叩いてやりたかったが、叩きたくても叩けなくて、恵子さんは水穂に怒鳴った。
本当に何も食べさせなかったら、自身も自殺を手助けしたということで、罪に問われることになってしまう。
と、同時に。
「こんにちは。暫くこっちに来ない間に、ここまで深刻になっていたのは、気が付きませんでした。これでは、ご自身にとってもいけませんね。それに、看病してくれたお二人にも、相当な負担だったのは、間違いありませんね。」
ブッチャーとジョチが四畳半にやってきた。恵子さんは、やっと神が憐憫を垂れてくれたのではないかと思った。
「あらましは大体わかりましたから、説明しなくても結構です。水穂さん、あなたもそこにいるお二人のおかげで食べさせてもらっているんですから、もうちょっとそこを考え直すようにしてください。」
やっと、自分が今まで一番言いたかったことを代弁していってくれる人が現れてくれて、恵子さんはうれしくて涙が出そうだったが、そこは我慢した。
「ほら、返事位しなさいよ。」
と、水穂にいったものの、返ってきたのは返答ではなく咳であり、来るタイミングが悪すぎるというか、もう時すでに遅すぎるような気がした。
「まあ確かに、だいぶ寒くなりましたからね。今年は暑い暑いとさんざん言って、夏がやたらに長いと思っていましたが、急にこうですから。変なことばかり起きてますよ。体が弱っても仕方ありませんね。」
原因は気候だけではないのだが、とりあえずジョチの解説は、そうまとめられた。
「仕方ありません。日本の気候は、どんどん悪くなる一方です。これからも、暑い時には暑く、冬は余計に寒さが厳しくなるでしょう。体の弱い人にとっては、そうではないところへ、一時避難しないといけなくなるかもしれませんね。幸い、ヨーロッパでは、比較的まだ安定している地域も少なからずあるようですし、現在はそこへ渡航するのもさほど難しくないと思いますので。」
ブッチャーは、ピンとくるものがあった。
「避難する?つまりどこにいくんですか?」
ブッチャーは思わず口を挟むと、
「実はですね。蘭さんのもとに、パリで刺青師をしている方から手紙が届いたそうなんですよ。」
と答えが返ってきた。パリとなればすぐに、以前、彫菊師匠と一緒にここへやってきた、マークさんだなとすぐにわかった。
「蘭さんがすでに何通かやり取りしていたようで、あまりにも水穂さんの看病で疲弊しているようでしたら、しばらくパリ市内の自宅で預かってもよいと、提案してくださったそうです。」
「パリだって?日本国内ならまだしも、ちょっと遠すぎるんじゃありませんかね?まあ確かに、日本に比べたら、もうちょっと気楽な人が多いかもしれないですけど。」
ジョチが言うと、ブッチャーはそう相槌を打った。マークさんの好意はうれしいが、ちょっとばかり、パリというのは遠すぎるような気がする。
「いいんじゃない?もしかしたらうまくいくかもしれないわよ。それに、フランスは日本ほど偏見の強いところじゃないし、比較的明るい人が多いみたいだしね。」
やけくそなのか本気なのかよくわからないけれど、恵子さんはあっけなく賛成してしまった。
「いいんじゃないの。すくなくとも、こっちに比べたらもっとのんびりしてて、穏やかなところであるのは間違いないわよ。それに、ヨーロッパの人ってのは、もっと情があるから、あたしたちみたいに、すぐに愚痴を漏らすことは少ないでしょ。」
恵子さんは、なんだかうれしそうに語り始めた。
「気候だって、少なくともこっちよりは安定しているでしょうし、コンクリートジャングルも少ないし、障碍のある人への偏見も少ないし、いいところじゃない。せっかく誘ってくれてるんだから、もう誘いに乗ってしまいなさいな。」
「恵子さん、そういうことは、水穂さんの前で言うべきではないですよ。水穂さんがパリに行ってしまえば、自分はご飯をたべさせなくてよくなるのは確かですよ。でも、その解放される喜びを、あんまり表現してはならないんじゃありませんかね。」
ブッチャーは恵子さんに注意したが、恵子さんはまだ続きを言い続けるのであった。
「それに、パリには公園もあるし、音楽会みたいなイベントもたくさんあるし、世界的に有名な美術館もあるし、癒しの場所ならたくさんあるじゃないの。そういうところで一月ばかりいさせてもらえば、ご飯だって、すぐに食べられるようになるんじゃないかしら。ぜひ、ゆっくりしてきて頂戴ね。言葉に関しては心配ないわね。多言語家として有名な水穂ちゃんだし、いろんな外国人の通訳だってやってきたんだしね。」
確かにそこは本当であった。水穂はヨーロッパの主要な言語であれば、大体流暢に話すことはできた。それは、ヨーロッパ人も認めている。確かに心配はない。
「だけどねえ、俺はどうしても納得できませんよ。確かにね、そっちへ行けば、滞在先では親切にしてくれるかもしれないですけど、その間、今度は俺たちのほうへ批判の目が行くんじゃありませんか?俺たちが、水穂さんの事を看病するのが嫌になって、フランスなんていう、福祉国家に追い出しちゃったんじゃないかって。」
ブッチャーは、「日本特有の問題」を言った。
「あーあ全く。ブッチャーも素直じゃないわねえ。そういう勤勉すぎることが、日本人の一番悪いところじゃないかしら。日本人は、助けようと思って手を出しても、素直に困っていると言わないから、結局自分たちがだめになっちゃうのに、気が付かないって、ヨーロッパの人が馬鹿にするけど、本当の事じゃないの!」
恵子さんは、今風の解釈でそう対処したが、
「だけどねえ、俺たちに課された役目を放棄してしまうのはどうかと、、、。」
ブッチャーは今一度自身の思いを述べた。
「馬鹿ねえ。そんなんだから、あんたは女にもてないのよ!早く結婚したいんだったら、たまには弱みを見せて、他人に助けてもらうことも大切だってことをしっかり学びなさい!誰にも頼らずに働いて働いてなんて、今の女の子は、だれもかっこいいなんて思ってくれないわよ!」
その思いは、恵子さんによってかき消されてしまったのである。
「そうですが、これはやっぱり、難しい問題ですよ。俺たちは確かに楽になるかもしれませんが、世間の目はナイフより怖いですよ。一生懸命看病していた人が、ある日突然楽をしだしたなんて、どう評価するでしょうか。もともと、日本では楽をしたいといういい方は、タブーみたいなところがあるじゃありませんか。どんなにつらくても、愚痴ひとつ言わないで、一生懸命やるというのが理想的になってますし。最近は、愚痴をいうことも多少認められていますけど、まだまだ、こいつは人間として未熟だとか、そういう批判のほうが多いでしょうが。もちろん金を払えばまた別ですけどね。ですから、外国へ逃がしてやったなんて言えば、これはもう大問題になるんじゃないでしょうか。本人がどうのこうのじゃなくて、看病している俺たちに批判の目が行きますよ、恵子さん。」
「まったく。ブッチャーも硬いわねえ。それじゃあ、あたしたちが休めるのは永久にないってことになるじゃないの。だったら、ごまかせばいいわ。音楽家として留学したとか。」
「いや、恵子さん。それはどうなんでしょうか。水穂さんの存在はすでにこの近所でも知られているわけですし、体のことだって、知らないはずはないと思います。だから、ブッチャーさんの言っていることも、間違いではないですよね。もちろん、日本特有の現象なんですけどね。ヨーロッパでは、基本的に、自分が得をしなければ、他人の批判はしませんから。きっと、手紙を出してくれた人は、本当に水穂さんのことが心配で、パリに来てくれと言ってくれたんでしょうし。悪気は全くないでしょう。まあ、今であれば、さほど不可能なことでもないと思いますよ。成田空港に行けば、飛行機はいくらでもありますしね。でも、日本では、その批判というものが、それを妨げるので、実現することは、有名人でもなければできないでしょうけど。」
ジョチが言った通り、日本とフランスの考えの違いなのだと誰でも思った。ヨーロッパでは何でも気軽にやってしまうことが、日本では他人に申し訳ないとか、恥ずかしいとかそういうことが邪魔して、悪事となってしまうことも多い。
「なーるほど。つまりヨーロッパでは、こういう他人を預かるとか、そういうことは、別に恥ずかしいことではないということで、平気でやっているということですか。あーあ、気楽でいいなあ。」
ブッチャーがみんなの気持ちを代弁するように言った。全員大きなため息をついた、というか、つこうとしたが、水穂だけはせき込んで返答してしまったのである。
「だ、大丈夫ですか。ほら、もう横になったほうがいいのかなあ。でも、横になる前に、何か一つだけでいいですから食べてもらえないでしょうかねえ。」
ブッチャーが、すぐに水穂の背をさすったり叩いたりしてくれるが、本当にこうしてくれるのは、心から彼を何とかしようと思う気持ちの人でないとできないだろうなと、だれでもわかった。
「あーあ、看病って、酷いものね。まるであたしたちは、底なしの沼に落っこちたようで、もう、救い出してもらえないのかしら。」
恵子さんの気持ちもわからないわけではなかった。
「じゃあ、本人に聞いてみましょうか。事実、恵子さんもブッチャーさんも、看病疲れがたまりすぎるほど溜まっているのは、一目瞭然なんですから。本人も何とかしなければなりませんし、二人も休ませてあげる必要がありますよ。このままでは、三人とも共倒れという悲劇に見舞われかねませんから。」
「もう結構です。僕みたいな人間は、どこへ行っても馬鹿にされるのが落ちです。幸い、フランスは、演奏家時代に何回か訪問していますから、ルーブル美術館も、オペラ座も大体記憶しています。」
水穂が、せき込みながら弱弱しくそういうと、
「何だ、それじゃあ、大体覚えているの?なら話は早いわ。もうこうなったら、あたしたちの為もあるから、そのマークさんの親切に甘えて、パリへ行って!」
恵子さんは勝ち誇ったように言った。
「いいんですか。なんだか俺、追い出してしまったような罪悪感がとれないんですが、、、。」
「もう、ブッチャーも優柔不断ね。そんな罪悪感はとうの昔に捨ててもらいたいんだけどなあ。あんたもちゃんと考えなさいよ。このままご飯を食べさせ続けることを、ずーっと続けていくなんて、本当に気が遠くなるう。」
「わかりました。それでは、多少ご近所からの批判は出ると思いますが、そこはうまくごまかして切り抜けてくださいね。宜しくお願いしますよ。」
と、ジョチが言った。
「ああいいわ。そのあたりは、あたしがシナリオを考えておきます!」
恵子さんは、「解放後のプラン」を考え始めたらしい。もう鼻歌を歌って何か考えている。
「まあそうですけど、水穂さんを単身で行かせるというのは、難しいと思います。いくらパリに着いたらマークさんたちが迎えてくれるとはいえ、空港について力尽きて倒れるということもあるんじゃないでしょうか。俺は、そこが心配です。なので、俺も一緒に行きますよ。」
「あら、ブッチャー。来月に着物のイベントに参加するんじゃなかったの?この間、あたしに話していたじゃない。先方からお願いが来てるって。」
ブッチャーは、そう発言したが、恵子さんに強引に止められてしまった。
「そんなの、とりやめにしますよ。そのほうが一大事でしょ。」
「いえ、構いません。ヨーロッパの町は、日本と違ってすぐに店がつぶれたりすることは少ないので、多分変わってないと思います。」
「だけどねえ、、、。」
「まあ確かに、フランスだけではなく、ヨーロッパでは、政府の許可なく建物を壊してはいけないとかいろいろ厳しく取り締まりがありますので、基本的に街並みが変更になることは、あまりありません。なので、頻繁に来訪していなくてもあまり迷う心配はないです。それは確かにそうですが、僕も単身で渡らせるのはどうかと思います。例えば、本人の様子をこちらへ連絡してくれる人物も必ず必要になりますよ。はじめはよかったと思っていても、遠い異国にやってしまえば、必ず心配になりますからね。今はそうでなくてもですよ。」
「でも、ジョチさんが言う通りなら、少なくとも一月は、こっちを留守にするわけだから、その間に何も用事がない人物でなければいけないということになりますね。果たしてそういう暇人は、いるかしらねえ。あたしじゃあ、毎日ご飯の支度があるし、ブッチャーは着物のイベントに出るわけでしょう?」
恵子さんが現実的な意見を言うと、
「あ、ちょうどいいのがいた!」
ブッチャーはでかい声で言った。
同じころ、カレーを作るために、野菜を切っていた杉三は、思わず持っていた包丁を落としそうになるほど、大きなくしゃみをした。
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