第149話 左手のリハビリには最適らしい。

 今日は新妻にいづま先生の車で、1週間ぶりに病院に連れて来てもらった。

 寮の運動会から2週間、この病院へ来るのは、これで3回目だ。


 今回も先にレントゲンを撮ってもらい、その画像を見ながら説明を受けている。


「左手の方はヒビが完全に消えています。今まで動かせなかった分だけ、筋肉が落ちているので、力が入らないかもしれないけど、少しずつ慣らしていって下さい」


「はい。ありがとうございます」


 左手の骨については、完治したらしい。手のひらには傷跡もだいぶ残っていて、指にもかなり違和感があるが、これで左手は自由になった。


「右手の方は、念のために、もうしばらく固定しておきましょう」


 右腕と右手には、まだヒビがいくつか残っているらしく、巻かれていた包帯を新しい包帯に交換してもらい、再度ぐるぐる巻きに固定された。


「順調に回復しているから、今の調子で負担を掛けないようにして下さい。それでは、また来週。お大事に」


「ありがとうございました」


 外科の先生にお礼を言って、診察室を出る。


 左手が自由になったことにより、見た目の痛々しさは緩和された気がする。

 それに、これならおはしは無理でもスプーンくらいなら自分で持てそうだ。


「ふふふ、左手は動かせるようになったのですね。おめでとうございます」


 待合室では、今日も病院まで同行してくれている天ノ川さんが、僕以上に喜んでくれた。天ノ川さんには2週間に渡り、生活全般において介助してもらっていて、感謝の気持ちで一杯だ。


「ありがとうございます。お陰様で、これで、やれることが少し増えそうです」

「あまり無理されなくても結構ですよ。寮には私達がいるのですから」

「本当に助かっています。これからもよろしくお願いします」


 僕は天ノ川さんに深く頭を下げた。


「うちの子達も心配しているから、寮に戻ったら育児室で顔を見せてやってね」

「分かりました」


 両手が使えなかったという理由の他に、幼児には包帯を巻いた姿を見せない方がいいような気がしていたので、最近は育児室に立ち入らないようにしていた。


 僕の怪我けがについて、1歳の2人がどの程度理解しているのかは分からないが、運動会で僕が転ぶところを見ていた2人は、僕の代わりに泣いてくれていたそうだ。




 寮に戻った僕は、さっそく新妻先生と一緒に育児室へ顔を出すことにした。

 天ノ川さんは「生理中の妹が心配」との事で、先に101号室へ戻っている。


「ただいま」

「おじゃまします」


 育児室に入ると、すぐに双子が駆け寄ってきた。


「ままー!」

「だびでー!」


 マサルちゃんが新妻先生に飛びつくと、ミヤビちゃんも同じように僕に飛びついてきた。夏に山で会った2頭の猿のように、2人とも、とても元気である。


「ミヤビちゃん、元気そうだね」


 左手で頭をでてあげると、嬉しそうに僕の左脚にしがみついてくる。

 背の高さは、ちょうど僕の脚の長さと同じくらいだろうか。


 双子の世話をしながら一緒に留守番をしていたのは、109号室の1年生2人。小笠原おがさわら我寿がじゅさんと、畑中はたなか果菜はてなさんだ。


「新妻先生、ダビデ先輩、おかえりなさい」


 体操着姿の小笠原さんは、他のお嬢様方と比べて色黒で体が引き締まっており、男の子っぽい感じだ。うわさによると、趣味は筋トレらしい。


「ありがとう。2人とも、ご苦労様でした」


 新妻先生は、1年生の2人にお礼を言うと、マサルちゃんを連れて部屋を出てしまった。おそらく、先にマサルちゃんを自室に連れて帰ったのだろう。


「お兄さん、左手は、もう治ったのですね」


 ハテナさんは、春に見たのと同じ部屋着姿で、相変わらずお尻が魅力的である。


「お陰様で、左手は自由になりました。まだ右手はそのままですけど」


 ミヤビちゃんが脚から離れてくれたので、僕は、その場に腰を下ろす。

 すると、今度は背中にしがみついてきた。


 週に1回くらいオムツを取り替えてあげていただけで、ここまで懐かれるとは思わなかったが、悪い気は全くしない。


「早く右手も治して下さい。ダビデ先輩がいないと、柔道が面白くないですから」


 小笠原さんが、僕の前に腰を下ろす。やや小柄だが、柔道の時間では他の1年生達に負けずに、いつも頑張っている印象だ。


「そうですね。僕も見ているだけじゃ、つまらないですから」


 外科の先生からは、全治1か月か2か月と言われているので、復帰したくても、もう少し時間が掛かりそうだ。


「お兄さんは、もうすぐお誕生日だそうですね。プレゼントは何がいいですか?」


 ハテナさんが小笠原さんの隣に腰を下ろす。

 スカートが短いので、目の前で体育座りをされると、かなり気になる。


「プレゼントだなんて、気持ちだけで十分ですよ」


 誕生日プレゼントはありがたいのだが、あまりいろんな人から頂いてしまうと、お返しするだけでも大変だ。


「そんなわけにはいきません。ダビデ先輩は、私の『モトアニ』ですから」

「元兄ですか? そんな言葉、初めて聞きました」


 ハテナさんのセンスは、やはり他の人とは少しズレている気がする。


「ハテナは、ダビデ先輩の事、ずっと『お兄さん』って呼んでるよね。今はネネコのカレシのはずなのに」


「ネネコちゃんは、まだ告白してないし、されてもいないって言ってたよ。きっとガジュがそう思い込んでるだけだよ」


「ええっ⁉ ダビデ先輩、そのあたり、どうなんですか?」


 ハテナさんに教わった「カレシとカノジョの定義」とは「告白し、相手がそれに応じる事」である。


 この定義に関しては、一般的な考え方なのかどうかは分からないが、その定義によると、ネネコさんと僕はまだそういう関係ではない。


「ハテナさんの言う通りです。まだ告白していませんし、されてもいません」

「でも、ネネコとは、もう付き合っているんですよね?」


「そのあたりは、小笠原さんの判断にお任せします。僕自身は、どう思われても構いませんから」


 小笠原さんにも「カレシの定義」というものが、きっとあるのだろう。

 それは「おいしい食べ物の定義」と同じように、人それぞれだ。


 その後、すぐに新妻先生がミヤビちゃんを迎えに来たので、雑談は終了。育児室に育児対象が不在となったため、これで解散となった。




 101号室に戻ると、もう夕食の時間になっていたので、4人で食堂へ。


 お箸の代わりにスプーンを借り、左手を使って定食を食べ始めたのだが、ほとんど食べていないうちにネネコさんが食べ終わってしまい、結局ネネコさんに食べさせてもらう事になった。右手が治るまでは仕方がないのかもしれない。


 そして、いよいよ入浴の時間だ。


 今まで通りに天ノ川さんにビニール袋で右腕を覆ってもらい、今日からは左手が自由な状態で風呂に入れる。服も、なんとか1人で脱ぐことができた。


 少し、世界が広がった気分だ。


「お兄ちゃん、入るね」 


 僕が左手のみで髪を洗っていると、体操着に着替えたポロリちゃんが浴室に入ってきた。この状況にはもう慣れてしまったので、恥ずかしいという感情はない。


「様子を見に来てくれたんだ。でも、今日からは1人でも平気だよ」 

「お兄ちゃんなら、そう言うと思ったけど、今日はネコちゃんに頼まれたの」

「言われてみれば、昨日もポロリちゃんだったね」


 僕の体を洗う係は、2人で交代制にしているようで、本来ならば、今日はネネコさんが来るはずの日だ。


「うん。ネコちゃんは、またお腹が痛くなっちゃったんだって」


「そう言えば、一昨日お赤飯を食べたばかりだったね。生理って、どのくらい続くものなの?」


「人によって違うみたいだけど、ポロリは4日か5日くらいかなぁ?」

「そんなに? ポロリちゃんが生理で休んでるところ、見た事無い気がするけど」

「ポロリは、あんまり重くないから平気みたい」

「そうなんだ。それでもお腹は痛くなるんでしょ? 大変だよね」


 重い人はインフルエンザよりも苦しいそうなので、軽くても苦しそうである。


「うん。それでね、ネコちゃんの代わりに、今日はポロリが体を洗ってあげるの」

「そうなんだ、ありがとう。せっかくだから、お言葉に甘える事にするよ」


 僕のかわいい妹がやると決めたときは、かなり頑固なので、ここは素直に従っておいたほうがいいだろう。


「えへへ、それでは、始めます」


 ポロリちゃんは、いつものように僕の髪を丁寧に洗ってくれた後、肩や背中も流してくれた。


「どうもありがとう。前は自分で洗えるから」

「そんなのだめだよぉ。お兄ちゃんは右利きだから、ちゃんと洗えないもん」

「それはそうだけどさ、一応、1人で出来るようにリハビリもしないと」

「ちゃんと洗わないと、デリケートゾーンが、かゆくなっちゃうの」

「ポロリちゃんは、難しい言葉を知ってるね。たしかに、かゆくなると困るか」

「だからね、今日もポロリが洗ってあげるの」

「それじゃ、お手柔らかに」


 結局、体の前も洗ってもらう事になってしまった。

 ノーと言えない、ダメな兄である。


「えへへ、今日も『かめさん』が元気なの」

「それは、頭を撫でられると反応してしまう生き物なので、許してあげてね」


 僕はこんな状態だし、ポロリちゃんのれた体操着は、下着が透けて見える。

 これは他の部屋のお嬢様方には、とてもお見せできない光景だ。


「ネコちゃんからね、苦しそうだったら、出してあげるようにって言われたの」

「いや、カノジョにならともかく、妹に出してもらうわけにはいかないから」

「でもね、こうやって、かめさんの頭をずっとナデナデすると出てくるの」

「やめて! それは本当にマズいから」


 僕は左手でポロリちゃんの右手をつかみ、強制的にストップさせた。


「ごめんね。でも、ポロリはお兄ちゃんの為に、何かしてあげたいの」


 ポロリちゃんに僕をからかうつもりなどは全くなく、僕の為に何かをしたかっただけのようだ。


「それじゃ、お風呂から上がったら、僕の左手をマッサージしてくれない?」

「うんっ!」




 風呂から上がると、脱衣所で待機していたポロリちゃんは、僕の左手を両手で優しく包み、丁寧にマッサージしてくれた。


「ありがとう。これで左手も、だいぶ動かせるようになった気がするよ」


 脱衣所から部屋に戻ると、2人が待ってましたとばかりに話しかけて来た。


「ふふふ、ずいぶんと楽しそうでしたね。次は私達姉妹も仲間に入れて下さいね」

「ミチノリ先輩って、やっぱりボクよりロリのほうが好きなんじゃないの?」


「そんな事ないよぉ。お兄ちゃんと一番仲良しなのは、ネコちゃんだもん!」


 やっぱりダメだ。

 もう我慢の限界らしい。


「すみません、僕、今日はもう休みますから、絶対に中をのぞかないで下さい」


 僕は3人が風呂に入る前に、自分のベッドに潜り込み、2段ベッドの下段だけについているカーテンを初めて閉めた。


 ――このままでは、ますますダメな人間になってしまう。


 ぎこちなく左手を上下に動かしながら、そんなことを考えていたが、やがて2週間分の煩悩が一気に放出され、僕は落ち着きを取り戻した。 


 なるほど、この行為は、左手のリハビリには最適らしい。

 今日からまた、ぐっすりと眠れそうだ。

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