第26話 バスは大きく揺れて危険らしい。

「お兄ちゃん、バスが来たよ!」


 待つこと1時間弱、ネネコさんもそろそろ写真を撮るのに飽きてきたころ、ようやくスクールバスが駅から戻ってきた。2本目のバスは10時30分発だ。


 この学園のスクールバスは小型のバスで、座席数は25。観光バスのように通路を挟んで両側に2人ずつ並んで座るタイプだ。全寮制であるため、平日は運行されておらず、日曜日や祝日などの指定された日のみ学園と駅を1日5往復する。


「ぷしゅ~」


 空気の抜けるような音とともにドアが開き、天ノ川さんを先頭に、ネネコさん、ポロリちゃん、僕という順にバスに乗り込む。


 僕の後ろには、他の部屋の4人組が並んでいる。


 先頭の天ノ川さんが何やら運転手さんと話をしているようだ。少しの間、列の流れが止まったが、すぐに動き出した。


「よろしくお願いしま~す」というネネコさんの挨拶あいさつに続いて、ポロリちゃんは楽しそうに「えへへっ」と笑いながら運転手さんに手を振る。


 運転手さんは、3日前にバスに乗った時と同じ人だった。

 降りるときに「お互い頑張ろう」と声を掛けてくれた人だ。

 同性である僕の目にもイケメンに映る、さわやかな感じのお兄さんだ。


「おお、元気でやっているか?」


 運転手さんは、また僕に声を掛けてくれた。

 まだ後ろに並んでいる人がいるので、僕は手短に答えた。


「はい、お陰様で。今日もよろしくお願いします」


 一礼して先へ進む。

 座席を決めたポロリちゃんが僕に手を振って合図してくれている。

 車内を進むと、席に着く前に背後から話し声が聞こえた。


「えーっ! なんで先生が運転手なんですか?」

「死にたくなかったら、シートベルトは、ちゃんと締めとけ」


 運転手さんが怖い事を言っているようだが、どうやらただの運転手さんではなく先生らしい。先生がバスを運転していたら、たしかに驚くだろう。


 天ノ川さんも同じような会話をしていたのかもしれない。僕はただ男子生徒が珍しくて声を掛けてくれただけだと思っていたので、驚きはしなかったが。


「僕はここでいいのかな」

「うんっ」


 ポロリちゃんの隣の席に腰を下ろす。


 席はバスの前方の右側。ポロリちゃんが窓側で僕が通路側。

 僕の前が天ノ川さんで、その隣がネネコさんだ。

 バスに弱そうな1年生を窓際にしたのは天ノ川さんの配慮だろう。


「ごきげんよう」


 後から乗った4人は、僕たち4人に軽く頭を下げて、そのまま後ろの方に進んでいった。僕も軽く頭を下げたが、知った顔は無かったので、僕らより上の階に住んでいる先輩方なのだろう。ポロリちゃんも僕と同じ反応だった。


「ぷしゅ~」


 空気の抜けるような音とともにドアが閉まり、すぐにバスが動き出す。


「わぁ!」

「おっと」


 ポロリちゃんが僕のほうに倒れて来たので両手で体を受け止める。

 小さなターミナルを1周する為、いきなり右にカーブしたのだ。


「ありがとう。ごめんね、お兄ちゃん」

「シートベルトはちゃんと締めないと危ないよ」

「あれ? これじゃだめなのかなぁ?」


 ポロリちゃんを見ると、シートベルトは装着済みだが、ベルトがゆるかった。

 ベルトが長すぎるのではなく、ポロリちゃんの体の厚みが足りていないのだ。


「だいぶゆるいみたいだから調節してあげるね」


 僕は手を伸ばしてポロリちゃんのシートベルトをきつめに調整した。


「これでどうかな? 痛くない?」

「うんっ、痛くないよ。ありがとう、お兄ちゃん」


 僕はネネコさんも心配になったが、ネネコさんの隣には天ノ川さんがついているから、きっと問題ないだろう。


 バスの中は少し暑かったので、僕はシートベルトを一度外し、上着を脱いで頭上の棚に置いて座り直してから、再度シートベルトを締めた。


「えへへっ、なんだか遠足みたい」


 ポロリちゃんが嬉しそうに笑っている。バスはかなり揺れるが、今のところは元気そうだ。


「たしかに遠足に行くバスみたいだね。でも、このバスってポロリちゃんの家のほうに向かっているんじゃないの?」


「うんっ、でも、みんな一緒だから楽しいよ」

「そうだね。駅の近くって、どんなお店があるの?」


「えーとね、お肉屋さん、お魚屋さん、お米屋さん、八百屋さん、お薬屋さん。少し歩けば、お洋服屋さんもあるの」


 ポロリちゃんの話し方は、とても優しい。

 お店は八百屋さんを除いて全て「お○○屋さん」だ。


「八百屋さんには、『お』はつけてあげないの?」

「え~と、お肉、お魚、お米、お野菜だから……お野菜屋さん?」


「ちょっと変かな。でも、お八百屋さんよりはいいかも」

「八百屋さんの事、オヤオヤさんなんて、誰もいわないよぉ」


「僕も言わないよ。そういえば、お野菜って言うけど、お果物くだものって言わないよね」

「あれ? ホントだー。なんでだろう?」


「お大根っていうけど、お人参って言わないよね」

「おダイコンはヘンじゃないけど、おニンジンはヘンだよぉ」


 こうやって、一緒に笑っていればバス酔いも少しは和らぐだろうか。やや前傾姿勢になるせいか、バスの揺れは上りよりも下りのほうがきつい気がする。


「ポロリちゃんは、なにか買うものあるの?」

「オヤオヤさんで?」

「いや、お八百屋さんじゃなくていいんだけど」


 これがもし床屋さんだったらオトコ屋さんか。八百屋さんでよかった。


「うーんとね……ポロリは特に無いかも。お兄ちゃんは?」

「僕は……男用のシャンプーかな。先輩の残りだとにおいが強いでしょ」


 ポロリちゃんに向けて首をかしげると、ポロリちゃんは僕の頭の匂いをぐ。


「ホントだー。お兄ちゃん、お花の匂いがする」

「でしょう。もっとサッパリした感じの方が僕は落ち着くから」

「なら、ポロリが、お薬屋さんに連れて行ってあげる」

「ありがとう。助かるよ」


 そう言ってポロリちゃんのほうを見ると、なんだかつらそうにしている。


 僕が匂いなんか嗅がせてしまったからかもしれない。

 男性用シャンプーと違って、女性用の甘い匂いだ。決して爽快な匂いでは無い。


 駅までまだかなりありそうだが、大丈夫だろうか。

 シートベルトは緩めてあげたほうがいいのだろうか。


「もうちょっとの辛抱だから、頑張って」


 ポロリちゃんは無言で頷いている。もうしゃべるのも辛いのかもしれない。


 僕は緊急事態に備えて、前のシートについている網袋の中からビニール袋を取り出した。こんなものが全席に用意されているという事は、きっと吐いてしまう子も多いのだろう。


「もう無理だったら、我慢しなくていいよ。ここに吐けば楽になるから」


 そう言って僕はビニール袋を構える。ポロリちゃんは涙目で袋を確認すると、無言で頷いた。


 僕はポロリちゃんが吐きやすいようにポロリちゃんの胸の前で袋を構える。


「うぇっ……」


 ポロリちゃんが耐え切れなくて嘔吐を始める。背中をさすってあげたりしたほうがいいのかもしれないが、今シートベルトを外すのは危険だし、両手で袋を持っているので無理だった。


「ごほっ……」


 そのとき、不運にも急カーブに差し掛かったらしい。ポロリちゃんの体が大きくこちら側に振られ、ポロリちゃんの吐いたものが袋を超えて僕の服に掛かった。


「ごほっ、ごほっ……」


 そんなことは気にせずに、袋をしっかりと押さえ直して、残りを受け止める。


「はぁ……はぁ……」


 どうやら無事に……とはいえないが、吐き終わったらしい。僕はすぐに袋の口を縛り、念のためにもう一袋用意する。


「ごめんね……ぐすん」

「謝らなくていいよ。ポロリちゃんは何も悪くないから」


 だいぶ落ち着いたようなので、僕はポケットからハンカチを取り出して、ポロリちゃんの口元をいてあげた。


 今までは普段ハンカチなんか持ち歩いていなかったが、ハンカチの所持が校則で義務付けられていたので、念のために売店で買ってポケットに入れていたのだ。


 校則というものは生徒を縛る為のものではなく、生徒を守るためにあるのか。

 僕は今、初めてそう思えた。


 バスの揺れもだいぶ収まったようだ。今は山道を抜けて平地を走っている。

 駅はもうすぐだ。




「ぷしゅ~」


 空気の抜けるような音とともにドアが開いた。駅に到着だ。

 僕はシートベルを外して立ち上がり、棚の上に置いた上着を取る。


「ポロリちゃん、大丈夫だいじ? 立てる?」


 どうやらシートベルトを外す手に力が入らないようで、外すのに苦戦している。 

 僕は再び席に座ってポロリちゃんのシートベルトを外してあげた。


「ありがとう、お兄ちゃん。もうだいじだよ」

「それは良かった」


 後ろの席の4人組を先に通してから立ち上がり、前の席の2人の後に続く。上着は左手に抱えたまま。右手にはビニール袋を持っている。


 運転手さんは僕の服を見て驚いた顔をした後、「その袋は俺が後で捨てておく。ありがとう」といって、袋を引き取ってくれた。


 そのあと、ポロリちゃんに向かって一言。


「よかったな。いいお兄さんで」


「うんっ!」


 ポロリちゃんは嬉しそうにそう答えていた。

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