第8章 紅に染まるローマ 紀元80年 4月

1 英雄か。それとも軽挙な野心家か。


 ガラガラと、あちらこちらから轟音が響く。

 まるで、地底の冥界からプルートの大軍が進軍してきて、街道を破壊しようと躍起につちを振るっているようだ。


 あまりの騒音に、隣のコレティアとの会話もままならない。


 ゲルマニアから首都ローマへ戻ってきた俺達は、フラミニア街道の渋滞に捕まっていた。


 日中の市内の荷車の通行は禁止されている為、市内の店への商品の搬入等は、全て夜間に行われる。

 夕刻、ローマの市外に物品を満載した荷車が準備され、日暮れと同時に、一斉に市内へ雪崩れ込むのだ。


 あと少しでローマ市内に入られるというのに、街道いっぱいひしめく荷車は、ちっとも進む様子がない。


 数時間前、フラミニア街道でローマに一番近い交換所ムタティオネスで馬を乗り替えた俺達は、既に夕闇が迫っていたにもかかわらず、少しでも早くローマへ到着するために、馬を走らせた。


 今日はもう、四月九日だ。太陽が昇り、四月十日になれば、大地母神キュベレーを祝うメガレンシア祭の最終日が行われる。


 アルペスを越え、ローマへと南下しながら、俺とコレティアは、旅人や商人がもたらすローマの噂に、神経を尖らせていた。


 キウィリスの計画では、ローマのカピトリヌスの丘に建つ最高神ユピテルの神殿への放火が、各地で反乱を起こす合図になっている。


 兵を挙げるなら、必ず、春になってからだ。


 俺達が、反乱者達がユピテル神殿に火を放つ前に奴等を捕えれば、俺達の勝ち。 だが、奴等の放火の方が早ければ、ローマは帝国中に広がる反乱の炎を鎮火しなければならない。


 今日までのところ、ローマ市内で大きな火事が起こったという噂は聞いていない。だからといって、安心はできない。


 隣で馬にまたがるコレティアは、苛立たしげな表情を浮かべている。そんな表情をしても、美貌は少しも損なわれないが。


 コレティアの横顔を眺めながら、俺はゲルマニアでノウィオマグスを脱出した後、コレティアから聞かされた言葉を思い出していた。


「ウェレダからキウィリスに宛てた手紙の中で、気になる名前を見つけたの。プリムスと書かれていたのだけれど。この人物は、十年前の内乱時に、キウィリスに反ローマを唆したと噂されていた、マルクス・アントニウス・プリムスじゃないかしら?」


 プリムスの名前は、俺も聞き覚えがあった。


 十年前の内乱の時、ウェスパシアヌス側についたものの、シリアから行軍するウェスパシアヌス本軍の到着を待たずに、ダヌビウス河防衛線の七個軍団を率いてローマに進軍し、ローマ市内で市街戦を行った挙句に、当時の皇帝であったウィテリウスを殺害した人物だ。


 内乱当時のプリムスは、まだ三十代半ばの若さで、パンノニア駐屯の軍団の軍団長でしかなかった。

 本来なら、軍団長の上に、司令官として属州総督が位置するのだが、部下の兵達から失望されていた総督は、我が身に危険が及ぶ事態を恐れて密かに逃げ出していた。


 司令官不在の軍団の実権を握った人物が、プリムスである。


 三十代半ばの若さで、軍団長にまで出世したのだから、有能だったのだろうが、プリムスは野心も大きい人物だった。


 ウェスパシアヌスの右腕、ムキアヌスがシリアから率いてくる本軍を待たずに、ダヌビウス河軍団のみでローマへ進軍した動機も、自らの手でウィテリウスを廃し、ウェスパシアヌスの皇帝位を確立するという虚栄心に囚われたからだ、と言われている。


 十年前、幾つも錯綜さくそうして流れた情報の一つに、プリムスが密かにキウィリスに使者を遣って、反ローマにつようにそそのかした、という噂があった。

 補助兵と協力し、蛮族からローマ帝国を守るのが任務のローマ軍団の軍団長が、補助部隊の隊長に反ローマの反乱を扇動するなど、噴飯ものの信じがたい話だ。


 とはいえ、あながち根も葉もない与太話というわけでもない。ウィテリウスは元々、レヌス河防衛線の軍団兵達から皇帝に推挙され、皇帝位に就いた人物である。

 つまり、レヌス河沿いの軍団基地はウィテリウスにとって支持基盤であり、キウィリスがレヌス河で反乱を起こし、軍団基地を壊滅させる事態は、そのままウィテリウスの戦力低下に繋がった。


 だが、いくらウィテリウスの力を削ぐ為とはいえ、もし噂が事実だったとすれば、プリムスの計略は、ローマ軍の将校として、許される行動ではない。


 結果的には、内乱が終結し、キウィリスの反乱も失敗に終わったが、下手をすれば、共和制末期のように、帝国の北の防衛線はアルペス山脈まで後退し、ローマ自体が滅んでいたかもしれないのだ。


 結局、噂が真実かどうかは判明しなかったが、プリムスは部下の軍団兵の勢いに乗せられてローマへ進軍し、市街戦を行った軽挙の報いを受けた。


 プリムスに続いて首都入りしたムキアヌスは、元老院に働きかけてウェスパシアヌスの帝位を確立し、内乱を収束させて、速やかに市内の治安を安定させた。


 シリア総督であったムキアヌスは、法に認められたれっきとした司令官である。単なる軍団長に過ぎないプリムスは、指揮権を返上するしかなかった。


 ウィテリウス廃位の立役者であるプリムスに、ムキアヌスが与えた褒賞は、軍功賞ただ一つだけだった。冷徹な政治家であったムキアヌスは、市街戦でウィテリウスの軍と全面衝突し、同じローマ市民である軍団兵の血を多く流したプリムスを英雄として遇すれば、敗者の怨念を買うと判断したのだ。


 だが、野心家であるプリムスは、ムキアヌスが下した処遇に満足しなかった。


 プリムスは、ウェスパシアヌスが待機するエジプトまで、わざわざ出向いて直に不満を訴えた。しかし、ウェスパシアヌスも、ムキアヌスと同様の判断を下した。


 その後のプリムスの消息は、はっきりとはしない。

 いずれにせよ、ムキアヌスの処置を不服とし、ローマから去ったのは、確かだ。


 ウェレダの手紙によると、そのプリムスが、キウィリスと手を組んでいるという。


 プリムスが陰謀に関わっているという可能性は、俺達の心に、悪い予感しか生まなかった。


 キウィリスが、ローマの富を狙って反乱を起こそうとする理由は、わかる。

 ダキアのゲルマン民族も、ローマの富を欲しているし、ユダヤ人はローマからの独立を求めている。

 パルティアのパコルス二世がキウィリスの陰謀に乗った理由は、ローマに攻め入って勝利し、国内での威信を高めたいからだ。


 誰もが皆、己の利益の為に手を組んでいる。


 となれば、プリムスは何を目的に、陰謀に加わっているのか。


 最初に考えられる理由は、プリムスを重用しなかったムキアヌスとウェスパシアヌスへの復讐だろう。

 だが、二人共、既に冥府へと旅立っている。


 恨み骨髄のプリムスは、ウェスパシアヌス帝が開いたフラウィウス朝、ひいてはローマ帝国の滅亡をも、願っているかもしれない。

 だとすれば、最も危険なのは、現皇帝であるティトゥス帝だ。


 ローマへ戻ってくる道すがら聞いた噂では、ティトゥス帝は、ウェスウィウス山の噴火によるネアポリス湾一帯の復興が、未だに成っていないため、首都とネアポリス湾を行き来する日々が続いているのだという。


 噴火による火山灰の被害だけではなく、噴火と同時に起こった地震も、カンパニア地方一帯に被害を及ぼしているらしい。


 カンパニアで災害復興の陣頭指揮を執るティトゥス帝が首都へ戻ってくるのは、重要な祭儀が行われる時だけだ。

 ローマでは、皇帝は同時に最高神祇官ポンティフェックス・マクシムスでもある。重要な祭儀の際には、皇帝自らが神々へ供物を捧げるのだ。


 アナトリアから招かれたキュベレー女神には、普段、ガロイと呼ばれる去勢された専用の祭司達が仕えている。ガロイ達はメガレンシア祭の間だけ、神殿の外に出てくる。

 四月四日から始まるメガレンシア祭は、最初の六日間は、キュベレーや、彼女の息子であり、夫でもある男神アッティスを題材とした演劇が行われる。


 四月十日はメガレンシア祭の最終日で、祭の中では最も重要な日である。

 朝から夕刻まで一日中、大競技場キルクス・マクシムスでキュベレーへ捧げる戦車競走が行われる。

 戦車競走には、ティトゥス帝も列席する。おそらく、今日、九日にはカンパニアからローマへと戻り、パラティヌスの宮殿で政務をこなしているだろう。


 プリムスが、ユピテル神殿への放火だけでなく、火事の混乱に乗じて皇帝暗殺まで企んでいるとすれば、決行日は近いはずだ。


 メガレンシア祭のすぐ後には、豊穣の女神ケレスの祭が控えている。

 ケレスの祭が終わるまでは、ティトゥス帝もローマに留まるだろうが、それが終われば、再びカンパニアへ向かうだろう。


 そうなれば、次に首都へ戻ってくるのは、五月中旬に行われるレムリア祭まで待たなければならない。


 戦争に適した春が訪れたというのに、反乱者達が悠長に待っているとは思えない。



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