第35話 7月の蜃気楼

 蝉の鳴き声が充満するうだるような暑さの中、高校は1学期の終業式を終えた。体育館から教室に帰ってくると、みんなは「あっつ~。」とブツブツ言いながら各々自分の席についた。奈津は自分の席に着くと、分かっていることなのに、つい廊下側に目をやってしまった。奈津の想いなど素知らぬ様子で、1番後ろの席がポツンと空いている。視線を感じたのか、その席の前に座っているまなみが奈津を見た。奈津はまなみと目が合うと、ちょっとおどけたように笑った。まなみもまねをしておどけたように笑い返した。でも、まなみの笑顔はどこかぎこちなかったかもしれない・・・。しばらくすると、両手いっぱいの書類を抱えて1学期最後のホームルームに中野先生がやって来た。いつも通りの元気のよさで、生徒たちと英語で挨拶を交わし終わると、先生は空いた席に目をやった。 「タムラ、風邪をこじらせたみたいね~。まあ、来週から始まる課外授業までには治るでしょ!英語の授業の申し込み出てたから。配布物はそのまま席に置いといて、課外の時に直接渡すから。」

先生も教室のみんなも日常よくあることのように普通にコウキのことを話題にした。そして、それに対して、誰も何の疑問も抱いていないようだった。自分だけが異世界に迷い込んだような感覚・・・。「課外には来る・・・?それまでには帰ってくる・・・?」奈津の心の中は急にざわつく。コウキの目をして、髪の色と目の色だけが違うあれは誰?BEST FRIENDSの「ヒロ」と呼ばれる彼と同じ目をして、あそこの席に座っていた黒髪で眼鏡をかけていたのは誰?目に入る情報が奈津を混乱させる。奈津が知りたいのは、不確かなそんな情報ではなかった。奈津が知りたいのは、たったひとつ・・・電話の向こうのコウキが語る真実・・・ただそれだけだった。校則違反だと分かっている。でも、奈津は電源を入れたままのスマホを手放すことができなかった・・・。奈津は窓の外に目をやった。この空はコウキと繋がってるのだろうか?じゃあ、わたしの想いは届く?「コウキ・・・」奈津は空に想いを放つように名前をつぶやいた・・・。どうか、コウキに、コウキに届きますように・・・。


 「それじゃあ、遅いんです!今すぐ、行きたいんです!」

代表の部屋からヒロの声が漏れ聞こえる。

「あいつ、どうしたの?珍しくおっきな声出して。」

ジニがドンヒョンに訊いた。

「なんか、ヒロのやつ、一旦日本に帰りたいらしくって。」

ドンヒョンが答えていると、今度は代表の声がヒロの声に負けないくらい大きく聞こえてきた。

「今月末のソウルのファンミまでに遅れてる分取り戻さないといけないだろ!一連の報道があってから、初めてファンの前に立つんだ。お前の帰りを待っててくれたファンに失礼のないようなパフォーマンスにまで仕上げろ。会いたい友達ってのは、8月5日の日本のファンミが終わってから会いに行けばいい!BEST FRIENDS続けるって決めた以上、お前はプロなんだぞ!甘えるな。」

「続けます!それは 決めてます!でも、今回は、一時帰国のつもりで帰っただけで、あのまま日本を離れるなんて思ってなかった!!」

普段は、代表に口答えするようなタイプではないヒロが、果敢に代表に食い下がっていた。

「自分の口からファンに話したいって言ったのはお前だ。だから、今回のファンミから急遽、お前を参加させることにした。これはもう決定事項だ。いいか、お前のスキャンダルは収束どころか女優の発言で再燃してるんだぞ!言いたくないが、もう、足は引っぱるな!!」

代表の言葉にヒロは手を握りしめた。そして、もう何も言えなくなった・・・。そうなんだ・・・これ以上・・・足を引っぱる訳にはいかない・・・。

「すみません・・・。」

ヒロは頭を下げた。代表は自分を落ち着かせるように大きくため息をつくと、

「悪かった。急だったからな・・・。心の準備もないまま、お前を日本から離れさせたな・・・。カムバまで、少し時間がある。日本のファンミの後、今回は長めの休みをとっていい。長いといっても一週間くらいだが、それでいいか?」

「・・・はい。」

ヒロは握りしめていた手を緩めると、深々と頭を下げた。「8月5日・・・一週間・・・。」ヒロはつぶやくと唇を噛みしめた。そして、ゆっくり顔を上げた。代表はもう向こうを向いて窓の外を見ていた。ヒロはその背中に一礼すると、静かに部屋を後にした。廊下には心配そうな顔をしたジニとドンヒョンが立っていた。

「あ・・・、大丈夫。いろいろ中途半端なまま日本をあとにしたから・・・。そのことでちょっと・・・。」

頭をかきながらヒロは二人にそう告げ終わると、向きを変え、ひとりポツリポツリと小窓のある廊下の突き当たりの方に向かった。

「ヒロ!」

ドンヒョンが後ろから呼んだ。

「足引っぱってるなんて思わなくていいぞ。今回のことは、オレたちの人気が出てきた証拠!洗礼を受けただけだから!堂々としとけばいい!」

「何度も言ってるけど、ヒロは一人じゃないから。BEST FRIENDSは7人だぞ!」

ジニもドンヒョンの言葉を追いかけるようにヒロの背中に声をかけた。ヒロは二人に背を向けたまま、歩きながら頭の上に両手を添えると、ライブの時にファンに見せる大きいハートを両手で作った。振り向けないのは、泣きそうなのを我慢してて顔が変になっているから・・・。本当に仲間を大切に思う・・・。そして、こんな自分を待っていてくれているファン・・・。どちらもヒロにとってかけがえのないものだと改めて感じる。それは、疑う余地など微塵もない・・・。でも・・・。窓際につくと、ぼんやりとしばらく空を見上げた。クリッと大きな目をして小麦色の肌をしたショートカットの女の子の顔が浮かぶ。その子が、ぼくの名前を呼んだ気がした・・・。たまらず、ヒロもその子の名前をつぶやく・・・。大切なものが・・・もうひとつ・・・、もうひとつだけ増えたとしたら・・・神様は、許してくれますか・・・? 


 「奈津!奈津!」

後ろからまなみの声がした。終業式が午前中に終わったので、午後早くから始まったサッカー部の練習は4時には終わり、今は自主練扱いになっている。大半の部員たちは残っていて(もちろん、悠介も)、練習中もあれだけ走ったというのに、特に用事がない、という理由だけで、暑い中、2チームに分かれてゲームを楽しんでいた。マネージャーの仕事から解放された奈津もジャージから制服に着替えて、一見学人として 日陰でサッカーのゲームを見ていた。いつもは奈津の横に座りおしゃべりしながら一緒にゲームを見る詩帆が、今日はなんだか奈津から遠いところに座ってゲームを見ている。一人になりたかった奈津は、今日だけは詩帆との距離がありがたく、それに甘えてより一層ぼんやりとしていた。そこに聞こえてきたまなみの声だった。

「なんかずっとぼんやりしてる!」

奈津はまなみに、コウキの家に行って聞いたことを話せていなかった。喉まで出かかっている話をいつも飲み込んでいた。BEST FRIENDSの「ヒロ」のことも・・・。何で、彼はあんなにもコウキに似ているんだろう・・・。まなみに訊いたら何か分かることがあるんだろうか・・・。でも、コウキのこと、そして、コウキにそっくりの「ヒロ」のこと、それらは簡単に口にしてはいけないような気がした・・・。やむなく、まなみには「コウキの家は分からなかった。」ということにして、なんとか今日までやり過ごしてきていた。

「課外が始まれば会えるよ!コウキ、また、奈津にぶち怒られるね!」

まなみは奈津を元気づけるようにちょっとふざけるように笑いながら言った。

「それより、加賀先輩が来たよ!」

まなみはそう言うと、後ろを振り返り、

「先輩、こっちこっち!」

と声をかけ手招きをした。

「おひさ~!今日、大学休みだから、車で弟を迎えに来た~!ショッピングモールに乗せてけってうるさいから!」

ノースリーブの花柄のシャツにデニムのショートパンツを合わせた涼しげな格好で加賀先輩が現れた。

「まだ、ゲームやってるんだね。じゃあ、少し待っとこう!」

そう言うと、加賀先輩は奈津の横に腰掛けた。まなみも後に続いて先輩の横に座った。

「まなみちゃん、大阪のファンミ行く?」

まなみが座って落ち着くまで待ちきれないかのように先輩が声をかける。

「あったり前ですよ!でも、ガーン!アリーナじゃなかったです。」

まなみも意気揚々と答える。さっきまで奈津を心配していたまなみとは別人のように!

「わたしもアリーナじゃなかった~。でも、いいの!!だって、なんと!!なんと!!今回、ヒロがファンミで復帰するんだもん!!!」

そう言いながら、加賀先輩はまなみの肩を連打した。奈津の心臓がトクンと鳴る・・・。

「え~!その情報初めて!ヒロ帰って来たんですか?なんか消息不明みたいに騒がれてたのに!」

まなみは初めて知ったのか目をまん丸くして驚いている。「消息不明・・・」奈津は何度か聞いたような気はするが、右から左だったヒロの情報を改めてなぞる。

「ちゃんとアメリカにダンス留学してたみたいよ。でも、今回ヨンアの件がまたまた浮上したから、韓国に帰ってきたんと思う!!ちゃんとファンの前で話すんじゃないのかな?ヒロが帰ってきてくれて嬉しいけど、もう!実際あの二人本当はどうなの?」

加賀先輩が拗ねたように口を尖らせている。

「ヨンア?」

思わず奈津も声に出していた。

「ヒロのスキャンダルの相手!なっちゃんはK-POP興味ないから知らないか~。」

奈津の心臓が早鐘を打つ・・・。そうだった。ヒロはスキャンダルを起こした人だ・・・。

「どんなスキャンダルでしたっけ・・・?」

「ヨンアとヒロがキスしてるところが写真に撮られたんよ!もう大変だったんだから!」

あれから何度も見たヒロの映像を思い出す・・・。時々見せる妖艶な表情は、とても同じ歳とは思えなかった・・・。心臓の鼓動がますます速くなる・・・。

「キス・・・?」

無意識に奈津は自分の唇に手を当てていた・・・。

「そんで、この間、映画の制作発表の時、ヨンアが『ヒロとはそれ以上の関係かも・・・』みたいなこと匂わせたんよ~!もう~腹立つ!」

加賀先輩は、またもやまなみの肩を連打する。奈津の頭の中で、眼鏡の奥の目をクシャっとさせて笑うコウキとアイラインの入った切れ長の目で人を誘惑するような表情で歌うヒロが入り交じる・・・。奈津の目の前がぼやけてくる・・・。

「先輩痛いですって!あ、奈津、この人がヨンア。」

まなみはスマホで検索したヨンアの写真を先輩と奈津に見せた。

「これこれ、憎たらしい!でも、綺麗なんだよな~。こんな美人だったら、ヒロもイチコロかも・・・。」

加賀先輩の声が遠くなっていく・・・。スマホの中で微笑んでいる女性は、わたしと違ってロングヘアで色も透き通るように白くって、色っぽくて本当に綺麗・・・。ヒロが好きになるの分かる気がする・・・。二人、すごい似合ってる・・・。

「え!ちょっと、奈津!奈津!先輩、この子熱中症かも!」

いつの間にか、奈津は目を閉じて加賀先輩に寄りかかっていた。うっすら開いた目でグランドを見ると、ぼんやりと蜃気楼が見えた・・・。

『ほんとうは、あの綺麗な人が好き?』

ヒロのスキャンダルの話だというのに、遠のく意識の中で奈津は、奈津とふざけ合って笑っているコウキに向かってそう問いかけていた・・・。

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