第33話 7月のピンク色の空

 「奈津は?」

紅白戦のハーフタイムに入り、ベンチに戻ってきた悠介は、ドリンクを渡しにきたまなみに訊いた。前半走りっぱなしだった悠介はかなり息があがっている。汗が滝のように流れ落ちている。ドリンクをひとしきり飲んだ後、いつものように練習着の裾で顔の汗を拭きながら辺りを見渡す。

「今日は、用事で部活休み。」

まなみは、なるべく抑揚をつけないように答えた。奈津は悠介のことには触れない。でも、まなみは、悠介の奈津への気持ちくらい、とうの昔から知っている。だから、奈津が部活に出ていない事が分かると、悠介が奈津の所在を訊いてくるのは予想していたことではあった。ほら、予感的中。

「用事?」

悠介はボトルに口をつける前にもう一度まなみに訊いてきた。ドリンクを飲んでいる間に答えを聞きたいのだろう。相変わらず、奈津のことなら何でも知ってる・・・と言わんばかりの悠介の口ぶりだった。そのことが余計にまなみの胸にチクッと刺さる・・・。

「うん。わたしも詳しく聞いてない。奈津も用事があるからとしか言わんかったから。」

本当のことは言えなかった。奈津は、何の連絡もなしに2日も高校を休んでいるタムラコウキの家に行っている。ううん。正式には、タムラコウキの家を探しに行った。悠介はドリンクを飲み終わった後、残りのウォーターを頭からかけながら、

「あいつが部活休むなんてよっぽどだな。」

と一言だけ言った。そして、手前にいて向こうを向いて作業をしている詩帆の肩に空いたボトルをポンッと押し当てた。早く受け取れ・・・というように。他の部員たちが飲んだ空いたボトルをかごにしまっていた詩帆は、慌てて振り向くと、

「あ、すみません。」

と言って、ペコンと頭を下げた。顔をあげて、詩帆は、自分の肩にボトルを押し当ててきたのが悠介だと分かると一瞬戸惑った。しかも、その当の悠介は、詩帆がボトルを受け取るとすぐ、何も言わず、もうグランドに向かって走り去ろうとしていた。それは、詩帆の知っている悠介ではなかった。詩帆の知っている悠介は、練習だろうが、試合だろうが、どんなにクタクタになった時でも、ボトルを返すときは、マネージャーの目を見て、必ず「ありがとう。」と言うのを忘れない・・・そんな先輩のはずだった・・・。


「この辺だと思うんだけど・・・。あ~着替えてくればよかった。あっつ~!」

奈津は学校から一旦家に寄り、教科書などが入った重たいリュックを玄関に置き、貴重品の入ったポーチだけを持って、はやる気持ちで家を出た。もちろん、制服のまま。コウキの住所をそれとなく中野先生に聞いてはみたが、個人情報なので教えられない、と簡単に断られてしまった。だから、こうして仕方なく、めぼしいところを当たっているのだった。

「病気はしょうがない。人間だから熱も出るでしょうよ。風邪も引くでしょうよ。だけど、電話くらいできん?それとも何?電話もできんくらいそんなに重症?」

大きな独り言を言いながら、心なし、足をドンドンと強く踏みしめながら、奈津は自転車を押して歩いた。野々宮地区でコウキがバスに乗ってきたバス停から考えると・・・この辺だと思うんだけど・・・。奈津は辺りをキョロキョロする。さっき、スーパーで買ったリンゴが二つ、自転車のかごの中で転がりながら煮えている。もうかれこれ1時間以上は「タムラ」さんの家を探して自転車を押して歩いている。部活の時にかぶるキャップをかぶっててほんとによかった!なんてったって暑すぎる。

「すみませーん。おじさん!この辺に『タムラ』さんっていうおばあさんのお宅知りません?」

田んぼの見回りをしている作業着をきたおじさんを見つけると、奈津は声をかけた。これで何人目かな。この辺りに詳しそうな年齢の人を見かけると、奈津は片っ端から声をかけた。初めははきはきとしていた口調だった奈津も、この頃になると、暑さで覇気も無くなりグダグダになってきていた。それでも、声をかけられたおじさんは足を止め、こちらを振り向き、

「タムラねえ・・・。」

と思い出そうと名前を復唱してくれた。でも、考える時間が長い。今回も期待薄かな・・・奈津がそう思い始めた時、

「あ~、あ~、あ~。」

何かを思い出したようにおじさんは目を大きくして、頭を上下にゆっくり動かした。

「ある。ある。あの木の茂みを越えた向こうに1件タムラさんがあるよ。そこに歳とってるけど元気なおばあちゃんが一人で住んでる。」

おじさんは、田んぼの向こうの山際に見える木の茂みを指さした。奈津はキャップのつばの先にさらに左手をかざすと影を作り、眩しそうに目を細めてそちらを見た。

「あの茂みを越えて、少し坂を上ったら一軒だけしかないからすぐ分かるよ。あ~、そういや、ばあちゃん、最近ひ孫と住んでるって言ってたなあ。時々、スラッとした子が自転車に乗って通るの見るよ。」 

スラッとした子?自転車?やった!ビンゴ!!奈津は心の中で叫ぶと、

「ほんとですか?おじさん、ありがとう!!ちょっと行ってみます!」

とさっきまでのグダグダさとは打って変わって、おじさんに元気よくお礼を言った。そして、助走をつけると勢いよく自転車に飛び乗った。

「まったく!いくら病気だからって、電話もせず2日間もほったらかす?大体、あの番号は簡単にはもらえないんだぞ!もう、ほんとに、わたしを怒らせる天才なんだから!!」

こぎ始めは、ブツクサと文句を並べていた奈津だった。でも、ひとしきり文句を言い終わると、少し黙りこくって、それから誰が聞いているわけでもないのに、

「・・・っていうか、コウキも私と一緒で付き合うの初めて・・・とか?それで、女心分からない・・・とか?」

と小声でつぶやいた。そうしてまた、自分で言っておきながら、一人で顔を赤くした。そして、左手でパタパタと顔を仰いだ。本当に・・・コウキのことはまだ知らないことだらけだった。きっとこれから、少しずつ少しずつコウキの事を知っていくに違いない・・・。2日会ってないだけなのに、こんなに落ち着かず、いてもたってもいられない自分が、奈津はなんだか可笑しかった。お見舞いに行ったらコウキはどんな顔をするだろう。びっくりするだろうな・・・。一重の目をまん丸に大きくするだろうな・・・そしてきっと、あのクシャッとした笑顔を優しく返してくれるんだろうな・・・。会いたい・・・。いつの間にか奈津の心の中はこんなにもコウキでいっぱいで溢れそうになっていた・・・。

「よ~し!待ってろ!タムラコウキ!」

奈津は元気よく自転車をこぐと、スピードをあげた。・・・それに合わせて・・・かごの中のりんごも揺れる・・・。自転車の振動に合わせて二つのリンゴは、ゴツンゴツンと翻弄されるようにぶつかり合っていた・・・。


 寝返りを打つと、ゆっくりと目を覚ました。なんだか頭がぼんやりしていて、自分がどこにいるのか分からない・・・ここはどこだろう・・・?・・・それより、ぼくは誰だっけ・・・?

「ヒロ~!!!」

突然、歓喜の声と共に誰かに首元に抱きつかれた。ヒロ・・・?そうか・・・ぼくはヒロだった・・・。

「・・・ジュン?」

ヒロはまだもうろうとして、うつろな声で答える。

「ほんっと、心配したんだからな。なんでいなくなるんだよ!なんで連絡しないんだよ!」

歓喜の声からふいに泣き声に変わるジュン。それを合図にヒロのベッドは囲まれる。頭を撫でられたり、ほっぺをつねられたり、おなかやおしりをつつかれたり、懐かしくて、大好きだった空気がヒロを包み、漂う・・・。

「みんな・・・。」

ヒロは、ここが宿舎で、自分を囲んでいるのがBEST FRIENDSのメンバーたちだと認識した・・・。前と何も変わらないみんなの笑顔・・・。途端にせきを切ったように涙が溢れ出る。両手で顔を覆う。しゃくりあげて、声にならない声を絞り出す。

「・・・ごめん。」

「ば~か。」

静けさの中、シャープの声が響く・・・。それと同時に、6人はヒロの体の上に乗ったり、くすぐったりしてきた。

「わ!やめろ~!」

ヒロは涙を拭う暇も無く、泣き笑いのような声を出した。なんだかくすぐっている方も泣いてるのか笑っているのか分からないような表情になっている。ヒロは病み上がりで、しかも3ヶ月ぶりの再会でもあるというのに、誰も容赦などしない。むしろ、激しさを増してやってくる。ヒロのくすぐったくて笑い死にしそうな声を聞いて、みんなは大笑いをする。久しぶりにBEST FRIENDSの宿舎が笑い声に包まれる。・・・宿舎の外の状況は一向に変わってなどいない・・誹謗、中傷、好奇の風が吹き荒れている・・・。でも、今は・・・そんなことどうだっていい・・・。なんてったって、ヒロがおれたちのヒロがBEST FRIENDSに帰ってきたんだから!!


 こんもりとした緑の先のゆるい坂を上ると、一件のこぢんまりとした昔ながらの家が現れた。玄関の前には車が4,5台停まるくらいの広さがあり、手入れが行き届いた小さな畑もあった。その畑にはピーマンとトマトが太陽の光をいっぱいに浴びて、色鮮やかになっている。奈津は自転車を停めると、ゆっくりと畑と庭、そして家を見た。なんだか初めて見るのに、これらすべての様相が、コウキの雰囲気にぴったりな気がした。さらに視線を動かすと、家の横の差し掛けの下に、見覚えのある自転車が停まっているのを見つけた。坂道を上ってきた動機とは別のドキドキが始まる・・・。この壁の向こうにコウキがいるんだ・・・。奈津は玄関の前に立ち、ポケットから取りだしたハンドタオルで顔の汗を丁寧に押さえて、大きく息を一息ついた。それから、

「頑張れ、奈津!」

と自分にエールを送ると思い切って玄関のチャイムを押した。

ピンポーン

奈津はつぶっていた目をさらにギュッとつぶり、家の中からの反応を待った。・・・どれくらい待っただろうか。外界から何の音も返ってこないので、奈津はゆっくり片目を開けてみた。玄関の戸はさっきのまま・・・、どうやら何の変化も起きていないらしい。

「あれ?聞こえなかったのかな?」

両目をパッチリ開けると、今度は、玄関のチャイムを2度押してみる。

ピンポーン、ピンポーン。

相変わらず何も起こらない。こうなるとなんだか大胆になってしまう奈津は、引き戸の玄関に手を当てるとそっと引いてみた。ガラガラガラ・・・開いた!どうやら鍵はかかっていないらしい。無駄なものが置かれていないスッキリした玄関の隅に、コウキの青いスニーカーが1足だけ置かれていた。なぜだか・・・、そのスニーカーの存在が急に奈津を不安にさせた・・・。起き上がれないほど、具合悪いのかな・・・。

「ごめんくださーい。」

奈津は家の奥まで届くように、できるだけ大きな声を出した。

「はいはいはい。」

ゆっくりと穏やかな返事が聞こえてきた。家の中からではなく、外にある差し掛けの方から。藍色の割烹着にもんぺをはいた少し腰の曲がったおばあさんが、ちょこちょこという表現が似合うような歩き方で、大きめの袋を持ったままこちらにやってきた。しわが深く刻まれた顔は、優しくかわいらしい感じがした。

「どちら様?」

あっけにとられている奈津に、そのおばあさんは訊いた。訊かれて慌てて奈津は答えた。

「あ、小沢と言います。コウキくんのクラスメートで・・・。」

奈津はここまで言うと、おばあさんの言葉を待った。

「あ~、あ~、コウキのね。お友達?あれ、あれ、初めてだ。」

おばあさんは大きな袋を脇に置くと、腰を伸ばして、もう一度奈津を見た。

「あら、あら、かわいらしいお嬢さん。そうかね。コウキの友達かね。」

おばあさんは嬉しそうに笑った。奈津もつられて笑った。

「コウキくん、夏風邪で学校を休んでますけど・・・」

と奈津が話を始めたが、おばあさんは話を聞かず、自分が話始めた。

「こんなかわいらしいお友達に来てもらったのに、いけなんだ。コウキは出かけてておらんのよ。」

奈津はおばあさんの話がすぐには飲み込めなかった。・・・コウキが出かけてる・・・?

「あの、おばあさん・・・。コウキくん・・・」

奈津は思わず声を出すが、おばあさんには届かない。

「おおかた、仕事でも入ったんじゃろう。なんの仕事かばあちゃんはよう知らんけど、長い休みがとれたから仕事行かんでええ言うて・・・。それで高校もこっちで通う、言うて通っとったが。」

自分の話したいことを自分のペースで話すおばあさんが、奈津の知らないことをしれっと口にする・・・。

え・・・?仕事・・・?

「そう、そう、ばあちゃん心配せんでもすぐ帰る・・・言うとったから、おおかた帰るころじゃろうて。まあ、明日でものぞいてみんさい。」

そう言って今度は、小さな畑の方へと歩き始めた。

「おばあさん!コウキくんは、コウキくんは出かけたって、・・・どこに行ったんです?」

奈津は腰が曲がって小さくなっているおばあさんの背中に向かって訊いた。おばあさんは振り向くと、

「ありゃ、言わんかったかいね。」

と言って笑うと、

「外国、外国。そうそう、か、ん、こ、く。」

と小さい子どもに言うように、ゆっくり区切って言った・・・。そして、軽く手を上げるとちょこちょこと畑へと入っていった。奈津はぼんやりとおばあさんを見送る・・・。それから、そっとポケットからスマホを出して画面をつけた。

着信なし・・・。

奈津はスマホをまたポケットにしまった。

「韓国・・・。」

奈津はコウキのことを何も知らないことに改めて気づかされた・・・。奈津は空を見上げる。空はうっすらピンク色をしている。その空のキャンパスには、別れ際、奈津の頭に手をポンッと置いて、優しく笑ったコウキの顔が描かれた・・・。奈津はそれを抱きしめるように両手を伸ばしす・・・。何でだろう・・コウキ・・わたし、涙が出るよ・・・。



 「あんだけ、ヒロのこと怒ってたくせに、なんだかんだ、お前が1番嬉しそうじゃんか!」

ひとしきり大騒ぎが終わると、ジニがジュンに言った。ジュンはペロッと舌を出すと、素知らぬ顔で口笛を吹くまねをした。そして、

「また、熱出たらいけないから、ヒロは、まだ寝とけ!」

と言った。ヒロは笑いがやっと収まった様子で「フーッ」と息を吐くと、

「うん、そうさせてもらう・・・。」

と言った。シャインは、

「今日は、ドンヒョンの部屋で寝るから、お前はゆっくり寝ろよ!」

と声をかけた。そして、みんなは、

「おやすみ!」

と声をかけるとヒロの部屋から順々に出て行った。

「あ、ヨンミナ。」

最後に部屋を出ようとしたヨンミンにヒロは声をかけた。

「ジーンズのポケットに入ってる紙と携帯取ってくれる?」

心なしかヒロの声がウキウキしているように感じる。

「オッケー!」

そんな嬉しそうなヒロにヨンミンは笑顔で答えると、ハンガーに掛けてある、ヒロのジーンズのポケットから、まずは携帯を取り出した。それから両方のジーンズのポケットをまさぐった。しばらくしてヨンミンは困惑した顔になると、

「何も入ってないよ。」

とヒロに告げた。ヒロの嬉しげな顔からサッと笑顔が消える。

「そんなはず・・・。」

ヒロは慌ててベッドから起き上がると、ヨンミンからジーンズを取り上げ、自分でもポケットを調べた。・・・が、ない・・・。ヒロは思わずジーンズを落とした。そう言えば・・・、気を失う前、空港でポケットから紙を出した・・・。あの時だ・・・。そうだとしたら、あの紙がヒロの元に戻ってくることはないに等しかった・・・。

「魔法が・・・。」

ヒロは。目をつぶって、唇を噛んだ。

「ヒロ兄さん?」

心配したヨンミンが声をかけた。

「あ、ヨンミン、何でもない。何でもない。もう寝るから大丈夫。ごめん。行って。」

ハッと我に返り、ヨンミンに答えると、ヒロは大丈夫な振りをした・・・。ヨンミンは心配そうに一度ヒロを振り返ったが、静かに部屋を出て行った。ヒロは部屋の戸が閉まるのを見届けると、病み上がりのおぼつかない足で窓際まで行った。窓から見える空はうっすらピンク色をしている。その空に、目をまん丸くして、怒ったり、泣いたり、笑ったりする子の顔が浮かんだ・・・。その子の顔がもう一度泣き顔になった時、ヒロはその子を捕まえるように手を伸ばした。そして、その両手を自分の胸の所まで持ってくると、ギュッと抱きしめた・・・。

「また、鼻を赤くして泣いたりしてない・・・?」


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