第31話 7月の青空
東向きの窓から早起きの太陽がさんさんと朝日を注ぎ込んでいた。まだ、朝の6時だというのに、キッチンで炒め物をしているだけで額に汗がにじんでくる。いつもは、
「暑すぎる!!」
とブーブー文句を言いながらキッチンに立つ奈津が、今朝は文句を言う代わりに、鼻歌を歌っていた。暑さなんか微塵も感じていないのか、いたく軽やかに。目元、口元がいつもの定位置を忘れたかのように緩みきってほころんでいる。父と凛太郎の目玉焼きはちぎったレタスとプチトマトを申し訳程度に添えて、早々にダイニングテーブルに並べておいた。今、奈津が鼻歌まじりに炒めているのは切れ目を入れてかわいくしたウインナーだった。以前、夕飯で作った時に冷凍しておいたハンバーグとポテトサラダは解凍し、すでにお弁当箱に詰めてある。奈津は、鼻歌のメロディーに合わせて、フライパンの上でジュージューと音をたてているウインナーを菜箸でつつくと、もっと顔をほころばせ、一人、照れ笑いを浮かべた。そして、切れ目が少しずつめくれ、ほんのり焦げ目がついたのを見計らうと、奈津は火を止め、菜箸でウインナーを挟むと、慣れた手つきでそれをお弁当箱に詰めた。ウインナーを二本ずつ・・・二つのお弁当箱に。
「いっつも学食かコンビニのお弁当なんだから。」
そう口に出してみて、奈津はまた照れ笑いをしてしまった。昨日までの片思いの自分は、こんな風にコウキを心配する・・・ということも、なんだかおこがましくて、自分には許されていないことのような気がしていた・・・。でも、昨日の夜の月の魔法が、コウキに関する多くのことを許可してくれた。きっとこれからは・・・声が聞きたいときには電話をしてもいいし、会いたいときには会いに行ってもいい・・・。この先ずっと、手を伸ばせば、いつでも触れられるところにコウキがいるに違いなかった。ときめくような恋心と共に、そんなどこか安堵に近い想いが交錯する。そして、奈津は、コウキの眼鏡の奥のクシャッと笑う目を思い浮かべた。コウキの笑顔は奈津をドキドキもさせ安心もさせる・・・。
「姉ちゃん、キッモ~!さっきからニヤニヤして。」
ご飯を食べるためにテーブルについた凛太郎が、奈津の一連の動作を見て、うげーっという顔をしながら言った。
「ずっとBEST FRIENDSの曲、鼻歌で歌ってるし!」
「あ~、これね!凛太郎がしょっちゅうかけてるから、ついついメロディー覚えちゃって。」
上機嫌の理由を聞かれると困るので、奈津はこれ幸いとそのままBEST FRIENDSに話題を振った。
「そう言えば、この間から、BEST FRIENDSの誰だっけ?歌がどうとかこうとか、凛太郎言ってなかったっけ?」
奈津は興味がない事はスルーするタチなので、凛太郎のBEST FRIENDSの話もいつもフンフン頷くだけでほとんど聞いてはいなかった。(まなみの時と同様に。))
「まだ、名前覚えてないん?『ヒロ』!!コウキくんと歌う声似てるし、顔も似てるって前から言ってるじゃんか。」
突然凛太郎の口から降って湧いて出てきた『コウキ』・・・という言葉に反応して、また、顔が緩みそうになる自分がいた。奈津は懸命にそれをこらえると、
「あ~言ってたね!でも、BEST FRIENDSにコウキに似てる子なんかいたっけ?よく知らんけど。でもな~、似てたとしてもコウキはそんなアイドルとはちょっと違うんだよな~。」
抑え気味に話そうとするのに、今日の奈津は、コウキのこととなると知らず知らずのうちにテンションがあがってしまう。
「アイドルはみんなのアイドルで、ファンもいっぱいいて、一生会えない雲の上の存在でしょ!そんなんじゃないんだよな~、コウキは。」
と言ってから、奈津は咳払いをした。そして、「だって、姉ちゃんだけのコウキだもん。」そう心の中で付け加えた。
「了解!今度ゆっくり動画見せて。姉ちゃんが似てるかどうか判定しちゃる!」
そう言うと、奈津はまたフンフンと鼻歌を歌いながらお弁当箱に蓋をし、ナプキンで包み始めた。
「ほらほら、特にこの動画。」
姉ちゃんがBEST FRIENDSの話題に乗ってくれている「今」を狙って、凛太郎は自分の『「ヒロ」と「コウキ」似てる説』を、どうにか奈津にも認めてもらおうと画策し始めた。凛太郎は置いてあった奈津のスマホでお目当ての動画を見つけると、奈津の目の前にスマホを差し出した。スマホの画面いっぱいにBEST FRIENDSの映像が流れ始める黒っぽいダボっとした服を着て、長めの金髪にパーマをかけた男の子がセンターでダンスをしているのがチラッと見えた。
「この金髪のがヒロ?」
凛太郎が見せてきた時、ちょうど真ん中にいた子の特徴を奈津は言った。
「そうそう!」
奈津は、赤い包みと青い包みの二つのお弁当をトートバッに入れるためにスマホから視線を外すと、
「どうかな~。似てるかな~。なんか『ヒロ』ってチャラそうかも・・・。コウキの方がちょっとかっこよくない?あ、凛太郎、ごめん!今日は急ぐから、今度ゆっくり見る。」
と言って、奈津は凛太郎からスマホを取り上げると、それをリュックのポケットに入れた。
「え~!!」
と口を尖らせる凛太郎をよそに、
「父さん!今日、朝練の前にまなみと約束あるから、もう行くね~!」
と、洗面所で身支度をしている父親に声をかけた。そして、奈津はリュックを肩にかけようとしてから、あちゃ~という顔をした。
「忘れてた~、母さん!」
と小さく叫んだかと思うと、隣の和室に小走りで行った。そして、ポンッと飛びあがるような動作で正座をすると、いつもよりも大きく、心なしかリズミカルに、「チンチンチーン」とりんを鳴らした。
「母さん、ほんっとにほんっとにありがと!!」
奈津は仏壇の母さんの写真に向かってウインクをした。奈津の目には写真の母さんがいつもよりも一層笑っているように見える・・・。奈津はリビングに戻ると、リュックとトートバッグを一気に持ちあげ、玄関に向かった。
「凛太郎もさっさとご飯食べなさいよ~!いってきま~す!」
床から数センチは浮かんでいるかのようなステップで奈津は軽やかに玄関から出て行った。
「奈津~!!」
先に到着していたまなみが奈津の姿を見つけると、部室の前で大きく手を振った。奈津のことが待ちきれないまなみは、こっちに向かって猛ダッシュで走ってくる。奈津の目の前までくると、まなみは奈津の両腕をつかんで、
「ね!ね!話したい事って何?」
と息をきらしながら興奮気味に訊いてきた。昨夜寝る前に奈津がまなみにラインしたのだった。
『まなみ!朝練前早く来れる?』
『え、やだ。眠い。』
『話したいことある。』
『なに?』
『好きな人のこと。』
『行く!6時半!』
『早すぎ!7時』
『りょーかい!!』
奈津がコウキの胸ぐらをつかんで激怒した理由も、悠介が奈津を追いかけて行ってからどうなったかも、まなみには全く見当がついていない。奈津には訊きたいことが山のようにありすぎて、本当は6時半集合にしても遅いくらいだった。まなみは奈津の手を引っぱると、近くにあったグランドに据えてあるベンチまで連れて行き、そこに二人で腰掛けた。
「それが・・・、好きな人っていうのは・・・。」
奈津は人の恋バナはバンバン聞いて盛り上がるくせに、いざ自分のこととなると、どうも歯切れが悪くてまどろっこしい。ちょっといいな・・・くらいは今までもあったが、こんなにガチで好きな人ができたのは、奈津にとっては初めての経験だった。奈津がどうやって話そうか・・・と戸惑いながらノロノロ話し始めると、そのテンポの悪さにまなみが先回りをして話を推し進める形になった。
「悠介でしょ!悠介の良さに改めて気づいたんでしょ!」
まなみは唐突に悠介の名前を出してきた。
「えっと・・・悠介は優しくて、昔から親友で、昨日も慰めてくれたんだけど・・・」
奈津は昨日の悠介のことを思い出した。奈津を抱きしめる悠介の腕が震えていた・・・。奈津はそのことには触れないつもりだった。そして、そんな奈津の反応を見て、まなみは、
「あ~、こりゃ違うね。じゃあ、タムラコウキか!」
続けざまに、今度は奈津の顔を指さしながらコウキの名前を口にした。それを聞いて奈津は目をまん丸くしてまなみを見た。
「えっ、何で分かるの?」
奈津はまなみの勘の良さに思わずびっくりして、改めてまじまじとまなみの顔を見つめてしまった。
「何、そのまなみすご~い!みたいな顔は!全然すごくないから!奈津めっちゃ分かりやすいから。普通、好きでも嫌いでもなんでもない人の胸ぐらつかむ?」
あんだけ大胆にみんなの前で激怒した女子とは思えないほど、今は別人のようにしおらしい奈津を見て、まなみは呆れて開いた口がふさがらないくらいだった。でも、びっくり顔で呆けたようにまなみを見ている奈津を見ると、まなみはなんだかホッとしてきて、安堵の表情を浮かべた。端で見ていると絶対両思いって分かるのに、いつも奈津とコウキの間には、何か目には見えない障害のようなものがあった・・・。それが何なのか結局まなみにも分からない・・・。でも、どうやら二人はやっといい感じに接近したに違いない。まなみはなんだか自分まで嬉しくなってきて、もう一度奈津に言った。
「奈津は、タムラコウキが好きなんだ。」
グランドと校舎に早起きの蝉の声が響く・・・。
「うん。」
奈津はよどみなく返事をした。まなみはもう先回りをして話すのはやめた。雲一つ浮かんでいない青空が二人の頭上に広がっている。その空は奈津の心のようだった。奈津は空を見上げた。コウキが自分の名前を呼ぶときの笑った顔、そして、透き通った声が奈津の脳裏に浮かんだ・・・。この広すぎる青空のように膨らんでいく自分の想いは、もう止めることができないような気がした。
「どうしよう・・・。まなみ。わたし、すごく好きかも・・・。」
ほんの一瞬、蝉の声も消え、静けさが世界を覆った。次の瞬間、まなみは、プッと笑うと、奈津の背中をバンバンと叩いた。
「いいな。いいな。そんなに好きな人ができて!タムラコウキ、なんかちょっと得体は知れない感じだけど、奈津にはいいんじゃない?まあ、地味な眼鏡くんだけど、よく見たら綺麗な顔してないこともないし、お似合い!」
まなみは褒めてるんだか、ディスってるんだか分からないことを言って、二人のことを改めて祝福した。
「そう?やっぱり?ありがとう!!まなみ~!」
奈津はまなみに思わず抱きついた。まなみの前で気持ちを吐露できた安心感からか、テンションが徐々に上がってくる。
「それでね。さっそく夏休み入ったら、デートすることになった!」
いったんまなみから離れると、奈津は更に意気揚々とまなみに告げた。
「まじ!!え~ちょっと、どこ行って、何したか教えなさいよ!」
まなみも奈津がどんな初デートをするのか興味津々だった。
「オッケー!これからコウキと一緒に決めるんよね~!」
奈津の顔はますます紅潮して輝いてくる。
「私も!夏休み入ったら、永遠の恋人、ヨンミンにファンミで会ってくるわ!」
「BEST FRIENDS日本に来るんだ~!」
二人は顔を見合わせると、
「夏休み、楽しみ~!!」
と思わず立ちあがって、「きゃー!!」と抱き合って飛び跳ねた。。終業式は3日後。あと4日すれば夏休みだった。
「オーっす!お前ら朝からうっせーなあ。」
いつの間にこんな時間になっていたのか、練習着姿の悠介がそこにいた。他の部員も数名グランドに出ている。
「わ!やっば、こんな時間!早く着替えなきゃ!」
まなみは奈津に声をかけた。
「元気そうじゃん。」
まなみの声が聞こえたのか聞こえなかったのか、まなみを無視して、悠介は奈津に向かって言った。失恋して消えてしまいそうだった奈津は、今朝はどこを探してもいない。
「あ・・・うん・・・。」
奈津は言葉に詰まる。
「あれからなんかあったん?」
心なしか、悠介の声と奈津を見る目に棘があるように感じる。
「あ・・・えっと・・・。」
奈津は何かを言おうとするが、パクパクと口を動かすだけで、次の言葉が出てこない。奈津と悠介、交互に二人を見てその様子を察したまなみは、
「早く着替えに行かないと!」
と奈津を手を引っぱってその場から連れ出した。引っぱられながら数十メートル走ってから振り返ると、悠介はベンチの方に体を向け、その場に佇んだままだった・・・。
「悠介には言ったの?タムラコウキが好きだって。」
走りながらまなみが訊いてきた。
「うん・・・。でも、悠介と会った後、コウキと会ったことはまだ・・・。悠介はわたしがコウキに失恋したまんまって思ってる・・・。」
まなみも悠介を振り返った。
「そっか・・・。」
朝練が終わり、二人は教室に向かった。
「昨日からなんでしょ。奈津たち。コウキどんな顔して、奈津を見るのかな~。」
まなみは楽しくってたまらない!という風にはしゃいでる。
「普通にしててよ、まなみ!ひやかしたりしたら、絶対にダメだからね!」
奈津は部室を出てから、しっかりとまなみに釘を刺していた。でも、そうは言うものの、奈津もコウキに会えるのが嬉しくてしょうがなかった。どんな顔をして会ったらいいのか、今にも心臓が飛び出しそうだった。コウキはもう教室にいるだろうか・・・。二人が教室の前に着いたのは始業5分前。ほとんどの生徒が登校している時間だった。まなみが教室の後ろの戸をいつものように開けようとした瞬間。
「待って。」
奈津はまなみを制した。
「ちょっと、心の準備・・。」
奈津はそう言うと、胸に手を当て、大きく2回深呼吸をした。それから、
「うん、大丈夫!」
と言って、まなみに頷いた。まなみは「やれやれ」と言う顔をしながら、教室の戸を開けた。ガラガラガラ。勢いよく戸が開いた。奈津は意を決して教室に入ると、目をギュッとつぶったまま廊下側一番後ろの席に向かって声をかけた。
「おはよう!」
「あ、おはよう!」
声が返ってきた。・・・が、それは2,3人の女子の声だった。その中に奈津の好きなあの声はなかった。目を開けると、一番後ろの席はまだ空いたまま・・・。まなみも奈津も教室を見回した。
「まだ来てないみたいだね。」
二人とも拍子抜けしたが、すぐに奈津には緊張感が蘇る。今度は、教室の戸が開く度に心臓が止まりそうになるからだ。奈津は戸が開く度に、ドキッとして戸の方を振り返った。そして、それを2,3回繰り返しながら窓際の席についた。
ガラガラガラ。
前の戸が開いた。反射的に奈津はドキッとした。
「モーニン!!」
でもそれは、相変わらずいつものテンションの中野先生だった。始業だ・・・。奈津は後ろの席を振り返った。コウキの席は空いたままだった。
「先生!タムラくん、お休みですか?」
まなみが、奈津が訊きたいことを代弁するかのように先生に訊いた。
「タムラ・・・?あー、さっき病欠の連絡が入ってた。夏風邪かな?」
先生は、
「Everyone take care!(みんなも気をつけてね!)」
と、もちろん、英語で付け加えることを忘れなかった。そして、その元気に響く英語と共に、奈津は全身の力が抜けた。
その日帰宅すると、奈津はトートバッグから青いナプキンで包んだお弁当を取り出した。包みをほどき、蓋を開けると、夏の高温がお弁当の様子をガラッと変えていた・・・。変わり果て、異臭を放つお弁当を奈津は生ゴミ入れに捨てた・・・。手を洗って、タオルで濡れた手を拭くと、奈津はスマホをリュックから取り出してそれを見た。スマホの画面はは静かに、誰からも着信が入っていないことを奈津に告げていた・・・。
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