第22話 7月の列車

 お互い口を押さえままどのくらいだっただろうか・・・。奈津には長く感じられた。でも、実際にはほんの数秒だったのかもしれない。コウキが「コホン。」と軽く咳払いをした。そして、

「奈津・・・。あの・・・、ぼく・・・。」

と何か言い始めた。その時、

ピロロン ピロロン ピロロン・・・

携帯のデジタルの着信音が聞こえた。奈津の音ではない。コウキは口元に当てていた手を咄嗟に制服のパンツの方に持っていき、パタパタと手を動かしポケットを探り当て、そこから携帯を取り出した。コウキは電話の相手を確認すると、

「ちょっと、ごめん。」

と一言言ってから、奈津に背を向け、携帯を耳に当てると大股でその場から遠ざかった。遠ざかりながら、コウキが電話に向かって返事をしたのが、少しだけ聞こえてきた。

「ヨボ・・・ロイムニ・・・。」

奈津の耳に聞き慣れない言葉だった。一瞬「・・ん?」と思ったが、奈津は、自分もぼんやりしていたので、なんか言葉を聞きとばしたかな・・・くらいにしか思わず、コウキが何と返事したのかそれ以上は気にも留めなかった。ただ、道の脇まで行って話しているコウキの様子は深刻そうに見えた。何について話しているのかも見当がつかなかった。しばらく話した後、コウキは電話を切ると、その電話を握りしめていた。それからコウキは空を見上げ、大きく息を吐いた。山際に近づいた夕日が彼の横顔を照らす。「あ、まただ・・・。」奈津は言い様もない不安にかられ、胸に手を当てた。コウキがこのままどんどん透き通って消えてしまいそうな感覚・・・。

「父さんからだった。」

そう言って振り向いたコウキはいつもの笑顔だった。

「父さんたちとは今、離れて暮らしてるから、時々こうやってかかってくるんだよね。」

奈津が「誰から?」とも何も訊いていないのに、なぜかコウキは説明口調になっていた。でも、お父さんじゃないってことは奈津にも分かった。

「そうなんだ。大丈夫?なんか深刻そうだっだけど・・・。」

奈津は何気なく訊いた。コウキは一瞬、眼鏡の奥の目を大きくしたが、

「あ、大丈夫、大丈夫。父さんと話すとなんだかよそよそしくなっちゃって。・・・あ、そろそろ行こうか、6時過ぎの汽車に乗らなきゃ!」

コウキは電話の話を早々に終わらせると、凛太郎と奈津を促し、駅の方に体を向け、ひとり歩き始めた。奈津と凛太郎はその後に続いた。さっき奈津に言いかけた言葉・・・コウキはもうそれを飲み込んだ・・・。言ってはいけないと思った・・・。奈津はコウキが何を言うつもりだったのか、訊けないまま、コウキの後ろをついて歩いた。


 「まなみ先輩。奈津先輩、今日なんかあったんですか?奈津先輩が部活休むなんて珍しい。」

選手たちが使い終ったドリンクボトルを洗いながら詩帆が訊いてきた。

「奈津ね・・・。どうせすぐ分かっちゃうから言うけど、奈津の弟になんかあったみたいで、昼過ぎから高校抜けて弟のところに行ってる。それで、何でか分からないんだけど、今津和野なんだって。びっくりでしょ!で、こっちに7時くらいの汽車で着くみたい。奈津は大丈夫って言ってるけど、ちょっと心配だから、部活終わったら悠介と迎えにってみるね。」

まなみはボトルを洗う手を忙しく動かしながら話した。

「そうだったんですね。それは心配・・・。」

詩帆はそう言うと、ボトルを洗う手を止めて、少し考えていた。

「先輩、わたし家にダッシュで帰って、自転車持ってくるんで、わたしも一緒に迎えに行っていいですか?。あ、うちはすぐそこです!」

ボトルを洗い終えたまなみは水道の蛇口を閉めると、

「うん、いいけど、野々宮駅だよ。大丈夫?」

と言った。

「はい。大丈夫です。じゃあ、片付けとか急ぎますね。」

詩帆はそう言うと、ボトルのかごを持ち、部室に向かって走って行った。


 6時過ぎの山口方面行きの列車に乗った3人は列車に揺られていた。コウキになついた凛太郎は行きとは違って、奈津の横ではなくて、コウキの横に並んで座った。しかも、あろうことか、疲れきった凛太郎は乗った瞬間からこっくりこっくり船を漕ぎ始め、がっつりコウキにもたれかかったと思ったら、今なんか、コウキの膝の上に頭をのせて、突っ伏して爆睡を始めていた。

「ごめん!凛太郎のやつ、ほんとずうずうしいんだから!!」

奈津は顔の前で手を合わせるとコウキに謝った。

「全然。」

そう言って、コウキは笑った。

「それにしても疲れたんだろうな・・・。今日は長い一日だったもんな・・・。」

コウキは凛太郎の顔にかかっている髪の毛を指で整えながら言った。そして、

「奈津はもう大丈夫?今日の朝一に模試の結果が返ってきてからずっと、奈津の顔、怖かったけど。」

とコウキは爆睡している凛太郎の顔を眺めながらクスッと笑って言った。「怖い」という言葉を使ったのは、その言葉に対する奈津の反応が楽しみだったからだ。きっと、それを聞いた奈津は「そんな怖い顔してたっけ?」みたいなことを言って、突っかかってくるに違いない。それを想像するだけでコウキはプッと笑いそうになった。・・・でも、コウキの言葉に反応する奈津の言葉は一向に返ってこなかった。「あれ?」と思ったコウキは、顔を上げて奈津を見た。手で顔をはさんで、目をまん丸くして、ちょっとむくれている・・・そんな奈津の顔を想像して・・・。でも、コウキの目に飛び込んできた奈津は違っていた・・・。コウキは慌てて膝の上の凛太郎の頭を落としそうになった。そこには、下を向いてポタポタと大粒の涙を落としている奈津の姿があった・・・。

「え・・・?奈津?どうした?ごめん、違う違う!奈津の顔は怖くなんかないよ。わ・・・ぼく、ひどいこと言った・・・。ごめん。」

びっくりしてコウキは謝っていた。なんて言って謝っているのか分からないくらい焦りながら。膝の上で凛太郎が寝ているので、不自然な動きになりながら・・・。

「・・・がう。」

奈津は何かつぶやいた。

「ん?」

コウキはあたふたしていたのを止めて、可能な限り自分の耳を奈津に近づけた。

「違う・・・。」

奈津はそう言っていた。そして、奈津は手で顔を覆った。

「ごめん・・・なんか・・・今・・・ホッとして・・・。」

詰まり詰まり、奈津はそれだけ言うと、声を押し殺して更に泣き出した。ポタポタと手の間から落ちる涙は止まらなかった・・・。コウキは恐る恐る自分の右手を奈津の頬に近づけた。中指の先が少しだけ奈津の頬に触れた。でも、その手をすぐに引っ込めると、ポケットに突っ込みクシャッとした小さなタオルを取り出した。

「きれいじゃないけど、これ。」

コウキはそれを奈津の手に持たせた。タオルを渡されると奈津はそれを顔にギュッと押し当てた・・・。


 「お待たせしました~。」

詩帆が自転車に乗って現れた。制服に着替えたまなみが正門の所で待っていた。

「急がなくて大丈夫だよ!まだ汽車が着くまで時間があるから。それに、悠介がまだ来てない。」

まなみが手を振りながら言った。詩帆がまなみの横に自転車を停めるのと同じくらいに、

「おう。」

と後ろから悠介の低い声がした。悠介は、二人の近くに自転車を停めると、

「部活中だったからゆっくり話せんかったけど、凛太郎、どうしたん?」

とまなみに訊いた。

「うん・・・、わたしもよく分からん・・・。けど、なんか津和野に行ったみたいだから、なんかあったんだろうね・・・。」

まなみが心配そうに答えた。

「奈津先輩は大丈夫ですかね?」

詩帆も心配してそう訊いた。すると、まなみはさっきの心配を撤回するように笑うと、

「まあ、奈津は大丈夫でしょ!あの子強いから。」

と答えた。

「あの子、時々シュン・・・となることはあっても、基本、鋼(はがね)の心臓だから!」とまなみは笑いながら続けた。それを聞くと悠介もうんうんと頷いて、

「ほんっと!あいつ、昔っから強いからなあ。オレなんか小さい時からずっと一緒だけど、あいつが泣くとこなんて見たことないもん。いっつも笑ってるかオレのこと怒ってる!」

と言って、ハハハと笑った。そして、悠介は、

「まあ、そんなやつだけど、今日くらいは迎えに行ってやるか!」

と言って妙にはりきって自転車をこぎ始めた。


 やっと涙が止まった・・・。奈津は「ふぅ・・・。」と大きく息を吐き一息つくと、急に気恥ずかしさがこみあげてきた。わたし、涙が止まらないほど泣いてしまった・・・。しかも、人前で・・・。しかも、あろうことかコウキの前で・・・。泣いたから顔は真っ赤なのに、それが更に赤くなるのが分かった。「こんなこと今までなかったのに・・・。」奈津は、目にギュッと押し当てていたクシャクシャのタオルをそおっと目から離して、少し下にずらした。そして、ゆっくり目を開けてみた。そこには、眼鏡の奥の目を目一杯開けて、心配そうにのぞき込むコウキの顔があった。

「あ、泣き止んだ。」

コウキは目を細めた。

「ごめん・・。突然涙が出てきて・・・。もう、大丈夫・・・。」

奈津は鼻声でそう言った。コウキは前のめりだった上半身を元に戻すと、座席の背もたれにもたれかかった。そして、

「はあ・・・よかった・・・。」

コウキはホッとして安堵の表情を見せた。その時、コウキの膝の上で寝ていた凛太郎が寝ぼけて ムクッと起き上がると、今度はコウキと反対の方に体を倒して、また寝始めた。奈津は凛太郎が寝てしまうと、また、ふうっと息を吐いた。

「わたし、朝からいっぱいいっぱいで・・・すごく張り詰めてて・・・、なのに、目の前の呑気な顔したコウキと凛太郎見てたら・・・なんかすごくホッとしちゃって・・・。泣いて・・ごめん・・・。」

奈津はそこまで言うと、また、涙が出そうになって、タオルを目に当てた。コウキはそれを聞くと、

「うん。」

と静かに頷いた。そして、

「ごめんなんかじゃないよ・・・。奈津ならどんだけ泣いたっていいよ。泣きやむまでちゃんと待ってるから・・・。」

と言った。奈津がタオルからそおっと目を出したのを見ると、コウキは目を細めて笑顔になった。「泣いたっていいよ。」というコウキの言葉は、・・・泣いても何の解決にもならないし、泣いても仕方ないし・・・、だから泣いたらダメ!とずっと自分に言い聞かせてきた奈津にとって、新鮮で初めての言葉だった。だって、病気になった母さんだって絶対に泣くことなんてなかったから・・・。奈津はコウキをまじまじと見た。眼鏡の奥の目が優しく笑っている・・・。ちょうどその時、

「まもなく、野々宮~、野々宮駅に到着します。」

のアナウンスが入った。そのアナウンスが聞こえた途端、奈津はタオルでもう一度顔を拭くと、タオルを外して、コウキに顔を見せた。そして、

「ね、目、赤くない?鼻は?泣いたって分かる?」

といつもの元気な奈津に戻って言った。

「え!!今、ぼくがすっごくいいこと言ったの聞いてくれた?」

突然の奈津の復活に面食らったコウキがタジタジしなから言うと、奈津は、

「ちゃんと聞いた!」

と言って笑った。改めてコウキの言葉がすごく嬉しかった。でも、照れくさいのと恥ずかしいのとでどんな顔をすればいいかわからなくて、なんだか茶化すような態度しかとれない・・・。

「凛太郎に泣いたってばれないかな?こんなに泣いといてなんなんだけど、わたし人前で泣いたことなくって・・・。母さんが死んだ時以来、凛太郎の前でも泣いたことないのに!」

と奈津は慌てた。

「う~ん、目が腫れぼったいし、鼻も赤いかな~。」

とコウキはわざと難しい顔をして言った。そして、奈津が「あちゃ~。」という顔をするのを見ると、笑いだし、

「でも、もう、薄暗いから大丈夫、大丈夫!泣いたって分からないと思うよ!」

と言った。それから、奈津は、「よし!」と両手で自分の顔を叩くと、

「凛太郎、凛太郎!」

と凛太郎の肩を揺らして凛太郎を起こした。凛太郎はガバッと起き上がると、キョロキョロ辺りを見回し、奈津とコウキを見上げた。しばらくキョトンとしていたが、列車の中にいることを思いだしたのか「う~ん!」と伸びをし、立ちあがった。

「よく寝た~!」

という凛太郎の言葉に奈津は、「いい気なもんだ。」とあきれ顔だったが、コウキはいつもの鈴がなるような笑い声で笑った。そして、列車の扉の所に立つと、野々宮駅に到着するのを3人で待った。


 「あ、来た来た!」

まなみが列車のライトが近づいてくるのを見つけて言った。

「凛太郎のやつ、姉ちゃんに心配かけやがって、焼きを入れてやらんといけん!」

と悠介はドスをきかせた声で言いながら待合室の椅子から立ちあがった。詩帆もそれに合わせて立ちあがる。

「悠介、小さい子はいじめたらいけんよ!」

とまなみが言うと、悠介は、

「ハハハ、冗談冗談!ま、奈津の弟はオレの弟みたいなもんだから、少々焼き入れるくらい大丈夫!」

と笑った。

 列車が到着すると、悠介たちは、降りてくる人の中から奈津と凛太郎を見つけるために改札のところまで行った。扉が開いて、凛太郎が列車から飛び出すように出てくる姿が見えた。悠介はそれを見つけると、

「お~、凛太郎!」

と声をかけ、手を挙げた。すると、次の瞬間、その後ろから、奈津と眼鏡をかけた男子が一緒に降りてくるのが見えた。あれは・・・奈津と同じクラスの・・・タムラコウキ?タムラコウキは当たり前のように奈津の白い鞄を自分の肩にかけて、そして、当たり前のように奈津の横を歩いていた。まるで自分が奈津の恋人でもあるかのような顔をして・・・。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る