第12話 6月の蛍
気がつくと、辺りはもう薄暗くなっていた。顔を上げた奈津は自分が一瞬どこにいるのか分からなかった。いつの間にか座ったまま膝を枕に居眠りしていたらしい。
「あ、寝ちゃってたんだ。」
スマホで時間を確認すると7時前だった。梅雨の天気は気まぐれで、いつのまにかまた厚い雲が空を覆っていて、いつもより暗くなるのが早かった。奈津はウーンと背伸びをした。凛太郎がここに来るまであと1時間もある。まなみでも誘ってみようか・・と出かける前に思ったりもしたのだが、まなみも明日の試合があるし、それになんてったって受験生。部活に入っている自分たちにとって時間はめちゃめちゃ貴重なのだ。優しいまなみのことだ、誘えば絶対付き合ってくれるに違いなかった。だから、あえて誘わずにおこうと思ったのだ。
「まあ、優しい・・・というより単なる祭り好きなんだけどね~まなみ。絶対勉強せずにこっち来ちゃうよ。」
と奈津はまなみの顔を思い浮かべると笑ってしまった。受験生なのは奈津も同じで、奈津にとっても時間が貴重なのは変わりなかった。でも、やっぱり奈津は、ちょっと無理してでも、凛太郎を蛍に会わせに来て良かった・・・と思った。凛太郎が小さい時は、毎年この蛍まつりに来ていて、帰りは必ずお父さんが見つけてきたこの「穴場」に寄って、この階段に家族4人寄りそって座ると、しばらく蛍たちを眺めたものだった。その時、よくお母さんが凛太郎を膝に乗せて話したのは、
「亡くなった人が、夏だけ、蛍になって会いたい人に会いに来るんだって。きっとおじいちゃんが蛍になって、奈津と凛太郎に会いに来てるよ。ほら、さっきから近くを飛んでるこの蛍かも!」
だった。だから、未だに奈津も凛太郎も亡くなった人が、会いたい人に会いに来る・・と無意識に信じている。
「退屈だなあ、もう一回おまつりのぞいて来ようかな?」
奈津は立ちあがると、改めて川の方を見た。光の筋がスーッと何本も現れては消えている。すごく幻想的だった・・・。その時、階段のちょっと下の方で人の気配がした。薄暗くなり、よく見えなくなったが、そう言えば、先客がいたっけ。明るいときにチラッと見た感じでは奈津と同じ位の男子っぽかった。
「まだあそこに座ってる。」
奈津はちょっと呆れたが、のども渇いてきたところだったので、そのことへの関心はすぐに薄れ、回れ右をして、出店が立ち並ぶ方へと向かって歩いて行った。
蛍まつりを満喫していた凛太郎だが、7時半前によっちゃんが早めに帰ることになり、解散になってしまった。よっちゃんを連れてきていたお父さんが野球中継を見たいと言って早めに帰ることにしたからだった。一番のムードメーカーが帰ることになったので、残った4人もなんとなく「オレたちも帰ろうか・・・。」ということになったのだ。
「じゃあ、月曜日な~!」
と友だちと別れて、凛太郎は走って「穴場」に向かった。「穴場」の階段の所に着くと、まつり会場とは違って、明かりも少なくて暗かった。見えるのは川の上を飛んでる蛍の光の筋だけ・・・。凛太郎は目を暗がりにならしながら、
「姉ちゃ~ん!」
と呼んでみた。でも、返事がない。暗くてちょっと怖い凛太郎は早く奈津を見つけたくて何度も呼んでみた。でも、やっぱり、姉ちゃんはいないみたいだった。凛太郎が立ちすくんでいると、階段の下の方から、
「誰か探してるの?迷子になった?」
と声が聞こえた。どうもこちらに向かって上がって来ているようだった。凛太郎は一瞬怖くてドキッとしたが、近くに来たその人は高校生くらいのお兄ちゃんで、顔は暗くてよく分からないが、なんだか優しそうではあった。
「ここで8時に待ち合わせてる。姉ちゃんと。」
凛太郎はそれだけ言うのが精一杯だった。
「8時か~、まだ20分くらいある。ひとりじゃ心配だな。よし、お姉ちゃんがくるまで一緒に待っててあげるよ。」
見ず知らずのお兄ちゃんだったが嫌な感じはせず、凛太郎は素直に親切に甘えることにした。確かに1人で待つのは怖い。お兄ちゃんが階段に座ったので、凛太郎も密着しないように少し間をあけて横に座った。しばらく2人は無言で座っていた。蛍の光は相変わらず光っては消え、消えては光っている。すると、隣から歌声が聞こえてきた。明るい優しい感じのメロディ。横を見ると、お兄ちゃんが体を揺らしながら歌っていた。それは澄んだ高い声だった。声を伸ばすところが時々揺れる。歌は凛太郎が聞いたことがない歌だった。日本語の歌詞ではないみたい・・・。英語?凛太郎はよく分からなかった。でも、いつまでも聞いていたいような、そんな声だった。綺麗な歌声が蛍の光が舞う景色に溶けていく・・・。静かに歌を歌い終えるとお兄ちゃんがゆっくりこっちを見た。
「緊張、ほぐれた?」
というとお兄ちゃんは笑った。凛太郎は目が暗がりに慣れてきて、お兄ちゃんの眼鏡と白い歯だけは分かった。凛太郎も「うん!」とうなづいて笑顔を見せた。
「今日はお姉ちゃんと来たの?お父さん、お母さんは?」
お兄ちゃんが訊いてきたので、凛太郎は無邪気に素直に答えた。
「うん、姉ちゃんとバスで来た!帰りは父さんが迎えに来る!母さんは死んじゃっていない。」
お兄ちゃんは一瞬息を吸い込むと、
「ごめんね。変なこと聞いた。・・・バスで連れてきてくれるなんてお姉ちゃんは優しいんだね。」
と暗がりで一生懸命凛太郎を見ようとしながら答えた。凛太郎は、「うん。」とうなづくと、
「姉ちゃん、怒ったら、超怖い!でも、うん、まあ、すごく優しいかな。」
そう言って笑った。
奈津はまつり会場でお茶を買い、のどを潤すと、お茶を鞄に入れ、まつり会場を後にした。明るいところから少し離れると、一筋の光が奈津の周りで着いたり消えたりしているのに気づいた。
「あ、こんなに近くに蛍。」
奈津が手のひらを上に向けて蛍に近づけると、蛍は手のひらにふわりととまった。奈津は思わず、
「もしかして、母さん?」
とつぶやいてしまった・・・。蛍はじっとしている。奈津は続けた。
「母さんだったら、わたし、相談したいこといっぱいある・・・。凛太郎のこと、父さんのこと、サッカーのこと、勉強のこと、大学のこと、将来のこと・・。分からんことだらけ・・・。でも、今は一番好きな人のことを相談したい・・・。一番分からんくって・・・。」
蛍は相変わらず手のひらの上で静かに光を放っている。
「まだ、その人のことよく知らんのに・・・。悠介みたいに何でもかんでも知ってる訳ではないのに、それなのに好きになるってことある?」
奈津は手のひらの蛍に向かって話しかける。
「しかも、バリバリの片思い。昨日も目が合ったのは1回っきり・・。わたしのことなんか眼中にないって感じ・・・。」
手のひらの蛍がゴソゴソ動き始めて、こちらに顔を向けた。
「受験もあるし、サッカーもあるし、だから、傷つかんように、これ以上は好きになったらいけん・・・と思ってる・・・。」
そう言ったとき、蛍はフワッと飛び立った。ピカッピカッと光りながら飛んでいく。奈津は思わず追いかけた。
「母さん!」
奈津は見失わないように蛍の光を追いかけた。いつのまにか気がつくと「穴場」の階段近くまで来ていた。奈津は階段に2つの人影があるのを見つけると、追いかけるのをやめて立ち止まった。追いかけてきた蛍は・・・階段に座っている2つの影に向かって飛んでいってしまった。
「あ!蛍だ!」
凛太郎は喜んで、目の前を飛んでる蛍を両手でフワッと覆った。蛍はすぐに捕まえられた。そーっと両手をあけると、蛍がちょこんととまっていた。凛太郎とお兄ちゃんは顔を寄せ合って蛍を見つめた。
「わあ~、綺麗だね。」
お兄ちゃんが本当に嬉しそうに言うので、凛太郎は蛍をお兄ちゃんの肩に乗せてあげた。
その時、階段の上から、奈津の声が聞こえた。
「凛太郎?」
「あ、姉ちゃん!見て、見て、蛍つかまえた!ほら、お兄ちゃんの肩!」
奈津は凛太郎が知らない人と一緒なのを見て、慌てて、
「誰ですか?」
と強めの口調で訊いた。
「ほら、怖いだろ。」
と凛太郎はお兄ちゃんに言うと、
「姉ちゃんがいないから、一緒に待っててくれたお兄ちゃん。」
と奈津に向かって言った。
「あ、そうなんですね。それは、ありがとうございました。もう、わたしが来たんで大丈夫です。」
奈津はそのお兄ちゃんと呼ばれている人を不審に思い、早口で機械的にお礼を言うと、凛太郎たちのそばまで行き、凛太郎の腕を掴んだ。
「お父さん、もうすぐであっちのコンビニの駐車場に来るよ。帰ろう!」
凛太郎の腕を捕んで奈津が引っ張ったとき、お兄ちゃん・・・と呼ばれてる人が蛍を肩に乗せたまま立ちあがった。
「・・・ナツ?」
いつも体中の神経を動員して聞こうとしている声が顔の近くで聞こえた。奈津は思わず立ちあがった彼の顔を見上げた。こんなに近くても、暗くてはっきりは見えない・・・でも・・・きっとそうだ・・・。
「・・・コウキ?」
「うん。」
今、奈津のそばに立っている彼があの優しい声で返事をした。奈津の中で突然時間が止まる・・。
「ごめん。心配させた。お姉ちゃんが来るまで一緒に座ってただけだから・・・。この子のお姉ちゃん・・・ナツだったんだ。」
コウキはそう言ってから、
「お姉ちゃん来て良かったな。」
と凛太郎の頭をポンっと優しく叩いた。
「うん!!お兄ちゃん、ありがとう!お兄ちゃん、姉ちゃんの友だち?じゃあ、また、今度歌って!」
凛太郎はお礼を言うと、奈津の手を払ってかけだした。凛太郎に手を払われた奈津は身動きがとれなかった。ちょっとでも動くと2人はお互いの体に触れそうな距離にいたから。コウキの首の辺りに奈津の顔がある・・。ちょっと下の方からトクトクトクトクと心臓の音が聞こえる・・・。これは誰の音だろうか?わたし?それともコウキ?
「姉ちゃん早く!父さん待ってるかもよ!」
数10メートル離れたところから凛太郎が呼んだ。奈津は暗がりの中、コウキの顔を見あげた。コウキも目をこらして奈津の顔を見ている。
「呼んでるよ。行って。」
コウキにそう促されると、魔法がとけたように奈津の体は動けるようになった。ゆっくり後ろを向くとそっと歩き始めた。コウキは奈津の後ろ姿に腕を伸ばした。奈津の腕を掴んで引き留めようとした。帰したくないと思った。でも・・・。奈津の腕に触れそうで触れないところまで手を伸ばすと、コウキはぎゅっと手を握り、そっと腕を引っ込めた。その時、奈津が振り返った。
「コウキ・・・ありがとう。コウキがいてびっくりした・・・。でも、なんか嬉しかった・・・。」
それが奈津の精一杯の言葉だった。コウキの肩の上で蛍が優しく光ったのが見えた。コウキの、
「うん。」
と言う声を聞くと、奈津はくるんと向こうを向くと凛太郎のところまで走って行った。そして凛太郎に追いつくと、2人で振り返ってコウキに手を振った。コウキも2人に向かって手を振った。その時、コウキの肩の蛍がスーッと空に向かって飛び立った。温かい光を放ちながら・・・。
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