第21話 『霧』

 慈悲も迷いもなく、剣が落ちて来た。

 だが、それは、リディアの身体を捉えることはなく、凍り付いた大地に突き立った。

 身体の中を切り裂く激痛に堪えて、リディアは大地に突き刺さったフェンリルの刃に目を向けた。刃から鍔、柄へと視線を上げていく。そこには柄を握ったシャーリンの手があり、腕があり、顔があった。

 その顔が、生身の生気を取り戻している。半顔が凍り付いていたはずのシャーリンではなく、二年間にも見た、あの血色そのままのシャーリンだった。


「……ふざけんじゃあねえぞ……」


 身体の方はまだ半身が凍り付いている。だが、溶解が始まっているのか、蒸発する白い靄が、身体から細く立ち上っていた。


「……ふざけんじゃあねえぞ、フェンリル。この野郎を殺すのは、おれだ! てめえは引っ込んでろ!」


 叫ぶが早いか、右手に握っていた魔剣の柄を、シャーリンは自分の手であるにも関わらず、反対の左手で、まるで無理矢理もぎ取るような力で持ち変えると、瞬く間に巨大な両刃を振り上げ、自身の右腕、肘から先を斬り落とした。やはり凍り付いているのか、血は多く流れることはなく、代わりに氷が割れたような、高い音が響き、次いで腕が落ちる、鈍くて重たい音が余韻を残した。


「……これでいい。さあ、立て、リディア。殺してやるから、立て。」

「……首だけになっても、おれの喉笛を食いちぎらんとする、と言ったが……」


 狂気じみたシャーリンの声に促されるように、リディアは立ち上がった。臓腑の痛みは消えそうもなく、失った血は戻らない。それでも、まだ戦える。


「どうやら、本当らしいな。」

「おれのことを理解してくれて嬉しい、といったじゃあねえか。てめえを殺れるなら、次は足でもくれてやる。」


 完全に血色を取り戻したシャーリンが笑う。逆立つ赤毛が、炎のように揺れた。


「だが、てめえを殺る瞬間の高揚! てめえの内臓を抉り出す感触! てめえの命の火が冷めていく熱! それは、それだけは、誰にも譲らん! てめえを殺すのは、このおれだ!」

「……お前にシャーリンは使えんな、フェンリル。」


 自分も『統制者』を使いこなしている感覚はない。だが、少なくともリディアは、『統制者』と折り合いを付けることに成功した。魔剣に使われるのではなく、自らの意思を宿す側に回ること。それは単に使う側、一方的に使役する側とは異なる。交渉し、折り合いを付けながら、共に進むことに、リディアは成功した。


「……どちらが主導権を握るのか。それを争っているのなら、おれには勝てない。」

「言うじゃねぇか、このくそがっ!」


 シャーリンが魔剣フェンリルの巨大な刃を振り上げる。だが、そこには先ほどリディアを苦しめた、長大に伸びる魔力はなかった。リディアはゆっくり歩み出て、『統制者』の紅い刃を構えることもせずに、その刃の落下点に入った。

 フェンリルの青い刃がリディアの頭を叩き割り、胸までを裂いてその肉体に食い込む……その直前、巨大な刃は何かに弾かれて、リディアの脇に落ちた。

 シャーリンがすぐに剣を持ち上げる。返し刃でリディアの胴を薙ぐ。だがそれも、何かに弾かれて落ちる。今度は落ちるだけではなく、弾かれたシャーリンが態勢を崩すほどの反動を伴っている。

 慌てた様子でシャーリンが一歩退く。リディアは落ち着いて、一歩距離を詰める。

 シャーリンがもう一太刀、リディアの肩口を狙ってフェンリルを落としてくるが、これも見えない何かに弾かれる。

 いや、三度目にして、それは可視化できる状態になりつつあった。

 紅い、霧。

 リディアの意思に反応し、『統制者』を通して具現化されるその紅い霧は、フェンリルと接触する瞬間だけ、その場に濃密に密集することで巨大な物質である氷の両刃剣すらも弾き返す硬度を持った。

 リディアは自分の意思を『統制者』に通わせる。あくまでも霧であるその力は、受け止めた刃を弾くだけではなく、包み込むことも可能だ。リディアはそれを『統制者』に伝えると、硬質化した紅い霧は一度色を薄めると、次の瞬間には青い刃を包み込み、その場に固定した。

 シャーリンが驚愕の表情を刻む。声が漏れる前に、リディアは動いた。

 一歩、強く踏み込む。その足を軸にして、空中に固定された魔剣フェンリルの鍔を、下から斬り上げた。シャーリンの左手に握られた魔剣が、力任せに宙を舞った。


「さらばだ、シャーリン。」


 咄嗟に徒手空拳を繰り出す動作を取ったシャーリンに、リディアは冷たく言い放つと、さらに一歩、前に踏み込みながら、振り上げた『統制者』を横倒しにして、シャーリンの胴を薙ぐ一閃を見舞った。氷を斬った感触と、続けて生身を斬った感触があり、温かな血液が右に斬り抜けたリディアの背中に降りかかった。

 反射的な動作で剣を振るい、『統制者』に付いた血を落とす。そして、鞘に紅い刃をかけたとき、リディアの背後でどさり、と重たいものが倒れる音がした。


「お前が言ったことだ、フェンリル。」


 リディアが『統制者』を鞘に納めて振り返ると、シャーリンは仰向けに倒れ、魔剣フェンリルは投げ出され、ただの鋼鉄の塊となっていた。刃の青い輝きは、失われていた。


「この戦場は、お前の戦場だった。周囲を凍り付けにした時点では。それを二度、霧散させた。その時点で気付くべきだったな。」


 ここはもう、お前の戦場ではない、と。リディアは頭の中でだけ、言葉を作ったが、それを音にすることはなかった。そもそもそれ以前の言葉も、純粋なリディアの言葉ではない。

 周囲を凍り付けにし、空気までも氷の結晶とし、息を吸うだけで刃を敵の体内に送り込める、支配した戦場を作ったフェンリルと、取った方法も原理も、同じだった。空気中に濃密に満ちた血の霧を、『統制者』の力で操り、防具とし、武器とした。

 リディアは大地に横たわるフェンリルに歩み寄り、持ち上げた。その時、臓腑に痛みが走り、堪えられずに膝を付いた。暫く、動けそうにない。


「……これは、あいつに運ばせるか……」


 リディアの脳裏に、眉間に皺を寄せた長身の僧兵が現れて、消えた。次いで金色の髪の少女が現れて、心配そうな顔を見せる。


 ちゃんと勝ってやったから、持っていけ。


 リディアは現れたその少女に、音にはせずに伝えると、少女は安心したように笑って、消えた。

 少女の笑顔を見ながら、リディアは珍しく、少し休もうか、と考えた。休むことができるだろう、と。自分の役割は果たした。これが誰かと共に戦っている、ということなのだろう。一人ではない、という心持ちなのだろう。

 座り込んだリディアは、意識を閉ざす。ゆっくりと、全身の痛みが遠くなる。だが、完全に失ってはしまわないように、根底で繋ぎ止める。ここで意識を完全に失えば、『統制者』は立ち所にリディアの肉体を支配し、自身の目的の為に動き出すだろう。

『統制者』との共生を選んだ瞬間から、リディアは眠ること、休息を取ることを否定された。だが、それでも、いまだけは、いいのではないか。共に戦う仲間に任せて、少しだけ立ち止まっても、いいのではないか。そもそも、もう、動けそうもない。


「全く……」


 先の言葉があるわけではない呟きを吐き出して、リディアは静かに微笑んだ。

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