一作目『霧煙りの灰色』
1.
季節は春を終え、花弁を散らした桜は、来る夏に向けて青葉をこれでもかと広げつつあった。これに葉を透かす陽光でも加われば、もう夏間近と誰もが思えるのに。
それなのに、空は――、空だけが、霧がかったように白み、晴れきれないでいた。
指間に挟んだ煙草から伸びる紫煙は、ゆるゆるとそんな物憂い空に滑るように溶けていく。そして、それと似た煙が向こうにも――。
「終わったか」
彼の佇む駐車場からは火葬場が見えていた。白塗りの箱型から突き出た二本の排煙筒。そこからは細くなった煙が蛇のように吐き出されている。
(――炉に入ってから一時間……。)
幹人はフィルター近くまで短くなった煙草をポケット灰皿にねじ込み、その建物へと歩を進めた。
足は重くない。
心は平静を保っている。
「……大丈夫だ」
わざと口に出して言って、手のひらで顔を揉んだ。油分の抜けきった荒れた肌がひりりと刺すように痛みを訴えた。
「大丈夫……。ああ、大丈夫」
ざらつくような焦燥感も、纏わり付くような悲壮感も今はない。
怒りも、悲しみも。
それらはとうに過ぎ去ってしまっている。
ただぽっかりと、〝父はもういない〟という現実だけが、胸の
彼、小田切幹人にとって、父――小田切
四月末の連休、旧知の者と会うと言って家を空けた学人は、不運にも事件に巻き込まれ、その際に発生した火災で命を落としていた。検死を終え戻ってきた遺体は、全身を包帯で包まれた有様。顔の包帯を解き、遺体と対面した幹人は、辛うじて父と覚しき輪郭を認めるのでやっとだった。
当初幹人の胸中には、なぜ父がそんな事件に巻き込まれ死ななければいけなかったのかという憤りが膨らんだ。しかし、遺体の傍らで泣き崩れる母の姿を認めると、そんな感情はすぐに引き潮のごとく彼方に押し流されていった。
波が去った後、薄く微かに揺れる
(――にしても……。わかってたんじゃあないだろうな。)
学人の死は突然のものではあったが、しかし思い起こせば、不可解な点があったように幹人には思えてならなかった。
生前、死の一ヶ月前までにおいては特に、である。
(――病院の件といい……。)
小田切の家は地方の島とはいえ、石垣ではわりかし名の知れた旧家である。家は代々病院経営を生業としてきた。
昨年度末――つい三月下旬までその病院の院長を務めていたのが父である学人だった。けれど彼は「もう自分が看てもらわないかんような年じゃからのう」との一言で、あっさりとその椅子を息子の幹人に明け渡してしまった。
まさか彼がそんな行動を取るとは誰も思っておらず、一時期病院内はざわついた。息子の幹人においてもこれは同様であった。というのも、そんな言葉は、学人にはまったく似つかわしくなかったからである。
常から溌剌さを発散させる彼は、患者のみならず、激務に疲弊した病院職員をも励ます、ある種の起爆剤のようなものであり、病院における精神的な動力部とも呼べる存在だった。
暗く陰鬱な空気を漂わせがちな病院という環境における〝光〟と、そう呼んでも遠からずといったところだろう。
そんな彼が病院から退いたのである。
以前より、病院内の一部からは、今年で六十八になる彼をいつまでも現場に立ち続けさせるのは躊躇いを覚えると、そんな懐疑的な見方もあった。たしかに六十八と言えば、人によっては隠居生活を開始しても不思議ではない年齢である。けれど、そんなことを言う彼らも彼らで学人の引退を望みながら――影で囁きながらも、学人に関してはまだまだ遠い先の話だろうと、そう思っていた節があることもまた事実であった。
では、幹人自身においてはどうかと言うと、いずれは引退もあるだろうとは考えていた。けれど、それはまだまだ先のこと、遠い未来の話だと、その程度の認識であった。
あの仕事一筋の父が、実務から離れるなど考えられない。
そういう意識がはっきりと幹人の中にはあったのだ。
けれど、そんな未来は唐突に訪れてしまって……。
そうして先月――今年度初めの四月、幹人が院長として任に就くことに相成った。
彼がその椅子に収まることにおいて予想された病院内部からの突き上げは、意外にもまったく発生しなかった。学人はそんなことまでをも見通し、以前より上手く根回しをしていたようなのである。
これが、幹人が父の死にどこか用意周到さを感じてしまう理由のひとつであった。
(――それに、母さんのことだって……。)
同時に、それまで仕事一辺倒だった学人は、院長を辞したためにできた自由な時間を、長らくできていなかった妻への献身に当てた。病気がちだった母に寄り添い、体調が良い日には事々に記念日と称して日帰りの旅行に母を連れ出した。
そんなふうにしてこれまで自分がやり残していたこと、できなかったことをひとつずつ、学人は整理していっていた。
学人がこの世を去った今となっては、それら行動のすべてが、これから自身がどうなるかを正確に予期していたがための行動としか考えることができず――、
「ん、なんだ?」
ここ一ヶ月の父の姿に思い馳せていると、礼服のポケットで電話が鳴った。病院用のではない、幹人個人のものだった。
「もしもし」
『もしもし、その、あの。えっと……』
年配の女の声だ。
「どちらさまですか?」
『
「しみず?」
(――どこだろう? どこかで聞いた名前のような気がする。)
『小田切……幹人さんのお電話で間違いありませんか?』
「ええ、そうですが……。すみません、どちらさまですか?」
『ああ、そうですね、わかりませんよね。すみません。学人さんの義理の姉の、染水フミです』
それを聞いて幹人はようやく、
(――しみず、しみず……。ああ、父さんの旧姓がたしかそんな名だったはずだ。)
「義理の。……ということは」
『学人さんのお兄さんの
つまりは、幹人から見て叔母にあたる人物ということになる。
『初めまして。ごめんなさい。こんな状況になってからご挨拶をするようなことになってしまって』
「いえ、こちらこそすみません。父のこと、連絡できずにいました。ほんとに申し訳ありません」
口でこそ謝罪の言葉を並べていた幹人だったが、相手は父の死に際して初めて連絡を寄越してきた親戚である。幹人自身、彼女との関わりはこれまで一切ない。自然と彼の警戒心は高まっていた。
『そんなに謝らないで良いの。これまでやり取りをしてこなかったこっちが悪いんだから。学人さん、ほんとに残念です。お悔やみ申し上げます』
「いや、ほんとにすみません。ご丁寧にありがとうございます」
『これから大変よね。病院のこととかいろいろあるのだろうし』
「そうですね。これからは私がなんとかしていかなくてと思っています」
『それにお母さんのことだって」
「ええ、まあ……」
「香苗さん、元気にしてる? お身体また悪くされたりしてない?」
「病気がちなのは昔からですから。今も病院にはかかっていますが、それでも落ち着いています」
『そう、良かったわ。幹人さんがしっかり支えてあげないと』
「はい。……わかっています」
「……」
「……」
そんな近況を交えた社交辞令なやり取りが二三あってから、
『それで……、なんだけど……」
女性は切り出しにくそうにしながら、本題に入った。
『葬儀にも行けていないのにそんなことをって思われるのはわかっているのだけど。……葬儀はね、仕方なかったの。わたしたちももう年だから。遠出ができる身体じゃあないから。それで……、幹人さんもみんな大変な時期だってことはすごくよくわかっているの。忙しいことも。でも、やっぱり聞いておかないとって思って。――大事なことだから』
「はぁ、なんでしょう?」
電話越しでさえ明らかな躊躇いの間が感じられた。
『学人さんの……、お墓のこと。なんだけど……』
「お墓……」
『ええ、そう。学人さんは小田切の家に婿養子に入った身だから、そっちの家のお墓に入るんだろうとは思うの。でも、やっぱり……。うちもこういう例は初めてだから、わからなくて』
「こちらに小田切の家の墓はありますから、そこに入る予定になってますが。それのどこにわからないことが?」
『いや、ええと……そうよね、うん。やっぱりそうなるのよね』
女性の納得の声音は、どこか慌てた調子が混じって歯切れが悪い。
『別にそちらの家のことを悪く言うつもりはこれっぽっちもないの。長くそっちでやれていたんだから、大丈夫だろうって思ってる。けど、けどね、わたしたちはただほんとに学人さんの供養を思って言うのだけど、寂しくやないかとも思っていて。学人さんの弟の卓治さんもそう言ってて……。それで提案があるのだけど……』
そこまで言うと女性の声は小さくなった。
どこか幹人からの言葉を待っているかのようだった。
「…………」
「…………っ」
しかし、幹人は切り出さず、相手の言葉を待った。
これは医師として以上に、経営者として病院運営の一翼を担っていた彼に染みついた、ある種の癖のようなものだった。
「えっと……」
「はい」
「その……、分骨をできないかと思って」
「分骨?」
『ええ。一応、こっちのお寺にも確認をしたら、まったくない例ではないそうなの。成仏と分骨は関係ないから大丈夫だって。むしろ故人を偲ぶ人がちゃんといることが大事だっておっしゃってくださってて。それで……。どうかしら?』
「そうですか。わかりました」
『え? じゃあ』
「その件は保留にさせてください」
『そ、そんな』
「いえ、別にお断りをしようというわけではありません。私ひとりでは決められないことなので、一旦母と、それからこちらの親族にも相談をさせてください」
『えっと、だったら!』
女性は語勢強く焦った声で、
『分骨証明書!』
と、先ほどまでのか細い声から一変、声を張り上げて言った。
「分骨、証明書? なんですか。それ――」
幹人が訊ね終えるより早く重ねるようにして、
『火葬した後に発行してもらう書類。だいたいが埋葬許可証か火葬証明書になるわ。お寺に納骨するとき、それが誰の遺骨なのか証明するために必要になるの。ひとつのお墓に入れるときはそのどっちかだけで良いのだけど、分骨するときはそれ以外に分骨証明書が必要になるの。火葬場で発行してもらえるから、分骨する可能性があるって伝えて準備してもらって。別の場所に納骨後だったら遺骨証明の書類発行に時間がかかるのよ。宗派によっては分骨できないとかなんとかごねられて面倒になることだってあるし。納骨前に必ずやっておくこと。いい?』
「えっと……」
驚き言葉を失う幹人に、女性は追い打ちをかける。
『幹人さん、聞こえてる? いい? わかった?』
「は、はい。ええ、……わ、わかりました」
『ふぅ。えっと、それじゃあ、幹人さん。よろしくお願いします』
スイッチが切り替わるかのように弱々しい言葉遣いに戻るなり、挨拶とともに電話は切られた。
「……なんなんだ、今のは」
通話の終了した画面を幹人はじっと見つめていた。
果たして彼女の言う通りにして良いものかどうか。
相手の真意は測りかねるが、親戚を騙った詐欺の可能性も十分にある。また、仮に親戚というのが事実だったとしても、生前の学人は生家について多くを語ってはこなかった。それゆえに相手方の考えていることが見えない。それこそ先ほどの語り口を考えるに、腹に一物ありそうな感じもあって……。
けれど結局――。
幹人は、フミの言った通りに分骨証明書発行の手続きをした。
火葬場に分骨の可能性がある旨を伝えると、書類は簡単に発行された。また遺骨においても、学人の巨躯を支えていたそれは、事前に準備していた骨壺に全てを詰めるのは困難であった。よって、施設に別の容器を準備してもらい、遺骨を詰めることになった。まるで初めから〝分骨〟を予期して仕組まれていたかのように、自然な流れから、遺骨は二つの器に分けられたのである。
そのような経緯となったことに、幹人はどこか気味の悪さを感じていた。
まるで不可視の誘因力がそこに働いているかのような……。
「ああ、そういえば」
と、まだ熱気を発する遺骨を前に彼は思い至る。
フミと名乗ったあの女性は、どのようにして父の死を知ったのだろう。
巻き込まれた事件の特異性を考えれば、新聞やニュースにその名前が出た可能性もあるにはあるのだが……。
しかし、それにしても――。
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