四夜の迷霧
知和知和
間章1
私がその奇妙な話たちを聞いたのは、二○一七年も残り一ヶ月と差し迫った頃だった。
世間では、数多の出来事が飛び交っていた。
天皇陛下の退位が正式に決定し、平成の終焉が確定した。米国からは新大統領の初訪日があり、それを意識してか意識せずか、北の行動は過激化の一途を辿り、核と弾道ミサイルによる挑発は連日のように報道されるほどだった。世界経済は地政学的なリスクを意識しながらも成長を続け、日経平均株価はとうとう二十五年ぶりの高値を付けるにまで至った。棋界では藤井四段の連勝。羽生棋聖の永世七冠達成……。
二○一七年の暮れは、そんなニュースたちに満ちていた。
かく言う私はと言うと、それらの話題を耳にしながらもさして気にもせず、自分とは縁遠き世界の話とばかり思っていた。
……さして気にもせず。
いや、それは嘘だろう。
あと三週間もすれば二十八を迎える――変化のない私。
目まぐるしく移ろいゆく――変化あふれる世界。
自分と世界を漠然と比較し、感傷的になっていた。
二十八。
そう、二十八にもなれば己の身の丈がわかっても良い年齢。
できることと、できないこと。
変えられることと、変えられないこと。
そうした現実と理想のバランスが取れても良いはず。
しかし私には、それができないでいた。
夢は叶うと幼少期の自分を引き摺り続けている。
華々しく成功してゆく者を横目に、妬ましさを募らせている。
何か行動を起こせば良いのだろうが、時間がないと理由をつけては行動できずにいる。
憧憬という光は、醜く肥えた自尊心へと姿を変え、とうとうその肉を腐らせ始めていた。
そんな折のことである。
ひとつの幸運が舞い込んできたのは。
社会人一年目にギャンブル感覚で保有していた某企業の株。それが急上昇を果たしていたのだ。億り人には及ばないが、それでも、私にしてみたら相当の大金を手にすることができた。金融業界に就職をした友人のKから連絡を受けなければ、そのような株を保有をしていたことさえ忘れ去っていたことだろう。
予想だにしていなかった臨時収入を得た私は、考えた末、予てより検討していた自動車の購入に踏み切ることにした。
手に入れた車は、年式こそ十一年式だが、走行距離は六万キロにも満たない極めて状態の良いマツダNBロードスターだった。
購入は十月の中旬。
これから迎える冬を思うと、乗り回すのは無理と思っていたが、その年の冬は例年に比べればまだまだ暖かく、心配は杞憂に終わった。
私は時間を見つけては、ドライブに出掛けるようになっていた。
けれど――、と振り返ってみて思う。
そうした爽快な行為の背後には、常に後ろ暗さが付きまとっていたのではないか、と。
〝付き纏う何か〟の影に脅え、必死に逃避行を続けていたのではないか、と。
そもそもの話、金銭に余裕ができたのであれば、それをもとに夢への足がかりにすれば良いのである。
しかし、私はその選択をしなかった。しなかったのだ。
これは私の逃げ。心の弱さなのだろう。
そうして、私は逃げに逃げ続け、日々を過ごした。
あっという間に時は過ぎ、暦は十二月に入っていた。
年の瀬も近づいて、誰もが一年の終わりを意識し始めていた。
そんなとき、
「ちょっとうちに遊びに来んか?」
大学時代の友人――Hからそんな誘いの電話があった。
Hは、私のひとつ下の後輩である。
学部こそ違うものの推理小説研究会に所属していたこともあって、少なからぬ交友があった。
推理小説研究会と銘打たれているが、その実、サークルの内情としては、麻雀やボードゲーム、TRPGに興じる娯楽遊戯中心のサークルであった。Hとは昼とも夜とも分からなくなるまでそれらゲームに没頭したほどの仲である。
彼は、大学を卒業すると疎遠になってしまう者が多い中、その後も気兼ねなく話ができる友人のひとりであった。
私は二つ返事でHの誘いに応じ、母校のある山陰――鳥取県へと向かった。
旧友と昔を懐かしみ、楽しく遊んで酒を呑み……。
最後には社会人らしい愚痴の言い合いになり……。
行きの道中、私はそのような絵を想像し、どこか懐かしい気持ちを抱いていた。
話題こそ違えど、きっと大学時代の怠惰で楽しい時間を再体験できるだろう、と。
Hは大学卒業後は某大手製薬会社に入社し、大学近くの営業所に勤務していた。元々出身学部が医薬系だったこともあり、現在は大学病院との取り次ぎが主な仕事になっているとのことだった。忙しくも立派に、社会人として自立していた。
「おお、よう来たな。寒かったやろ。中入り」
大学時代は自らの欲求に従い行動する彼だったが、生活様子をみるに、その影は寂しさを感じさせるまでに消えていた。
ひとり暮らしにしては広めな2LDK。
部屋の隅には片付け切れていないダンボールが積まれ、薄らと埃が積もっている。ダンボールにはマジックで『ボドゲ』とだけ書かれていた。
一方で、生活圏だと思われる机の周りには、自社製品のパンフレットが積まれ、いくつもの付箋が貼られていた。ぱっと見でわかる範囲でもかなり書き込みがされており、商品説明をどうすべきかなどが彼らしい角張った字体で並んでいた。
それを見て私は、「あのHがこんなに変わってしまって。これが社会人になることなのか」などと勝手に傷ついていた。
そんなH宅で二人で酒を呑みつつ話をすると、彼の性格面にも変化を感じ取れた。
「お前、全然呑んでないやないか。もっと呑めって。俺? 俺は明日仕事入ってしまったんや。悪い。今日はお前のための日なんやから。いいから遠慮すんなって。ほら呑め呑め」
学生時代から言いたいことは面と向かってずばずば言う彼だったが、社会人になってその物言いには磨きがかかっていた。押しの強さというか、相手に有無を言わせぬ圧力とでも呼べば良いのだろうか。そうした強さが垣間見えた。
「お前、旨そうに呑むなあ。……やっぱ、俺ももらおうかな。うん、そうだな。そうしよう。乾杯!」
その上、嫌みなところがないのが、彼の良いところだ。
この性格は、営業向きなのだろう。
お互いの近況を粗方話し終えて、一段落ついたときだった。
「お前、まだ小説書いてるか?」
Hは目頭を揉みながら、気分悪そうに訊ねた。
あきらかに呑み過ぎた様子だった。
「ああ、うん。まあ、ぼちぼちかな。――H、呑み過ぎたか?」
「いや、大丈夫だ。けど、そうか。まだ書いてるか……」
目を上げると、Hが私を見つめていた。
私をじぃと見つめる彼の瞳には、伏し目がちに、けれど目を逸らしきれないでいる私が映っている。
「H……、Hはどうなんだよ。書いたりしてないのか?」
「俺か……。ここにはあるんだけどな、やりたいネタが」
彼はこめかみの辺りを指先でこつこつと叩く。
「けど、無理だ。時間がない」
その言葉は私を安心させると同時、ひどく昏いところへと気持ちを追い込む。
「なんていうかな……。一日中仕事してヘトヘトになって帰ってきてさ。それから、じゃあ、書こうかって気持ちにはなれないんだ。やりたいって思っても、創作にまで回せる心の余裕がない」
「ああ。わかるかな、それ……」
なぜだろう。
こういう話になることは十分に想像できていたはずなのに。
それなのに、心は軽くなるどころか、ずっしりと重くなっていく。
流砂にずるずると引き込まれ、徐々に身体の自由が奪われていくかのような……。
「ああ、そうか。これは……。俺にとっても、だったのか」
「ん? H、なんか言った?」
「ああ、いや。なんも。なんでもない」
それからお互いに沈黙の時間が数分続いた。
私はこれで今日の宅呑みも終わりだろうなと思い始めていた。
すると、
「俺にも守秘義務があるからな、仕事関係で知ったことはあんまり詳しくは話せんのやけど……。でも、お前にはいいやろう。決めた。お前には全部話そう。最初からそのつもりやったんやから」
「なんだよ、急に」
「いやな、実はお前呼んだんは、ある話を聞いてもらうことが目的やったんや。お前がまだ小説書いてるっていうんやったら、ぜひ聞いてもらいたい。俺がこの話を聞いたんは、どう考えてもお前に話すためなんやないかって思えてならんくてな」
「何をそんなに改まってから。別に話なら電話でもなんでも……」
「いやな、それが電話では説明が難しくてな。やっぱり顔を見てやないとって思って」
そうして、彼が切り出したのが、とある人物経由で聞いた奇妙な話たちである。
彼が守秘義務があるからと前置きをしたのは、そのとある人物というのが病院関係者――元医師であったからである。
彼の語る内容には、ある特定地域を指す固有名詞が多数登場しており、素人の私であっても、詳細な場所の特定が可能と思えるほどのレヴェルで、その内容は語られた。
けれど、話を聞いた今になって思う。
(今とはいつのことだろうか?)
あんな話を聞きべきではなかった、と。
(本当にそう思っているのだろうか?)
絶対に避けるべきだった、と。
(私は、望んでいたのではないだろうか?)
だって、あんなものを聞いてしまったら……。
これから語る内容は、Hが語ったことを私なりに手を加え、できうる限り明瞭に、けれどぼかすべきところはぼかして記載したものである。
都合上、
あくまで非現実の出来事であると、少なくとも読者の皆様においてだけは、そう認識していただきたい。
Hの話を基にした小説的再現である――、と。
あくまで小説である――、と。
そんなふうに読者の皆様には理解してもらえたら幸いである。
これから語る三編の話は、Hの知り合いの元精神科医――仮に名前をM氏とする――、彼からの情報によるものであることも、あわせて記しておく。
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