妖精さんは紫煙がお好き
如空
一度目の訪問
第1話 煙幕の妖精、Smokin' fairy
「はあ、今日も大変だったなあ。あの作家は頑固だから、納得がいかなければ期限なんて平気で伸ばそうとするし…」
そう愚痴ったのが、いけなかったらしい。
「最近は、いつもいつも仕事の愚痴ばっかり。昔は、シュウはもっとカッコ良かったのに、今では薄汚くて地味なファッションだし、編集者になってからのシュウは、正直見苦しいわ。別れましょう」
その一言だけ言って、彼女はお金だけおいて、せっかく予約したフレンチレストランを飛び出してしまったのだ。
「癖の強い作家を相手に疲労困憊した挙句、失恋も重なるとなあ…。どっかに、飲みに行くか…」
今、私は、繁華街の裏路地、穴場となるようなバーを探し求めて歩いている。
強いスコッチでも啜って、明日からの精気を付けなければ、正直やってられない日もあるだろ?
そういうことだ。
泣きっ面に蜂の日には、静かなバーで飲むに限る。
無論、どこか固定の常連バーに足を運んでもいいのだが、常連客として飲む店だと、どうしても世間話ついでに、話したくないことまで話してしまいがちだ。
だから、本当に嫌な気分になった時は、初めて行くお店、話したいことを自分で選べるお店に足を運ぶことにしている。
そして、今日たまたま目についたのが、今私の正面に見えるバー、Smokin’ fairyだった。
上品にタバコをたしなむ妖精のシルエットが、ふんわりと浮かび上がるピンク色の光。
上品なカリグラフィー体で記された、Smokin' fairyの文字。
会談を数段上がり、扉の前に立つと、ほのかに、昔風の洋楽が聞こえてくる。
「Moon Riverか…」
オードリー・ヘップバーン主演の映画『ティファニーで朝食を』の主題歌、Moon Riverが流れるお店。
銀幕の妖精と、煙幕の妖精の住まうお店。
私は、その不思議な神秘に魅入られて、このお店へと吸い込まれるように入っていったのだった。
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中にいたのは、20代後半ぐらいのルックスの女性バーテンだった。
「いらっしゃい。おや、ご新規さん?珍しいわね。今時、あなたぐらいの若い子で、バーに興味を持つ子、ましてや古き良き愛煙家コミュニティーが残る、うちの店に来る人なんて、めったにいないからねえ。
さあ、どうぞ、こちらのお席へ」
初めての客を見て、明るい茶髪によく似合う笑みを浮かべるバーテン。その穏やかな笑顔が、不思議と私に安心感を与える。
案内された席に座ると、バーテンは、早速私に声をかけてきた。
「あなた、うちに来たということは、恐らく愛煙家なのでしょう?わざわざタバコを吸う妖精のロゴを掲げているお店には、非喫煙者、特に嫌煙家たちは入らないものだからねえ。
それで、今日は何を飲みたいの?」
私は、メニューの中に書かれている適当なスコッチを選ぶ。初めてのお店で飲むものは、目についた銘柄にすることに決めているのだ。
「このスコッチを、ロックで」
「了解。
ボトルキープ、するかい?うちにふらっと来たお客は、かなりの割合でリピートするからねえ」
「いえ、今日はそこまでお金を持ってきていないので」
「そう。分かったわ。それじゃあ、はい、どうぞ」
瞬く間にロックグラスにウィスキーを注ぎ、程よい大きさの丸い氷を浮かべるバーテン。
若いのに、随分手慣れているような印象が、私にとって好ましいものであった。
渡されたスコッチを一口、口に含みながら、私はこのお店の中を見回す。『ティファニーで朝食を』や『ローマの休日』をはじめとしたいくつもの映画の中の、オードリーの喫煙シーンのポスターが貼られ、Moon Riverが流される店内。
壁やフロアは木目調で、古き良き時代をイメージさせる作りになっている。
ポッ、とマッチの火がともる。
見ると、バーテンが、英国系紙巻タバコのJPSに、火を点けている。黒い箱に浮かぶJPSの金文字が、彼女にはよく似合っている。
一口吸ってから、彼女は言う。
「あなたも吸うのでしょ?マッチ、試してみるかい?」
穏やかな笑顔で差し出されたマッチを、私は断る気にはなれなかった。普段はライターで吸っているので、マッチは実のところ初めてで、その感触を試したいとも思った。
それで、私は、バットの箱を出しつつ、言った。
「それでは、試させていただきますね、バーテンさん」
彼女の浮かべていた笑顔が、少しだけ明るくなったように感じた。
「私のことは、妖精さんって呼んでね。みんなそう呼んでいるし、何せこのお店は、Smokin' fairyだからねえ」
これが、私がそののち足しげく通うようになる、愛煙バー、Smokin' fairyとの出会いであった。
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