38.理屈と感情は別物だ。

 放課後。天城あまぎは、まだ試験期間という空気の残る校舎の、そんな空気とは隔絶された場所にいた。


 屋上である。


 学校の屋上などといえば聞こえはいいが、実際の所、その面積の半分以上は生徒どころか教師でも立ち入ることは出来ないし、出入りできるスペースも、周りがこれでもかと言わんばかりに頑強な金網で二重に囲まれているし、生徒が立ち入ることも基本、許可されることがないと聞く。


天城が見る限り、金網は随分新しいもので、触ってみてもびくともしなくて、高校生の一人や二人では到底壊したりすることは出来ないように見えるし、転落事故など起こりようもないと思うのだが、もしもの事態が起こったときに責任を取りたくないから開放しないのだ、という話を昔、やなぎから聞いたことがある。本当かどうかは分からない。


 今、天城はその男を……いや、その男が連れてくるはずの久遠寺文音を待っている。


 待ちながら、天城はもう一度思考を巡らせる。


 本当にこれでいいのだろうか。


 久遠寺くおんじはきっと、理屈では理解しているはずなのだ。天城や星生には、久遠寺を騙してやろうなどという発想がないことも、二人がむしろ久遠寺の為に動いていたことも、それによって鷹瀬との勝負がある意味で公正なものになったということも、全て理解しているはずなのだ。


 それでは何が飲み込めないのか。


 何故、久遠寺は現代文化研究部と、天城たちと距離を置いたのか。


 それは、無条件に信じ切ってしまっていた。自分に対する反省なのではないだろうか。


 久遠寺は恐らく嘘が嫌いだ。隠しごとをするのも、されるのも苦手なのだろう。だからこそ中学校時代は全く自らを偽らないでいたし、そうすれば相手も嘘をついたり偽ったりはしないだろうと考えていたはずである。


 しかし実際は違った。


 だから久遠寺は外面を作るようになった。


 そうしておけば、踏み込まないでおけば、どんなに嘘をつかれようが、気にならないから。


 そうやって心の平穏を保っていたし、これからも保っていくつもり、だったのだ。

 ところが、そこに土足で踏み込んでくるやつがいた。初めは追い出すつもりでいたが、次第に”こいつならば”という淡い期待が生まれる。その期待感は気の緩みを生み、やがて同じミスにつながった。久遠寺はそう考えたのだ。


 もう同じミスはしない。


 心など開くことはない。


 それが今の久遠寺の決断である。


 だとすれば、天城が謝ろうが、言い訳をしようが、今後に対しての約束をしようが全くの無意味である。久遠寺は別に天城に対して何かの感情を抱いている訳ではない。彼女が感じているのは、軽率にも同じ間違いを繰り返してしまった、己の愚かさに対する軽蔑に他ならない。それに対して、いくら理詰めで納得させにかかっても上手くいくはずがない。感情で納得していないのだから、その翻意もまた、感情によってでしかありえない。少なくとも天城はそう見ていた。


 思う。


 こんな時、明日香あすかならどうするだろうか。


 考えるまでもないことである。そもそも明日香なら、こんな事態はあり得ない。彼女にはそれくらい敵がいなかった。もちろん、最初からそうだったわけではない。


 元々敵を作らない性格ではあったが、それでも人気者ということでそれなりのやっかみはあった。天城の近くにいることが多かったこともあって、あまり目立たなかったが、それなりにモテてはいたし、それ故に最初、女子からの評判は悪かったのを覚えている。


 しかし、いつしかそんな悪評はすっかりと無くなっていた。


 それが都筑つづき明日香という人間であり、天城がかつて追い続けた背中なのだ。


 今、天城の前に明日香はいない。きっと彼女がここにいたのなら、誰もが傷つかない最良の選択肢を選びとるに違いないし、そもそもこんな事態にはならなかったかもしれない。彼女ならばきっと、久遠寺文音という人間が一体何を考え、何を嫌っているのかもすぐに理解しただろうし、地雷を踏み抜くようなことはまず無いだろう。


 でも、それは明日香だから出来たことだ。


 結局、天城は天城でしかないし、明日香にはなれない。それはもう分かっている。


 だったら、出来る方法でやるしかない。


「で、結局王子様って誰なの?」


 遠くから声が聞こえてくる。久遠寺のものだ。


「……行ってみれば分かる」


 柳と思わしき声が諭す。久遠寺がすぐさま、


「さっきからそればっか。まあ、何となく何がしたいのかは分かってるけど」


「……どうかな。少なくとも、お前の想定しているのとは大分違う結果になると思うぞ」


「何それ、」


 瞬間。屋上へ出る扉が音を立てて開き、久遠寺の姿が見える。久遠寺は「ほら、やっぱり」と呟いて、


「だと思ったよ。どうせあれだろ?天城の差し金だろ?」


 ばれていた。


 後から柳も出てきて、


「……さあ、どうかな。誰の意図か、なんて結局は曖昧なもんだからな。本当にこの状況を望んでいたのは、俺かもしれないぞ」


 久遠寺は振り返って呆れかえるような声で、


「なんだそれ」


「……さあな。それより、ほら。王子様がお待ちだ」


 天城は思わず、


「なんで王子様なんだ」


 柳は全く表情を変えずに、


「……お姫様を救うのは、王子様の役目だろう」


「お姫様ねぇ」


 久遠寺は視線を感じたのか天城の方を向いて、


「おうコラ、何が言いたい」


「いや、別に」


 そんな返しを受けて久遠寺がはっとなる。ここ最近はずっと、そんなやり取りすら皆無だった。恐らくはしないようにしていたのだろう。出来る限り天城とは距離を取っていたし、出来る限り鉢合わせたりしないようにしていたに違いない。


 それでも、こうやって顔を突き合わせてしまえば自然と口から言葉が溢れ出てくる。その事実に驚いたのは、他でもない久遠寺自身だった、のだろう。


 柳が話を纏めるように、


「……まあ、お姫様でなくても、王子様でなくてもいいけどな。でも、天城は話があるんだろう?俺は退散するから、じっくり話したらいい」


 半開きになっていた扉から退散しようとする。久遠寺が、


「ちょ、ちょっと待てよ」


「……なんだ?」


「いや、なんだ?じゃなくて。私言ったよな?屋上までは行ってやるけど、それ以降は保証しないって」


「……言ったかな」


「言った。間違いなく言った。もういいだろ。こうやって来たんだから」


 明らかな苛立ち。しかし柳は一切動じず、


「……まあ別に俺はそれでも良いんだが。お前は本当にそれでも良いのか?」


 沈黙。


 やがて久遠寺が諦めと怒り半分で、


「分かった、分かった。聞けば良いんだろ!?」


 振り向きもせず、天城を親指でくいっとさして、


「一つだけ教えろ、なんでアイツにそんな肩入れすんだよ」


「……肩入れか」


 少しの間をおいて、


「……別に肩入れをしてるつもりはない。ただ、単純に、そうした方が良いと思ったから、そうしただけだ」


 久遠寺は不機嫌さを少しも隠さずに、


「なんだよそれ。そうした方が良いって、私がアイツの話を聞いた方がいいってことか?」


 今度は間を開けずに、


「……そういうことだ。少なくとも俺にはそう、見えた」


 久遠寺は不快感を吐き出すため息をつき、


「まあ、いいわ。お前の考えてることは正直全く分かんないけど、聞いてやるよ。それでいいんだろ?」


「……ああ」


 久遠寺はしっしっと犬でも追いやるように、


「ならさっさとどっか言って。人に聞かせるようなもんでもないだろ。結果はまあ、後で教えてやるから」


 柳は一つ頷き、


「……分かった。それじゃあ、後でな」


 それだけ言って、屋上を去っていく。


 静寂。


 暫くの間久遠寺は振り向かない。


 天城は柳と久遠寺の間に交わされた会話を知らない。


 だから久遠寺が、一体何を考え、どんな表情をしているのか、その全貌を掴むことは出来ない。


 しかし、想像することは出来る。


 先ほどのやり取りを見る限り、久遠寺が素直に屋上まで来たとは考えづらい。恐らく屋上に行く行かないでひと悶着があったはずである。それに対して柳が何を言ったのかは定かではないが、なんらかの手段で久遠寺を従わせたに違いない。


 そうしてやってきた屋上にいたのは、まだ見ぬ王子様などではなく、ここのところ意識して距離を取っている、現在仲違い真っただ中の天城征路せいじその人だったのだ。別に柳が騙したわけではないのだろうし、久遠寺は久遠寺で何が起きているのかは薄々理解していただろう。ただ、それと感情は別問題であり、この時点で久遠寺の機嫌は大分悪くなっていた。


 そして柳は、トドメとばかりに天城の話を聞いてやれと要求した。天城からしてみれば、久遠寺が受けるような話には見えないが、相手はあの柳である。二人の間にどんな会話があったのかは知る由もないが、天城の前で繰り広げられたやり取りだけみても、久遠寺は柳相手に強く出られない何らかの事情を抱えていることは明白である。結果として、久遠寺はかなり不本意ながら天城の話をきちんと聞いてくれるだろうし、途中で話を切り上げるような不誠実な真似はしないだろう。その機嫌の悪さと引き換えに。


 息を吸う。思っていたよりもずっと冷たい空気が肺の中へと溜まっていく。月は十二月。季節は既に秋を通り越して冬になろうとしている。試験期間中ということも有って、部活動の気配は全くない。ランニングをする運動部の掛け声も、教室に残って駄弁っている声も、今は聞こえない。時折笑い声は聞こえるが、そのボリュームもいつもよりも小さい。皆、期末試験という眼前の敵と戦うための備えをすべく、帰路についている。


「久遠寺」


 声をかける。久遠寺は動かない。天城は続ける。


「少し話したいことがあるんだが、聞いてくれるか」


 まだ動かない。恐らくはそれが、彼女なりの抵抗なのだろう。


 それでもいい、と天城は思う。むしろ、それくらいの方が良い。理屈で考え、仮面を被って守りを固められるよりもずっといい。何故ならこれから、


「……鷹瀬たかせから聞いたんだよ、色々とな」


 その守りを完全に壊しにかかるのだから。

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